この本は確かに現代社会に「理論」を打ち立てようとしていますが、わたしは「セオリー」というのは自然科学の用語だと思うので「論理」(ロジック)とします。
ロジックとセオリーの違いは、セオリーがほぼ絶対の法則なのに対して、ロジックは人の考え出した曖昧なモノで、社会も人が作ったモノなので相応しいかと思います。
ここでまず「現代社会の理論」の論点を大まかに3つに分けますと、①マルクス理論を超えた消費社会の拡大、②情報化社会と成長の限界、③社会を回転させる理論の必要性、になるかと思います。
①については、資本(自由)主義がマルクスの理論を超えたコトは歴史的事実かも知れませんが、その消費社会が持続可能なのは貧しい国々を搾取しているからで、拡大し続ける消費社会は確実に地球環境を破壊すると見られます。
「現代社会の理論」では、豊かな消費社会が発展途上国を如何に搾取して来たかが「水俣病は終っていない」という本を引用して深く追求されており、先進国で起きた環境破壊による疫病の蔓延は、発展途上国で繰り返されていると告発しています。
そうした消費社会の病理も追求されており、「市場システムの永続する活力を保障する前提は、空虚な無根拠性による」と結論しています。
これは些かシニカルな論理に思えますが、現状に於ける自由主義社会はそんなモノかも知れません。
著者は続いて資源枯渇の面から「成長の限界」を論じており、それを克服できるかも知れない理論として「情報化社会」の可能性を論じていますが、わたしにはそれは些か空虚な論理に聴こえました。
そこでは「情報」を「物質」と対を成す根源的なモノとして論じており、情報化社会は究極的には脱物質化社会へ通じると示唆しています。
しかし社会学の限界として「情報」を「真理」とまで高めるコトは出来ず、いつその究極の情報化社会が来るのかも分からないので、やはり空虚な理論に思えます。
③についても著者は明確な理論を示せていませんが、この空虚な消費社会の拡大を回転させる必要性は「地球白書」などを引用して力強く論じており、わたしもそれにはもちろん賛同します。
物質的発展が行き過ぎて、もうギャンブルくらいしか街でやるコトがない人が溢れているのは、なにも東京やニューヨークばかりではなく、発展途上の首都カトマンドゥも同じです。
もう朝になってしまいましたが、まだまだ勝負し続ける金も持ち連中でカジノは溢れており、わたしも最小ベット(千円)のキッティー(9枚ポーカー、1番スローなゲーム)でまたオールナイトしてしまいました。