この「120の妙なる法」シリーズでも、ジョンレノン、ジミヘン、ジョンデンバー、ボウイ、クィーン、そしてピートシーガーと死者の歌を紹介して来ました。
彼等の歌声はデジタルリマスターされて永遠の波動になり、遥か後世まで多くの人々の心と共鳴し続けて行くでしょう。
こうした「共鳴」こそが魂を甦らすと思え、一般の人々の魂でも、経がりのある人達と共鳴して残り続けると言えます。
こうした精神の経がりこそが「死後の魂」であり、経がりを作れなかった精神が寂しさからこの世に留まり続けると云ったアイデアには、余り共感しません。
私はヒトも動物とさして変わらないと思い、毎年多くの動物がと殺される牧場で働けるのも、「死後の魂」に対して醒めた感覚を持っているからでしょう。
しかし、そうした動物の精神を供養したい気持ちはあり、出来るだけ彼等の「生」を全うさせてあげたくも思います。
これは経済性を損なうコトになるのですが、そこは観光牧場としてなんとか老牛にも活躍して貰い、子牛に哺乳する光景などを観せられたら善いかと思います。
次に何を語るべきか迷いますが、「精神=魂」は主観的なモノで、普遍性は無いと強調して置きたく思います。
つまり、私たちの精神が「死者の魂」と共鳴するコトで初めてそれは存在し、どの精神と共鳴するかは個人に任されているので、そのガイダンスは在って然るべきかと思います。
これは学校でも教えるべき重要な課題に思えますが、何故か誰一人として「死者の魂」を紹介してくれた先生を思い出せません。
日本の教育は殊更に「魂」を避けて、薄っぺらいモノに成ってしまっている感は拭えません。
歴史物語の役割はそうした「穴」を埋める所にあり、次回からまた中国の革命で闇に葬られた「魂」を甦らす取り組みに戻ります。