まずは遠回しに、昨日図書館から借りて来て観た映画「俺たちに明日はない」の話から入らせて貰います。
これはアメリカ大恐慌の時代に実在したボニーとクライドの物語で、そのあまりの救いの無さに「宗教的救い」を求める気持ちにさせられました。
しかし現実にそんなモノは無く、このとてもナイーブなカップルは蜂の巣にされてしまいます…
こうした現実は今も地球上で繰り返されており、そんな人類の愚かさを救う為に「いと貴きモノ」のガイダンス(導き)を求める気持ちは理解できます。
しかし現代の日本では、そんな「救い」は滅多に必要とされないのも現実です。
私が日本で関わって来た宗派はどれも他愛の無いモノで(創価学会、統一教会、エボバの証人、真如苑、顕正会)、これらは文字通り他の宗派への愛を持たないモノばかりでした。
一方海外では、本物の宗教と出会ったコトがあります。
それは共産革命下(国王が暗殺された)のネパールで、ルンビニ(ブッタの生誕地)の日本山妙法寺が企画した平和行進に参加した時で、上人達に付き従がってマオイスト(毛沢東主義者)の支配する山岳エリアを太鼓を打って一月行進しました。
そこはチベット仏教を奉じるシェルパ族のエリアで、日本の「南無妙法蓮華経」は容易に伝わってとても歓迎されました。
政府軍と戦っている革命下でも、多くの人々は心の底で平和を願っており、日本の僧侶達の到来はその実現として受け止められました…
このルンビニ日本山の長老である行哲上人は、アフリカのザンビア(旧ローデシアの時代)に仏舍利塔を建てようと長年精進された方で、彼は高齢のため山岳地帯の平和行進には参加できませんでしたが、その鋭い眼光と語り口に私は引き込まれ、初めて宗教というモノの力を感じました。
日本にも日本山は在り、毎年東京から広島まで3ヶ月間の平和行進を行っています。
これは30年以上も続けられており、宿泊はお寺や教会が恒例行事として歓待してくれます。
宗教は狭い宗派に閉じ籠ると中毒症状を呈しますが、広く他宗派と共存共栄を求めれば、社会に平和をもたらす善き交流の場になると思います。