真の動物福祉牧場を目指して

文徳の遺言

標高5500mの峠でも、夏場の晴れた日中は暖かくてペンを持て、文徳は自分のバックパックを机にして遺言を書き始めます。
彼の文は峠からの眺望のように遠くの世界を見通し、それは時間の枠を越えて未来までも見晴るかす。
そんな文徳としても此までにない深さに達した、禅定の悟りを文章に生かせました。

彼の中国の未来を思う心は丸1日かけても書き切れず、 日が沈むともう寒くて指が悴むのでペンは持てなくなり、彼は書き終える為にもう一晩を明かす必要に迫られます。

これまで3人で寄り添う事で暖をとって来ましたが、1人では体が冷えて話し相手もいないので心も冷え、危うく眠って逝ってしまいそうになります。
しかしそんな文徳を励ましたのは、その夜も美しく広がる天の川で、この時の彼は天との対話ができてなんとか命の炎が経がります。

次の日で遺言を書き終え、それは予め用意していた手帳を小さい几帳面な字が埋める、本と呼べるシロモノでした。
文徳は仕事をやり終えた達成感を持って夕日を見送り、3晩ぶりに深い眠りに着いて星々の世界へと逝きます。

翌日の昼間に捜索部隊は峠に到達し、孫文徳を発見して救われます。
この頃には兵士達は追走と戦いの為に疲労困憊しており(ヒロポン切れも)、それでも文徳を確保するまでは国境侵犯などお構いなしに下って行かなくてはならず、それは自分達の命を危険にさらす捜索になるだろうと覚悟していた折でした。

文徳の死が確認され、持ち物も手帳の他には特に何も無く、呆気ない任務完了に拍子抜けしつつも胸をなで下ろして兵士達は引き揚げて行きます。
彼等はほとんどが貧しい農村の次男、三男などで(昔の中国は七男なんてザラだった)、農村を破滅させた共産党に反感を抱く者も多々おり、それ故にケチャの部隊は不殺生を貫いていたので、この苦難の行軍における人民解放軍の死者はゼロでした。

後に、このヒマラヤ捜索部隊に加わった50名程の元兵士達が年をとってから久々に集う時、彼等は必ず自分達の命を救ってくれた孫文徳への感謝を口にして、彼の残した遺書について語り合う様になります。

孫文徳の死を70年(享年50歳)とすると、もうすでに元兵士達は70歳前後になっております。
この世代でチベット方面軍に徴兵された人達の回顧録が自由に出版されたならば、恐らく世界は衝撃を受けて中国の民主化を信じるように成る事でしょう。










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