真の動物福祉牧場を目指して

同郷の同志

希聖(シーシェン)が大躍進政策の誤りに真摯に向き合えたのは、同郷の先輩同志である徳懐(トゥオファイ)のお陰でした。

しかしその経緯はこんがらがっており、始めトゥオファイが廬山会議('59)で大躍進政策を批判した時、シーシェンはそれに真っ向から立ち向かいました。
それは沢東(ヅェドン)の肩を持つ為で、シーシェンはヅェドンの右腕であり後継者とも目されていました。

因みにこの2人の年齢は12歳離れており、共に蛇年の生まれでした。
一方トゥオファイはシーシェンよりも7歳上で、2人は同郷で十代の頃から革命を志す同志として結ばれていました。

大躍進が一年経過した所で開かれた「廬山会議」は本になっており、そこでの論争は克明に記録されております。
3日に及ぶ激論の末、トゥオファイ等良識派は敗れ去り、大躍進はますます破局へと突入して行く事となります。

トゥオファイはこの後獄中で自伝を書き残しており、それは今でもけっこう読まれています。
中国もある程度は大躍進の誤りを認めているので、それを止めようとした英雄として徳懐の人気はかなり有ります。

トゥオファイの徳は、まずなんと言ってもその極貧の貧農出身という点で、そのどん底階級から這い上がって軍のトップにまで成った立志伝が、多くの人民の心を掴みました。

徳懐の青春時代は清末の混沌とした闇世で、孫文の革命軍の他にも天下を狙う軍閥が林立しており、そうした匪賊軍は過酷に人民を搾取しました。

疑い無く正義は革命軍にあり、トゥオファイもそれに投じて故郷を軍閥の圧政から解放します。
彼はその時は軍人に成らず故郷の留まり農業を続けますが、1927年に湖南で最初のソビエト地区が誕生した時には地元の農民軍を率いる存在に成っていました。

シーシェンとトゥオファイはその後人民解放軍の中核となる存在となり、希聖が人民解放軍を陰の工作によって支えたのに対し、徳懐は表の顔として人民に親しまれる軍を演出し、共産党は農民からの圧倒的な支持を得られて勝利しました。

その人民の支持を集めたトゥオファイの徳は、貧しさにも喜びを見い出す明るさでした。
彼は作物の味と質にこだわる熱心な農民で、儲けよりも如何に作物を強健に育てるかを追求したので、ずっと借金で首が回りませんでした。
それでも彼は最高の作物を周りの人々に配れ、自分でも食べて強健な身体を作ります。
湖南で500万人を組織した農民組合が、国民党から弾圧されて山岳地帯の江西省へ追いやられた時も、部隊が厳しい山奥で自活できたのは徳懐のような篤農家がいたお陰でした。
その後も絶え間なく戦争が繰り返される中で、トゥオファイはいつしか部隊の志気を高められる指揮官に成長して行きました。

徳懐は軍のトップに成ってからも、自分の畑に愛着を持ち貧農だった頃の付き合いを大事にしておりました。
そのお陰で地に足の着いた考えを堅持する事ができ、農村の実情にも通じていて集団農業の失敗をいち早く警告できました。

そんな徳の高い同志を政治的に葬った希聖は、もちろん集団農業が失敗している事は知っており、徳懐やソ連帰りの知識人達(ソ連でも集団農業が失敗して多くの餓死者を出した)の意見が正しい事も知っていましたが、それを認めませんでした。

当時のシーシェンは周りの幹部と同じく政治的な闘争に心を奪われており、農民は逞しいのでいくら絞っても餓死するような事はないだろうとタカを括っていました。
しかし農民が逞しかったのは自由に作物を作れたからで、完全に管理された集団農場では隠れて栽培する術もなく、配給が途絶えれば飢える他ありませんでした。

徳懐の供述した故郷の惨状は、いつしか希聖の心を動かして、永く置き去りにしていた故郷に向かわせます。
そこで彼は年老いた両親が既に餓死した事を知り、里に留まった幼なじみ達も餓死しかけてるのを見ます。

シーシェンは自分が勝利に導いた革命に確信が持てなくなり、農民の為の革命だった筈だと改心して集団農業の失敗を認めます。

失敗を認める事は自己批判(総括)の第一歩ですが、中国はそれを認めるまでに余りに長くの時と労力を消耗してしまい、そうして積み上げられた矛盾はもはや崩せない壁に成長している観があります。

その壁を打ち崩せるのはただ中国人民のみかと思え、彼等に力を与えられたらと願います。





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