筑紫文化財研究所

筑紫における歴史的文化の探求と漫遊

野間焼について1

2013-03-23 09:51:57 | 野間焼
文献資料

(1)「福岡藩民政誌略」高取焼及酉皿山焼、博多素焼物の起源
(「福岡藩民政誌略」明治20(1887)年長野誠(「福岡県史資料」第1号に収容))

「瓦町焼は瓦缶の類にて、神前に献る土まりを始め、雅人の用うる風櫨、連甕及び日用の火
櫃糞缶等なり。中にもヒチリンと称するは、聖福寺子院虚白院の智首座が思得しより・始めて製せしものなり。今は戸毎に日々煮灸の用とする。他邦にも発売する事少なからず、此瓦鉦の起源をしるせし書を見ざれども、瓦工の播磨より黒田氏に従い来し者を、博多の南辺に居らしめ、慶長六年築城の日、瓦を作らしめられしょり、その居所を瓦町と名づく。その製瓦より他器をも発明せしと聞こえて、宗七と称せし良工も、播磨より来りし瓦工にて、正木氏なり。今は瓦町に隣れる祇園町、上新川端町にも、同製の瓦鉦を成す。よりておもへば、二百年前後に,起こりしならん。白焼と称するは、瓦町の'(ママ)と称する者・文政・天保の頃・野間・高宮の白土を以て)始めて製す。又同地にて製する土偶人は文政の頃・肥後熊吉というもの来たりて、著色までも教えしに起こる。
 小石原焼と称するは、(ママ)人天和中上座郡小石原村の支邑中野に来り、肥前の盗器
に徹ひて製造す。故に中野焼共称す。貞享中は皿山奉行を設て、藩用とし、頗る盛なりしに、享保の末より、改めて水瓶、酒徳牙]」等を製す。工なれども僻遠の運送便ならざる地なれば、其近村の民に便りするのみ。寛政年は陶工八戸、窯3区ありしと聞ゆ。
西皿山焼は享保三年小石原に居し陶工数人を、早良郡鹿原村に移らしめられる。元の如く民
用の播盆、水缶、井垣、夜壼の類を製す。寛政中は陶人二十七戸、窯を三処に設けたり。藩より陶戸に本銭を貸して1その成せし器を収む。奉行を置きて、その事業を掌しめ・士庶の乞う者には、廉価を以てうりいださしむ。有司その利至徹なるを以て、廃せんと議せしかども、日用閥べからざる器なるに、国製なくば他邦の高価なるを求めずば叶ふべからずして・諸人の憂とならんとて、その言を用いずして、今に至れり。(中略)
 野間焼は那珂郡野間村の字柳河内にて製する日用下品の茶瓶等也。文政中国産会所を置かれし時、博多瓦町に陶窯を築き、須恵村の陶人を招き、野間の土を採り、鹿品の莞器を製せしめけれ共、幾程もなく廃しければ、国主の命にて、安政三年六月より、別に柳河内にて製することとなれり。」