文庫化済みの恩田陸作品を読みきったため、新年から新たな作家を開拓している。
ふと鷺沢萌に手が伸びたのは、忙しい春休みの中にポッカリ空いた『何もない日』だった。
「ヨイは良い子だ。良い子になるように、ヨイと付けたんだぞ」
「柿の木坂の雨傘」には見覚えがあった。
半年くらい前の夏季講習で私はこの文を音読し、塾生たちに15分の時間を与えて解かせ、また15分程度で『解答解説』をする。
国語を担当してから3年になるが、数々の問題文たちを読書経験には含めたくなかった。
「自分の感想は持たなくていい。作者の気持ちは読み取らなくていい。理解しなきゃいけないのは、問題作成者の気持ちだよ」
それは私自身に言い効かせていた言葉でもあった。
何も国語が得意だったわけではなく、どちらかと言えば苦手なほうだった。
国語講師に抜擢されたのは文学部に在籍していたから、それだけだ。
活字を読むのは大好きだったけれど、私はいつだって自分の感想を持ってしまい、作者の心、それこそ行間に隠れているような心情の部分さえ読み取ろうとしていた。
ピント外れの答えを書き、真っ赤なバツをつけられる。
何人かの教師には「これも答えに含まれると思います」と言いにいった。
抗議は最初が肝心だ。
「でも答えはこうだから」と瞬殺した教師には二度と抗議をしない。
少しでも話を聞いてくれた教師には、私は日頃の倍近くおしゃべりになった。
そのときにはもうテストの丸やらバツやらはどうでもよいことで、代わりに課題として出される作文に心から取り組んだ。
教師たちも熱心に読んでくれたようで、安易な評価代わりに様々な疑問をぶつけてきた。
「このときはどういう心情だったの」
「私だったらここは違う表現にするかな」
職員室の脇や放課後の教室で、私は何か心が満たされた気持ちになり、その心を開いてもいいとさえ思った。
塾の存在意義は「成績アップ」である。
行く末には志望校を母校にするのである。
だからこそ塾生たちには、私のような回り道をしてほしくなかった。
読み取るべくは問題作成者である、と言いきった。
しかし抗議を一度切りで終えた教師たちの顔が頭に浮かび、吐気を催しそうになった。
――活字は本当はもっとずっと高尚なものである。
――誰の気持ちだとか何字以内だとか選択肢なんかない、好きなように読めばいいのだ。
何度か「答えに納得がいかない」と抗議にきた塾生がいた。
私は手をとめ説明を加えた、というより話を聞いた。
そのたびに思うのだ、ああこういう見方もあるのだな――と。「確かにそうも考えられるね。実は私の考えも解答と違うんだヨ」
納得行かせたことは少ないが、それでも彼や彼女たちが読書との区別をつけられるようアシストしたつもりではあった。
「柿の木坂の雨傘」に再会したのは、そんな3年間の先生時代を終えて残りの春休みを持て余していた時期だった。
――ああ、これ見たことある。
そう、ここでヨイの心情を読み取る問題があって、文法はこの部分。
時々自分の記憶力に驚くときがあるが、今回も細部に至るまで覚えてしまっていた。
しかし入試問題集で見る活字と文庫本で見る活字とはだいぶ違った印象で、まるで違う話を読んでいるかのような錯覚を感じた。
「今、私は自分の読書経験を豊かにしている」
不意にそう思った。
職員室の脇や放課後の教室、キラキラ輝く茶色の風景を思い出した。
この鷺沢萌の短編集に登場する20の主人公たちは、生きる場所を少し間違えながらも何かを輝きを掴もうとしている。
納得がいかないと抗議してきた塾生たちも、いつか私みたいな気持ちを抱くときが来るのだろう。
それが何年後か、何十年後かは判らないけれど。
海の鳥や空の魚だから仕方がないなどと腐らないでほしい。
キラキラ輝く一瞬を求めて「豊かな人生」を歩んで欲しい。
ふと鷺沢萌に手が伸びたのは、忙しい春休みの中にポッカリ空いた『何もない日』だった。
「ヨイは良い子だ。良い子になるように、ヨイと付けたんだぞ」
「柿の木坂の雨傘」には見覚えがあった。
半年くらい前の夏季講習で私はこの文を音読し、塾生たちに15分の時間を与えて解かせ、また15分程度で『解答解説』をする。
国語を担当してから3年になるが、数々の問題文たちを読書経験には含めたくなかった。
「自分の感想は持たなくていい。作者の気持ちは読み取らなくていい。理解しなきゃいけないのは、問題作成者の気持ちだよ」
それは私自身に言い効かせていた言葉でもあった。
何も国語が得意だったわけではなく、どちらかと言えば苦手なほうだった。
国語講師に抜擢されたのは文学部に在籍していたから、それだけだ。
活字を読むのは大好きだったけれど、私はいつだって自分の感想を持ってしまい、作者の心、それこそ行間に隠れているような心情の部分さえ読み取ろうとしていた。
ピント外れの答えを書き、真っ赤なバツをつけられる。
何人かの教師には「これも答えに含まれると思います」と言いにいった。
抗議は最初が肝心だ。
「でも答えはこうだから」と瞬殺した教師には二度と抗議をしない。
少しでも話を聞いてくれた教師には、私は日頃の倍近くおしゃべりになった。
そのときにはもうテストの丸やらバツやらはどうでもよいことで、代わりに課題として出される作文に心から取り組んだ。
教師たちも熱心に読んでくれたようで、安易な評価代わりに様々な疑問をぶつけてきた。
「このときはどういう心情だったの」
「私だったらここは違う表現にするかな」
職員室の脇や放課後の教室で、私は何か心が満たされた気持ちになり、その心を開いてもいいとさえ思った。
塾の存在意義は「成績アップ」である。
行く末には志望校を母校にするのである。
だからこそ塾生たちには、私のような回り道をしてほしくなかった。
読み取るべくは問題作成者である、と言いきった。
しかし抗議を一度切りで終えた教師たちの顔が頭に浮かび、吐気を催しそうになった。
――活字は本当はもっとずっと高尚なものである。
――誰の気持ちだとか何字以内だとか選択肢なんかない、好きなように読めばいいのだ。
何度か「答えに納得がいかない」と抗議にきた塾生がいた。
私は手をとめ説明を加えた、というより話を聞いた。
そのたびに思うのだ、ああこういう見方もあるのだな――と。「確かにそうも考えられるね。実は私の考えも解答と違うんだヨ」
納得行かせたことは少ないが、それでも彼や彼女たちが読書との区別をつけられるようアシストしたつもりではあった。
「柿の木坂の雨傘」に再会したのは、そんな3年間の先生時代を終えて残りの春休みを持て余していた時期だった。
――ああ、これ見たことある。
そう、ここでヨイの心情を読み取る問題があって、文法はこの部分。
時々自分の記憶力に驚くときがあるが、今回も細部に至るまで覚えてしまっていた。
しかし入試問題集で見る活字と文庫本で見る活字とはだいぶ違った印象で、まるで違う話を読んでいるかのような錯覚を感じた。
「今、私は自分の読書経験を豊かにしている」
不意にそう思った。
職員室の脇や放課後の教室、キラキラ輝く茶色の風景を思い出した。
この鷺沢萌の短編集に登場する20の主人公たちは、生きる場所を少し間違えながらも何かを輝きを掴もうとしている。
納得がいかないと抗議してきた塾生たちも、いつか私みたいな気持ちを抱くときが来るのだろう。
それが何年後か、何十年後かは判らないけれど。
海の鳥や空の魚だから仕方がないなどと腐らないでほしい。
キラキラ輝く一瞬を求めて「豊かな人生」を歩んで欲しい。
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