「百里物語」~目次~

2005年12月19日 | 歴史「百里物語」
もくじ

駆け足で走ってみる 百里基地反対運動の40年 

1、激しい攻防の百里原へ
  防衛庁事務所の投石破壊事件
  弾圧に抗して
  資材搬入との闘い
  激動のなかでの決断が「百里裁判」に
2、愛町同志会の不思議 
  会長も役員もいなかった
  間違われた肩がき
3、逆流のりこえて新たな闘いへ
  反対同盟の解散
  降ろされた旗をふたたび揚げて
  たたかいのチエ「一坪運動」の始まり
4、元委員長はなぜ落ちたのか
  橘中学校全焼の怪
  「中学校再建」で窮地にか
  後継者問題の悩みか
5、“どっこい”誘導路は「く」の字だ
  水面下の闘いで先手
  「く」の字に曲げた仕掛人
  地図のつぶやき
  鏑木司令のはなし(一)
  鏑木司令のはなし(二)
  「あっ、ここに憲法があった」
  なんで「く」の字がおかしかろ
6、百里のお稲荷さん
  神頼み
  講演とやくざ芝居で「還宮祭」
  「さわらぬ神に……」で困ってしまったお稲荷さん
  ばあさま おっかさまたちの初午
  政府が大騒ぎした「百里タワー」事件
  「お稲荷さん淋しかっぺ」と大雪でも
  「初午」でなくなった初午祭
  尾崎先生が車椅子で神頼み

7、百里基地の危険な実態
http://anime.geocities.yahoo.co.jp/gl/yamanishi_s

駆け足で走ってみる百里基地反対運動の四十年③

2005年12月18日 | 歴史「百里物語」

Y女史町長が誕生して間もなく、百里原の現地では、防衛庁の動きが活発になっていった。 

反対同盟の農家ががんばっているために、滑走路建設の見通しは全くたっていなかったが、それにもかかわらず防衛庁は、すでに基地反対同盟以外の開拓農民から入手していた同地に、格納庫や隊舎などの施設を建設しようとしているのだった。


防衛庁は、着工に向けての準備として、まず、仮設道路の造成を開始してきた。 

仮説道路というのは、百里原の北側を通っている県道の、大和田←→旧侮軍航空隊正門の中間地点から、百里原の内部の 管制塔・司令部・格納庫などの建設予定地に至る、幅十数メートル、長さ千数百メートルの建設工事用の仮の道路のことである。


この仮設道路が、農道を分断してつくられたことへの抗議と、そこを通ってブルドーザーなどが建設現場へ進入するのを阻止するために、57年9月24日の雨の中、百名近い農民たちが仮設道路上に座り込んだ。

これに対して、警察機動隊が出動して実力排除の挙に出たのである。


これが、百里基地反対闘争における最初の警察力の介入であった。 

「最初の激突」といわれている闘いである。

その後、畑と防風林が広がる百里原の開拓地の中に、N松建設やK木建設などの現場事務所・飯場が建ち並び始めていく。

建設作業員がぞくぞくと送り込まれてくる。

その中には暴力団系の組も労務者をかき集めて入ってきた。


駆け足で走ってみる百里基地反対運動の四十年②

2005年12月16日 | 歴史「百里物語」

その年の8月には、基地設産に反対する約五十戸の百里原開拓農民によって「百里原基地反対期成同盟」(略称百里基地反対同盟)が結成された。 

反対同盟に参加しなかった開拓農民の多くは、基地誘致に賛成という意思からではなくて、土地が売れれば、苦しい、展望のもてない開拓生活から抜け出せると思ったからであった。


百里原をとりまく地域でも、基地設置に反対する動きがひろがり、その年の12月には、その住民運動の全町組織「小川町愛町同志会」が結成された。 

反対運動は、基地誘致運動の推進者、H町長のリコール運動へとすすみ、H町長をリコール成立前に辞職へと追いこんだ。 

つづく町長選挙で、愛町同志会と百里基地反対同盟は、愛町同志会の会長格のY女史を立てて、ふたたび町長の座をねらうH前町長と闘い、基地反対の女性町長を誕生させ、全国を「アッ」と驚かせた。 


基地の設置に反対する運動は、革新団体の支援も受けて、この時期には大いに高揚して、町の流れを基地反対の方向へと変え始めていったのだが……。 

しかし、防衛庁は、計画を断念はしなかった。

横田・横須賀・立川・厚木などの米軍基地をもつ首都圏に、どうしても、自衛隊の戦闘機の基地が必要だったからである。

それは、いわば至上命令ともいうべきものであった。


防衛庁、自民党、それに百里基地建設工事を受注した土建会社も加わった、強力な巻き返しが開始された。

町の基地誘致派に対するテコ入れと、基地建設工事の強行であった。


駆け足で走ってみる百里基地反対運動の四十年①

2005年12月14日 | 歴史「百里物語」

百里原は、水戸の南約30キロの小川町にあり、町村合併前の橘村と白河村にまたがる、その名のとおりの広大な地である。

楢や櫟の林と、一部に農地もあったこの百里原に1939年(昭和14年)海軍航空隊の飛行場が設置された。

百里原の飛行場は、太平洋戦争が激しくなるまでは、航空兵の養成・訓練の飛行場で、赤トンボとよばれたオレンジ色二枚羽の練習機が、田園の空を「ブルン・ブルン」と飛び舞っていて、それは、なんとなくのどかな風景でさえあった。


しかし、戦争が激しくなるにつれて、周辺の農家を強制的に追い出して、拡張につぐ拡張が進められ、戦争末期には実践の基地も兼ねるようになり、「特攻隊」を編成して前線に送り出すようになった。

また、米艦隊が日本本土に接近してからは、グラマン艦載機の空襲を度々受けるようにもなった。


日本の敗戦によって戦争が終わると飛行場は解体されて、百里原は開拓地となった。

約百五十戸の人たちが入植したが、まともな農機具も肥料もないときなので、入植者の開拓生活は困難をきわめた。

干ばつ冷害が続き、特に、飛行場造成で表土が削りとられた赤土のところでは、作物はまともに育たず、入植者たちは、食うにも事欠き、借金がかさむばかりだった。


こうした入植者の中には、基地の設置が計画される以前から、すでに、土地が売れれば借金を整理して、百里原から立ち退きたいと思うようになっていた人たちも少なくなかった。

 1954年に自衛隊がつくられた。

 “いつか来た みちをとっとこ 自衛隊”と詠まれたように、日本の軍隊=自衛隊は、その軍靴で、新しい憲法を踏みにじって再軍備の道をすすみ始めた。

このときから、自衛隊に反対し、平和を願い、憲法を守ろうとする国民は、国と闘わざるをえなくなったのである。


百里原への自衛隊基地設置の動きは、1955年のH小川町長の誘致運動で始まる。

そして、翌56年5月に、防衛庁は、百里原に航空自衛隊の戦闘機の基地を建設する計画を発表した。


基地設置に反対する動きは、急速に広がっていった。


駆け足で走ってみる百里基地反対運動の四十年~年表~

2005年12月13日 | 歴史「百里物語」
1939年(昭和14年)
百里原に海軍航空隊の飛行場が設置される

1942年(昭和17年)
百里原の海軍飛行場、数次にわたって拡張される

1944年(昭和19年)
百里原海軍飛行場、米艦載機に繰り返し爆撃をうける

1954年(昭和29年)
小川町・白河村・橘村の一町二村が合併し小川町となる

1955年(昭和30年)
6月
H小川町長、百里原に自衛隊の基地誘致を町議会に提案
誘致運動をはじめる

1956年(昭和31年)
5月
防衛庁、百里基地設置計画を発表する
8月
百里基地設置に反対する開拓農民五〇戸が百里基地反対期成同盟を結成する。
11月
小川町町議会、全員協議会で百里基地の誘致を決める
12月
百里基地設置に反対する住民運動の組織、小川町愛町同志会結成される

1957年(昭和32年)
1月
愛町同志会と百里基地反対同盟.H町長のリコール運動を開始する
3月
H町長.リコールの成立をまたずに自ら辞戦する
4月28日
小川町長選挙.H前町長と基地反対のY女史で争いY女史当選する
Y女史  4283票
H前町長 3518栗

4月
基地誘致派町議(定数20名中22名)二八会を結成し、反Y女史町政で結束を固める
6月
防衛庁、百里原で測量を開始する
9月
基地反対農民、ブルドーザーなどの工事現場への進入を阻止するために仮設道路上に座り込む
警察機動隊が出動して実力で排除
百里闘争で最初の警察力の介入
10月
百里基地反対青年同志会結成される
12月
百里原基地建設促進小川町協力会結成される

1958年(昭和33年)
3月30日
百里稲荷神社遷宮祭、愛町同志会・反対同盟二百人参加しておこなわれる

『KURENAI プロジェクト』の3安

『KURENAIプロジェクト』ブログは、「百里シンポジウム」での過程、「整備街・牧場・公園」の構想、有志の動きを随時掲載し、『IBARAKI』といえば「安全な空・安心な食・安らかな体」という3つの安を日本全国、アジア、世界に発信します。  この動きがまちを考える人達に勇気を与え、それぞれが動く事で発展していくことを希望します。