とりとも雑楽帳

狭山丘陵の里山歩きとクラッシク音楽の鑑賞日記です。

日本敗戦、75周年を迎えて。(その1)

2020年08月17日 | この本は面白い

 私は1948年生まれのまさに大戦後の団塊の世代だ。しかし親父の転勤で卒業はしなかったが7年間通った、神田鎌倉橋脇に神田川に面した千代田区立神龍幼稚園・小学校は、幼稚園から2クラスしかなかった。同じ東京でも品川区で生まれ育ったカミサンは、小学校も中学校もまさに団塊の寿司詰めのクラス編成での教育をうけたのだ。ただ都心の真ん中の学校だけに、鉄筋3階建ての校舎は、空襲で焼けた建物で、そのあとは外壁に残り、夕暮れになると「お化け屋敷」の様相を示していた。大人の人からは、空襲で学校も焼け、神田川には何人もの人が飛び込み死んだ話を聞かされた。

 当時は鎌倉橋を渡ると、東京駅までそれこそ広大な敷地は米軍の進駐軍キャンプ施設となり、戦車・装甲車・トラック・ジープで埋め尽くされていた。それが小学校3年の頃ある日無人の野原になった。そして、遊び場のなかった小学生には絶好の冒険広場に生まれ変わった。毎日学校帰りに悪ガキどもと、金網を破り、無人の野原で野球をしたり、冒険ごっこをして1日を過ごした。今から思えば日本で一番地価の高額なところで、立ち小便をして遊んでいたのだ。時同じ頃我が叔父は市谷の進駐軍司令部の兵隊向けに「ポテトチップス」を本職のアメリカ人と組んで製造販売をしていた。ラードで揚げたものでコクがあり旨かった。この売れ残りがわが「おやつ」だった。これは我が悪ガキどもに配り、昔話で「おまえの家にあったポテトチップはうまかったな!!!!」後年、思い出話として出てきた。しかし米軍撤退後、日本人向けにビヤホールに売り込みに励んだが、ラードの味が強すぎて当時の日本のビールの普及には会わず主流の日本酒・焼酎からは無視され、倒産したが、我が思い出の味としては今でも「旨いおやつ」だった。

 我が親戚には辛酸を極めての引揚者はいたが、戦死者はいなかった。しかし親父は靖国神社へは行った。私はお化け屋敷や、夜店につられ親父の後についていった。これが私の敗戦記念日の子供の頃の思い出だ。しかし天下の朝日新聞、そして対極をなす産経新聞ともども、なぜ8月15日は終戦記念日なのだ。戦後75年を経てまでも歴史を正しく見つめられないことこそが問題であろう。

 8月15日はポツダム宣言受諾の「負けました」と認めた敗戦記念日であり、ポツダム宣言受諾後の「対日講和条約締結日」の1952年4月28日の4月28日こそが終戦記念日であろう。と思いながらランダムでNetで購入した下記2冊を読んだ。

クリックすると大きくなりますがするほどの値がない本だと思います。少なくとも歴史書として値しない著者の物語(著者の主張とする根拠となるデータが皆無と言える)

 

A 個人的には、薄い本ながら、久しぶりに非常に読みごたえのあった本だ。戦争というものの本質が憎しみが憎しみを再生産する究極の愚かな行為を、数字を丹念拾い上げ積み上げて、戦死者数という証拠を示し読む側を説得した本と言える。


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