ミッキーの庭

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敦賀 ムゼウムへ

2024-05-28 07:11:05 | 旅行

明治35年にはウラジオストクと敦賀港との間に定期航路が開設されていた

 

ムゼウムとは     (ポーランド語で展示と言う意味)

 

ポーランドの孤児やユダヤの難民を敦賀の人々が温かくもてなし

人々は

敦賀を経由して第三国にわたってていきました

難民はポーランドの領事館「杉原千畝」によって命のビザの発給を受け

難民として流れてきた人々です

 

日本からヨーロッパへ

明治15年敦賀に鉄道が敷かれ

その鉄道は(東京から敦賀へ)

明治45年

敦賀とウラジオストックに定期航路が敷かれ

ウラジオストックを経由し シベリア鉄道経でベルリンやパリ ロンドンへとつながったそうです

つまり日本の交通の玄関は敦賀にあったのだそうです

 

鉄道資料館には当時のチケットも展示されています

この日の日程最後になったこの場所

時間も押して 

ガイドさん  走る走る  

湾の中 

海の砦もありましたよ 

鉄道資料館 

赤レンガ倉庫 で倉庫の姿を確認し 

 ムゼウム迄  走って

(建物画像はネットより)

走って走って   フゥウフウ~~~~

肝心なムゼウム資料館到着したら 

紹介映画5分ほど見ただけで記念写真を撮って出発 

もっと見るべきところはいっぱいだったのに残念!

 

羽二重餅の工場でお買い物したり

日本海魚街へ立ち寄ったり

お買い物時間も忙しい

〆はやはりこれ 笑

バナナとチョコのソフトクリーム

歩き走りまわった後はこれが美味しい 

 

朝からトータル9800歩程

昨日は相棒さんが買ったこんなお土産でお茶しましたよ

福井は恐竜の町なんです 大きな恐竜の骨格博物館も有ります (今回は立ち寄る予定なし)

 

大きな真ん丸の「う〇こ」柔らかなドーナツでした ハハハ

 

そして

あちらこちらの畑では

ムギが刈り取りを待つばかりの景色が広がっていました

昨日は 一緒に行かれたご近所のご夫婦

筋肉痛で動けないと

 

私はフイットネスへ

相棒さんは旅行後の雑用を済ませに

二人ともいつもと変わらぬ1日を過ごしましたよ

 

疲れたけど 筋肉痛もなく過ごしてます

 

上空は

線状降水帯がかかっているとかで 大雨予報が出ています

 

1日違い

最高のお天気の中 北陸まで行って来れました 

 

歴史を学ぶ社会勉強 北陸の方々への少しばかりのうるおい支援

実り多い旅でした


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6 コメント

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おはようございます (みーばあ)
2024-05-28 09:36:11
北陸の旅
良い旅されましたね
内容の濃いスケジュール
駆け足も有りでハードでしたね
でもお疲れも無く日頃の鍛錬がものを言いましたね
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みーばあさんへ (ミッキー)
2024-05-28 13:57:33
日帰り団体旅行はどうしても急かされますね
これ位急がないとみるべきところも回れないのでしょう
ついていく時はフウフウでしたが
後になって疲れを引ずる事もなくやれやれです
返信する
さすが (よう)
2024-05-28 16:40:15
日がえりだと やっぱり忙しいですね。
お遍路旅並みですね(笑)
それでも 美味しいモノ食べて お土産も買えて いろんなところを見学出来て
気分転換できたでしょう。
筋肉痛にもならず?さすが!
返信する
ようちゃんへ (ミッキー)
2024-05-28 20:40:16
山の中の永平寺から海の見える敦賀迄日本列島縦断しながらの観光は時間的にも急かされますね

特に最後になったムゼウム
現地で専属のガイドさんがバスの車両ごとにお願いしてあったようで
バスの出発に併せての移動は大変でした
自由に回れば振り回されずに済んだかも・・・

団体旅行だからこれは仕方ないですね

1日盛りだくさんの観光 ショッピング
楽しめました

普段 フィットネスに行っていたおかげか
筋肉痛にもならず何よりでした
返信する
杉原千畝 (ぐり)
2024-05-28 21:00:42
は岐阜県の人で
命のピザは有名なお話ですよね
杉原千畝の故郷は飛騨からは行きにくいところだそうで行く機会はなかなかありませんけど
返信する
ぐリさんへ (ミッキー)
2024-05-28 22:00:51
杉原千畝
岐阜県の誇る方ですね

当時リトアニアの領事館に勤めていた彼

迫害から逃れる人々にビザの発給を
彼自身もリトアニアを去るぎりぎりまでビザの発給続けたのですが、このビザの発給を日本政府は認めず彼独自の判断で
ビザの発給を最後まで続けたそうです

彼は日本政府から政府の指示に従わなかったとしてリトアニアの領事館に籍を置いていた事も末梢されてしまっていたんですね

その彼が最後まで発給し続けたビザを持って
シベリアを経由し敦賀を経て第三国へのがれた人々

今はその孫達が

我々がこの世に居られるのも日本のお陰だと交流が有るようですよ

当初
八百津が生誕の地だという事で八百津に資料館が作られましたが八百津は出地ではなかったようです

この資料館には 千畝がいた領事館を復元した部屋や当時発給されたパスポートなど展示されています
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