今日のフジテレビの夕方の視聴率はおそらく相当高かったろう。なにしろ安倍首相が異例中の異例で1時間半も生で現在進行中の政治課題について語ったのである。もし視聴率が低かったとしたら、それはそれで嘆かわしいというか、危ない感じがするだろうが。
ただこのテレビ出演は安部氏にとって失敗だったのではないか。何を言っているのかちっともわからなかった。もちろんぼくもテレビにかじりついて懸命に聞いていたわけではなく、仕事の合間のながら視聴だったのが悪かったかもしれない。しかしこれはテレビである。本当にわかりやすい話をしない限り、なかなか一般視聴者にはわからないのではないだろうか。結局、出演者のやくみつる氏が描いた三枚のマンガの方がずっとよくわかった。支持率という鎖かたびらを着た安部氏が世論の風に吹かれて、裸の王様ならぬ、裸の総理になってしまうというのと、「戦争にならない」というコシマキを、「安保法案」の本が「憲法」の本から奪い取るという風刺マンガだった。
安部氏の言っていることがわからなかったのは、国会で答弁していることとほとんど同じ言葉だったからだ。安部氏自らが国会では憲法論議ばかりで国民にわかりやすい政策論議ができないと嘆き、もっと国民にわかりやすく説明したいと言っていたにも関わらず、テレビ向けのわかりやすい言い方というものが全然無かった。答え方も国会答弁と同じで、質問されたことに直接答えるのではなく、話をそらし続けて本質的な問題を明確に語らなかった。国会論戦が分からなかった人に、これで分かれという方が無理だろう。
安部氏の一番悪いところは、たとえ話にするべきでないところでたとえ話をし、法律用語や政治用語で語るべきでないところで法律的、政治的な言い方をしたところだろう。
今日、安部氏が最も力を入れたのは「火事」のたとえ話だった。かなり力の入った模型を用意して、熱を込めて説明していた。そこには、日本の敷地に建つ日本の家と、道路を挟んだアメリカの敷地に建つアメリカの本宅と別宅がある。そこで、もし日本の家で火事が起こると、日本の消防士と駆けつけたアメリカの消防士が消火活動をする。アメリカの本宅に火事が起きた時は、ヨーロッパ各国の消防車がやってきて、アメリカの消防士と一緒に消火する。ここには日本の消防士は行くことができない。やがて火が別宅に飛び火する。そしてその火がいよいよ日本の家に延焼しそうだという段になって、やっと日本の消防士が道にまで出て(アメリカの敷地に入らず)別宅にむけて水をかける、というものだ。
正直言って、このたとえ話で今回の安保法案について理解できたという人は、そうとうに頭がよい。申し訳ないが、与党の国会議員でもこのたとえ話を正確に説明できる人はどのくらいいるのだろう。この話はむしろ世界地図の前で、実際の戦争の話としてやった方が、ずっとわかりやすいはずだ。なぜそうしないだろう。
「火事」のたとえ話については前のブログ記事でも書いたが、安部氏の模型では勝手に出火している火事は、実際には別のどこかの家とのケンカによって、誰かが火をつけに来る、もしくはつけられてしまったという話のはずである。集団的自衛権は一緒に火を消すのではなく、相手とのケンカに加勢するということだ。その点でこのたとえ話は抽象度があまりにも高くなってしまっている。
ただ今回の安部氏の説明でひとつだけ、やっとよくわかったところがあった。「戸締まり」のたとえ話である。安部氏はなぜ法案成立をこんなに急がなくてはならないのかと問われたのに対し、「これはどこか特定の国と戦争をするための法律ではなく、世界の安全保障環境が厳しくなったから、家に戸締まりをするというものだ。戸締まりなのだから、早くするに越したことはない」という論法で答えていた。
なぜ集団的自衛権の話が戸締まりの話になってしまうのか最初はだいぶ混乱して聞いていたのだが、つまり安部氏の論によれば、アメリカが攻撃された時に日本が助けに行けばアメリカとの信頼が深まり、それを見た他国が日本とアメリカの強い結びつきに恐れをなして、日本への攻撃を思いとどまるということらしい。つまりこの話はこれまでのアメリカの核の傘とか、アメリカの威を借る日本という話なのだ。これはむしろ戸締まりと言うより、玄関先に「SECOM」とか「ALSOK」とか「警察官立ち寄り所」とか「猛犬注意」などという看板を掲げるのに似ている。
そしてその意味を指摘しておけば、ようするに戦後の日本の外交路線をさらに伸ばしていくということでしかない。安部氏の強調する戦後レジームの脱却どころか、戦後レジームの純化であろう。
それはそれとして、やっぱりよく分からないのは、実際の法案には重要影響事態とか存立危機事態とか、本当に分かりづらい言葉が並んでいる。それが今回の安部氏の説明で何かわかったかというと、何一つ分からない。安部氏は国会では民主党が憲法論議に終始するからわかりやすい説明ができないというようなことを言っていたが、それ以前にこの法律の中に出てくる概念がそもそも分からないことだらけなのである。たとえば一部の改憲力の中に日本国憲法は文語調なのでわかりづらいから改憲した方がよいなどというバカらしい意見があるが、まず安保法案をわかりやすい言葉で書くことが先決ではなかろうか。
今日の安部氏の話の中で、もうひとつよく分かった点がある。それは前記の話に関連するのだが、安部氏の主張は、この問題は憲法論議ではなく、政策論議としてやるべきだというのである。他の国は安全保障論議はみな政策論議としてやっているという。
まず言っておくと、そもそもほとんどの国は軍隊も交戦権も放棄していない。戦争参加は必ずしも憲法違反にはならない。だから憲法論議にならないのである。そして多くの国に憲法裁判所か、それに類するものが存在している。違憲か合憲かはそこが判断するのであって、国会が判断するものではない。ところが日本には憲法裁判所がない。その役目を担うのは最高裁と言うことになるのだが、砂川判決に見られるように最高裁は安保問題について違憲判断を留保してしまう。そうである以上、国会が憲法論議の場になるのは当然なのだ。
さてその上で、安部氏が憲法論より政策論をと主張するのは、つまり憲法よりも現実の政策の方が優先されるという論理である。政権の政策は憲法よりも上位にあると言っているのである。これほど危険な思想はあるだろうか。別の言い方をすれば、政府は憲法に一々縛られる必要がないと言っているのと同じだ。なによりもまず第一に前提として憲法論議を徹底的にやって、その上での政策論だろう。こういう政治家や政党が「改憲」を言うことの滑稽さと不気味さを感じざるを得ない。
安部氏は今日、1時間半もの時間を割いて「国民に説明」した。安部氏にはこれが「丁寧な説明」なのだろう。しかしこれを見ていた人は気づいたに違いない。丁寧な説明というのは別に時間ではないのだと。
ここまで意味不明のことを何時間聞かされても人は理解などできない。丁寧というのは本当のことをありのままに説明することである。模型と人形を使って身近な話題に置き換え煙に巻くのが丁寧な説明であるはずがない。
安部氏は支持率のために政治を行っているわけではないとも言った。支持率が下がってもやるべきことはやると言う。つまりそれが昨年末の選挙の意味だ。支持率が下がることが分かっているから、あらかじめ選挙をやって与党勢力を最大にしておき(それは同時に傘下の議員の身分を保障して反乱させない方策でもある)、世論を押し切って強硬な独裁政治を貫徹する、まさにナチスの手法を採ったのである。いったい安部氏にとって支持率とか民主主義とは何なのだろう。
いみじくも本日、分野を横断して組織された「安全保障関連法案に反対する学者の会」が、「強行採決は国民の意思を踏みにじる立憲主義と民主主義の破壊だ」などとする1万1279人の共同声明を発表した。ここで呼びかけ人でもあるノーベル物理学賞の益川敏英京氏は安倍政権の打倒を訴えた。前の記事でも触れたように、事態はもう法案単独の問題を越えて安倍政権を倒す流れへと加速している。一見するとあまりにも強い安倍政権だが、実際にはもはや末期の様相なのではないだろうか。
今日の安部氏の異例のテレビ出演と、そこでの長々した自説の開陳は、かつて佐藤栄作総理の退陣会見を思い起こさせた。あのとき佐藤は新聞は嘘を書くと言って会見場から新聞記者を追い出し、たったひとりテレビカメラに向かって何かを訴えた。しかしそのとき彼が何を言ったのか全く記憶にない。ただ佐藤があまりに寂しい裸の王様に見えただけだった。
ただこのテレビ出演は安部氏にとって失敗だったのではないか。何を言っているのかちっともわからなかった。もちろんぼくもテレビにかじりついて懸命に聞いていたわけではなく、仕事の合間のながら視聴だったのが悪かったかもしれない。しかしこれはテレビである。本当にわかりやすい話をしない限り、なかなか一般視聴者にはわからないのではないだろうか。結局、出演者のやくみつる氏が描いた三枚のマンガの方がずっとよくわかった。支持率という鎖かたびらを着た安部氏が世論の風に吹かれて、裸の王様ならぬ、裸の総理になってしまうというのと、「戦争にならない」というコシマキを、「安保法案」の本が「憲法」の本から奪い取るという風刺マンガだった。
安部氏の言っていることがわからなかったのは、国会で答弁していることとほとんど同じ言葉だったからだ。安部氏自らが国会では憲法論議ばかりで国民にわかりやすい政策論議ができないと嘆き、もっと国民にわかりやすく説明したいと言っていたにも関わらず、テレビ向けのわかりやすい言い方というものが全然無かった。答え方も国会答弁と同じで、質問されたことに直接答えるのではなく、話をそらし続けて本質的な問題を明確に語らなかった。国会論戦が分からなかった人に、これで分かれという方が無理だろう。
安部氏の一番悪いところは、たとえ話にするべきでないところでたとえ話をし、法律用語や政治用語で語るべきでないところで法律的、政治的な言い方をしたところだろう。
今日、安部氏が最も力を入れたのは「火事」のたとえ話だった。かなり力の入った模型を用意して、熱を込めて説明していた。そこには、日本の敷地に建つ日本の家と、道路を挟んだアメリカの敷地に建つアメリカの本宅と別宅がある。そこで、もし日本の家で火事が起こると、日本の消防士と駆けつけたアメリカの消防士が消火活動をする。アメリカの本宅に火事が起きた時は、ヨーロッパ各国の消防車がやってきて、アメリカの消防士と一緒に消火する。ここには日本の消防士は行くことができない。やがて火が別宅に飛び火する。そしてその火がいよいよ日本の家に延焼しそうだという段になって、やっと日本の消防士が道にまで出て(アメリカの敷地に入らず)別宅にむけて水をかける、というものだ。
正直言って、このたとえ話で今回の安保法案について理解できたという人は、そうとうに頭がよい。申し訳ないが、与党の国会議員でもこのたとえ話を正確に説明できる人はどのくらいいるのだろう。この話はむしろ世界地図の前で、実際の戦争の話としてやった方が、ずっとわかりやすいはずだ。なぜそうしないだろう。
「火事」のたとえ話については前のブログ記事でも書いたが、安部氏の模型では勝手に出火している火事は、実際には別のどこかの家とのケンカによって、誰かが火をつけに来る、もしくはつけられてしまったという話のはずである。集団的自衛権は一緒に火を消すのではなく、相手とのケンカに加勢するということだ。その点でこのたとえ話は抽象度があまりにも高くなってしまっている。
ただ今回の安部氏の説明でひとつだけ、やっとよくわかったところがあった。「戸締まり」のたとえ話である。安部氏はなぜ法案成立をこんなに急がなくてはならないのかと問われたのに対し、「これはどこか特定の国と戦争をするための法律ではなく、世界の安全保障環境が厳しくなったから、家に戸締まりをするというものだ。戸締まりなのだから、早くするに越したことはない」という論法で答えていた。
なぜ集団的自衛権の話が戸締まりの話になってしまうのか最初はだいぶ混乱して聞いていたのだが、つまり安部氏の論によれば、アメリカが攻撃された時に日本が助けに行けばアメリカとの信頼が深まり、それを見た他国が日本とアメリカの強い結びつきに恐れをなして、日本への攻撃を思いとどまるということらしい。つまりこの話はこれまでのアメリカの核の傘とか、アメリカの威を借る日本という話なのだ。これはむしろ戸締まりと言うより、玄関先に「SECOM」とか「ALSOK」とか「警察官立ち寄り所」とか「猛犬注意」などという看板を掲げるのに似ている。
そしてその意味を指摘しておけば、ようするに戦後の日本の外交路線をさらに伸ばしていくということでしかない。安部氏の強調する戦後レジームの脱却どころか、戦後レジームの純化であろう。
それはそれとして、やっぱりよく分からないのは、実際の法案には重要影響事態とか存立危機事態とか、本当に分かりづらい言葉が並んでいる。それが今回の安部氏の説明で何かわかったかというと、何一つ分からない。安部氏は国会では民主党が憲法論議に終始するからわかりやすい説明ができないというようなことを言っていたが、それ以前にこの法律の中に出てくる概念がそもそも分からないことだらけなのである。たとえば一部の改憲力の中に日本国憲法は文語調なのでわかりづらいから改憲した方がよいなどというバカらしい意見があるが、まず安保法案をわかりやすい言葉で書くことが先決ではなかろうか。
今日の安部氏の話の中で、もうひとつよく分かった点がある。それは前記の話に関連するのだが、安部氏の主張は、この問題は憲法論議ではなく、政策論議としてやるべきだというのである。他の国は安全保障論議はみな政策論議としてやっているという。
まず言っておくと、そもそもほとんどの国は軍隊も交戦権も放棄していない。戦争参加は必ずしも憲法違反にはならない。だから憲法論議にならないのである。そして多くの国に憲法裁判所か、それに類するものが存在している。違憲か合憲かはそこが判断するのであって、国会が判断するものではない。ところが日本には憲法裁判所がない。その役目を担うのは最高裁と言うことになるのだが、砂川判決に見られるように最高裁は安保問題について違憲判断を留保してしまう。そうである以上、国会が憲法論議の場になるのは当然なのだ。
さてその上で、安部氏が憲法論より政策論をと主張するのは、つまり憲法よりも現実の政策の方が優先されるという論理である。政権の政策は憲法よりも上位にあると言っているのである。これほど危険な思想はあるだろうか。別の言い方をすれば、政府は憲法に一々縛られる必要がないと言っているのと同じだ。なによりもまず第一に前提として憲法論議を徹底的にやって、その上での政策論だろう。こういう政治家や政党が「改憲」を言うことの滑稽さと不気味さを感じざるを得ない。
安部氏は今日、1時間半もの時間を割いて「国民に説明」した。安部氏にはこれが「丁寧な説明」なのだろう。しかしこれを見ていた人は気づいたに違いない。丁寧な説明というのは別に時間ではないのだと。
ここまで意味不明のことを何時間聞かされても人は理解などできない。丁寧というのは本当のことをありのままに説明することである。模型と人形を使って身近な話題に置き換え煙に巻くのが丁寧な説明であるはずがない。
安部氏は支持率のために政治を行っているわけではないとも言った。支持率が下がってもやるべきことはやると言う。つまりそれが昨年末の選挙の意味だ。支持率が下がることが分かっているから、あらかじめ選挙をやって与党勢力を最大にしておき(それは同時に傘下の議員の身分を保障して反乱させない方策でもある)、世論を押し切って強硬な独裁政治を貫徹する、まさにナチスの手法を採ったのである。いったい安部氏にとって支持率とか民主主義とは何なのだろう。
いみじくも本日、分野を横断して組織された「安全保障関連法案に反対する学者の会」が、「強行採決は国民の意思を踏みにじる立憲主義と民主主義の破壊だ」などとする1万1279人の共同声明を発表した。ここで呼びかけ人でもあるノーベル物理学賞の益川敏英京氏は安倍政権の打倒を訴えた。前の記事でも触れたように、事態はもう法案単独の問題を越えて安倍政権を倒す流れへと加速している。一見するとあまりにも強い安倍政権だが、実際にはもはや末期の様相なのではないだろうか。
今日の安部氏の異例のテレビ出演と、そこでの長々した自説の開陳は、かつて佐藤栄作総理の退陣会見を思い起こさせた。あのとき佐藤は新聞は嘘を書くと言って会見場から新聞記者を追い出し、たったひとりテレビカメラに向かって何かを訴えた。しかしそのとき彼が何を言ったのか全く記憶にない。ただ佐藤があまりに寂しい裸の王様に見えただけだった。