あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

白票、ボイコットと我々の責任

2014年12月05日 11時08分48秒 | Weblog
 新聞各社の世論調査によると今回の選挙では自民党が単独で300議席以上を獲得するという結果になった。各社の結果がほとんど同じだから、確度の高い分析だ。別にさほど不思議なことではない。こうなる予測があったから安倍さんはこんな時期に解散に打って出たのだ。

 90歳の母はテレビニュースの街頭インタビューで、「誰に入れても同じだ」とか「よくわからない」から選挙に行かないという人の声に納得いかない様子だ。「おかしいねえ」と言う。
 母の世代は戦前と戦中と戦後を知っている。さらに言えば母の親の世代は明治の後半から大正デモクラシー、そして昭和ファシズムの台頭までの歴史を体験している。戦前には女性に参政権はなく、また軍事教育と大政翼賛の時代でもあった。その中で母の父は「アメリカと戦争をやったら負ける」と断言していたそうだ。
 母にとって敗戦は「すごくうれしかった」出来事で、何より灯火管制が解けたのが一番うれしかったようだ。現代のぼくたちには想像できないが、実際にグラマン戦闘機から機銃掃射を受けて逃げ惑ったのである。そういう壮絶な体験をこの世代の多くの人が味わっている。

 そんな母が、選挙権という民主主義における最重要の権利を簡単に放棄してしまう人達のことを理解できないのも無理はない。
 「投票しなくちゃ変わらないじゃない」と母は言う。あまりにも真っ当な意見だから否定のしようがない。しかし、あえて「変わらない」ことを目論み、投票率を低く抑えるために、このタイミングで選挙を打ったのが安倍政権なのである。

 そんな中で、いま「日本未来ネットワーク」というサイトが話題になっている。
 スローガンは「黙ってないで、NO!と言おう。」で、「「白票」を投じるのは投票したい立候補者がいないという意思表示です。その1票にも、今の社会を変える力があります」と主張している。
 ぼく自身は選挙をボイコットしたこともあるし、白票を入れたこともあるから、白票運動自体を直ちに否定する気にはならない。ただしこの日本未来ネットワークは、ようするに世論誘導のいわゆる人工芝運動(ニセ草の根運動)である。今回の新聞各社の報道を受けて追記された内容はそのことをはっきり表している。いわく「与党は支持、でもうちの選挙区の候補者はNG。/そんな思いを伝えましょう。」なんだそうである。
 このサイトの黒幕についていろいろ詮索されているが、それは置いておくとしても、ようするにこのサイトの狙いは、白票という形でガス抜きをしつつ、結果的に現状の自民党政権を安定的に維持させようという世論誘導にある。具体的に言えば、先日来いろいろと問題になっている政治資金問題で黒もしくは灰色の政治家を選ぶ気にはならない人に対し、それでも自民党以外の候補を選ばないようにさせようということだ。あまり意味もなく成功するとも思えない運動だが、ここまでして世論誘導をしようとする執念に不気味なものを感じる。

 ぼくが選挙をボイコットしていたのは、おもに新左翼党派の活動家時代だった。マルクス・レーニン主義者だから、選挙によって体制が変わるはずがないことは十分承知している。選挙には意味が無いのだ(もっとも後半になってからは自党が地方選挙に進出する戦略を強化したので、ある程度選挙に関わることにはなったのだけれど)。
 ただぼくは選挙はボイコットしたが、革命運動は精力的に行った。社会党や共産党との共闘にも、大きいものから小さいものまでいろいろ関わりもした。
 また白票を入れざるを得なかった選挙でも(というのも選挙区に出た候補が全て右翼だったので)、すでにネット上での言論活動はしていたから、積極的に政治的アピールは続けたつもりである。

 選挙ボイコットや白票運動もよいが、それはそれだけでは何の意味もない。そのオルタナティブをなんらか持って、それを実践しない限り、ただの白紙委任状にしかなりようがない。そもそも「選挙では何も変わらない」ということは、選挙以外の方法を選ぶという結論にしかならず、だからこそ世界中で選挙をボイコットする勢力は、革命運動など実力で政権を倒す運動を進めるのである。それはアラブの春でも、ウクライナでも、中国のウイグル自治区でも、皆そうなのだ。
 オルタナティブを持たず、またそれを実践しもしない人が、選挙を否定したり白票を入れたりするのは、ただの言い訳に過ぎない。それは現在最も権力を握る人々に屈服して言いなりになるということ以外ではない。

 ところでもうひとつ、今回はユニークな政治運動が注目される。北海道の比例区に出た「支持政党なし」である。
 この運動についてはサイトを読めばその経緯がよく分かるが、別に北海道の人の運動ではなく、ただ北海道でしか出られないからそこで出たということのようだ。
 支持政党なしには党の政策はない。公約はただひとつ、もし当選したらその方針はネット上で意見を集約し、その意見に従って行動するというものだ。
 それなりに時代の気分にあった運動ではある。おそらく個人でやっているようで、その熱意と努力にはとりあえず敬意を表したい。もしこの理念に同調できる人がいるなら、オルタナティブのない白票運動や選挙ボイコットなどより、よほど意味はあるだろう。
 もちろん政治は政策パッケージなので、このような個別直接投票的な意志決定方式は、世論調査的な意見の反映にはなるかもしれないが、政治として正しいとは言えない。世論調査の結果では「良いとこ取り」になりがちで、痛みを伴う決定がしづらいからだ。理念や理想は時として暴走もするが、またそれが無くても想定外の暴走を起こす危険がある。

 いずれにしても、少なくとも民主主義であろうとするなら、我々がお客さまになってしまってはいけない。選挙は消費者として消費するようなものではない。店員におだてられて商品を選ぶようなことであっては断じてならない。また逆にいらないからと言って無視できるようなものでもない。
 民主主義であろうとする限り、我々自身が当事者であり責任者である。自民党の極右路線を求めるのであれ、選挙をボイコットして革命を目指すのであれ、少なくとも自分の意志と決断で、自分と世界の命運に対して責任を負うべきなのである。
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そして最後に勝った菅原文太

2014年12月05日 00時00分30秒 | Weblog
 12月3日の朝日新聞に樋口尚文が菅原文太への追悼文を書いている。その中で樋口は菅原文太を、高倉健のアウトロー型ヒーローに対して「アンチヒーロー」であると評した。
 菅原文太がアンチヒーローであるかどうかはともかく、終生つくりつくられた銀幕のスターであり続けようとした高倉健に対して、菅原文太は生身の現実社会の中で、最後は映画自体を拒否して社会活動家になろうとした。そういう意味で二人は全くの対極にあったと言うことは出来よう。
 高倉健が死ぬまで謙虚で寡黙な芸名である高倉健を演じ続け、死んで後にまで健康食品の宣伝を続けたのに対し、本名である菅原文太は、時にインタビューにさえ広島弁を使って演技をしながら、実はヒーローであることなどかなぐり捨ててでも、大人としての責任をとろうとしていた。
 ぼく自身の個人的な体験から言えば、ぼくは高倉健の映画を封切りで見たことがないが、菅原文太の「トラック野郎」の第一作は公開時に見た記憶がある。今となってそれは、ぼく自身の中である種の象徴的な出来事のように感じる。
 テレビドラマ版の「幸せの黄色いハンカチ」を監督した栗山富夫は、テレビショーのインタビューに答えて、何を考えているか分からない高倉健に対して、菅原文太は強いライバル心を持っていたはずだと語った。
 どちらが偉いとか、どちらが素晴らしいなどと比べるようなことではないが、高倉健が死んで世の中が健さん一色に染まっていたその時、まるで映画のラストのどんでん返しのように菅原文太が登場し、最後をみんなかっさらっていってしまったところは、最後の最後に文太アニイの勝ちだったのかもしれないなと思ったりもするのである。

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とりあえず一言

2014年12月04日 09時30分03秒 | Weblog
 選挙が始まって、各党がいろいろなことを言っている。少し気になったことを、ちょっとだけ書いてみる。

 ある党は「どこにもしがらみがない」ということを強調している。しかし、しがらみがないと言うことは、どの階層、どの人々の立場も代表しないと言うことではないのか。「しがらみ」が無いというのはイメージとしては良いかもしれないが、誰かの立場を代表するのが政治家である。実はそれを隠しているだけなのではないのだろうか。

 またある党は「中間層を厚くする」と主張しているが、もはや現状は二極化してしまっている。中間層は無くなろうとしているのだ。そんなとき、中間層を厚くすると言うのは結局のところ、上層を厚くするということと同じことになってしまうのではないのか。本来は下層に対する手当を厚くするということこそが重要なのではないのだろうか。
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嫌われ嫌う私について

2014年12月03日 21時45分09秒 | Weblog
 何度か書いたと思うが、ぼくは人から激しく憎まれる。もちろん好意的に接してくれる人も多いが、徹底的にぼくを嫌う人もいる。もっとも、ぼく自身も嫌いな人は嫌いだし、好きな人は好きというように、相手に対する感情をはっきり持つタイプではあるのだが。

 これもよく書いていることだが、ぼくは子供の頃いじめられっ子だった。一番ひどかったのは中学一年の時だった。正直に言ってぼくは一応勉強も出来た(体育と英語と数学を除いてだが)。優等生でもスポーツとかが出来る人は人気があるけれど、ぼくのようなのは確かにそんなに人気が出る方ではない。
 ぼくのことを直接攻撃しなかった子の中にも、ぼくを嫌いだった人はいると思う。それはたぶん、ぼくが今で言う「空気を読まない」人間だからだ。単純に言えば鈍感なのだ。

 後のことだが、20代ぼくが新左翼の活動家をやっていた時には、組織内で「ファッション・センスが無い」といつも批判されていた。貧乏くさい格好をしていると左翼は貧乏だと思われて組織に人が集まらなくなると言われた。もちろん一般的に浮き上がった格好をしていると公安の目に付きやすくなるということもある。
 確かにセンスはない。というか服装のセンスとは何かと言うこと自体が全く(いまだに)分からない。世の中のセンスに合わせるということがよくわからないのだ。これも「空気の読めない」ことのひとつの現れだ。まあ、この話はまた別に書こう。

 これも前に書いたと思うけれど、そのことは良く言えば世の中の価値観にとらわれないと言うことになるだろう。ぼくは別に全く意識していないのだが、時々ひとに言われて驚くことがある。
 小学校の頃、ぼくが住んでいた地域には在日朝鮮人がいた。ということはずっと後に気づいたことで、その頃ぼくはそんなことを全く気にしていなかった。だから誰とでも同じようにつきあっていた。ずっと後になって小学校の同窓会があったとき、あるクラスメートが「自分は在日なのにお前は全然差別しなかった」と言われて、はじめてそうだったのかと思った。ということは、もう小学校の時に多くの人が民族差別をしていたのだ。こういうことは正直いまだによくわからない。

 中学の時にはクラスメートにたぶんアフリカ系の混血だったと思われる子がいた。いわゆる不良だったが、ぼくは別に何も気にならなかった。というか彼が混血だと言うこと自体に気づいていなかった。たぶんそんなことはどうでもよかったのだ。クラスでクラス会というのが定期的にあって、小さな学芸会のようなものだが、小グループで演劇などをやった。そのとき、ぼくは彼を主役にして「アンクルトムズケビン」をやったことがある。ぼくが脚本と演出をやったような気がする。
 担任の教師はちょっと気にしていたようだが、ぼくは何も気にせず、良いと思ったからやった。主役の彼もノリノリで熱演してくれた。すばらしかった。

 やはり中学のとき、クラスに「おかま」と呼ばれる男の子がいた。今思えばおそらくゲイだったのだろう。彼はクラスの男たちには相手にされなかったが、ぼくは仲が良かった。彼の方がどんな気持ちだったかは知らないが、ぼくは全然気にならなかったということだ。よく一緒に学校から帰ったものだ。

 高校に入ってからだったと思うが、確か柔道部の強面のクラスメートがそっと忠告してくれたことがある。ぼくは不良グループに狙われているというのだ。それは、ぼくが彼らを特別扱いしないからだという。「お前を見ているとハラハラする」と言われたような気がする。

 ぼくは不良とか体育会系とかが大嫌いだが、だからと言って、不良系や体育会系の友人がいなかったわけではない。個人として対等につきあえる相手なら、ぼくは別に何とも思わないし、良い奴ならそれだけで友達になれる。もちろん優等生でも同じことだ。自分を偉い、特別だと思っている人が嫌いなのだ。
 もっとも明らかに自分より非力な人間や後輩がえばったり、ぼくを馬鹿にするのはあまり気にならない。それはむしろ微笑ましい気がしてしまう。それで高校の部活では「お前は後輩を甘やかしている」とだいぶ批判されたのだが。

 こういうのはずっと後になって社会人になってからも同じだった。営業系の仕事をしていたとき、ただの平であるぼくが、相手の会社の社長と対等に口をきいているのを上司もハラハラして見ていたようだ。別の職場ではお客とよく喧嘩した。そもそもぼくのような人間は客商売は無理である。

 おそらく、ぼくが嫌われるのは(もしかすると、ぼくが特定の人が嫌いなのも)そういう原因が多いのかもしれない。なんであれ、ぼくには目上とか目下とか、偉いとか劣っているとか(もちろん具体的に何かの能力上の問題についてはあるかもしれないが)良くわからないし、それによって人間としての付き合い方を変えることが出来ない。そういうことが非礼であるとか、生意気だとか思う人は多いだろう。たぶん、ぼくにとっての礼儀と他の人にとっての礼儀というのは、かなり意味が違っているのだと思う。

 とは言え、もう生き方を変えるつもりもないし、そもそも分からないのだから変えようがない。嫌われ、嫌う人生もまたありだと思う。


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今日のネット署名

2014年12月03日 20時49分51秒 | Weblog
 ぼくは度々インターネット署名をしている。
 どれくらい意味があるのかは分からない。しかし別にたいした負担もないのだから、役に立つか立たぬかはともかく、ネット署名をして悪いこともない。そんな感じで参加した署名運動を紹介している。
 今日賛同した署名は次の署名である。

芸術家・ろくでなし子氏の即時釈放を要求します

 いい加減にしろよ! 警察

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ネットの記事からいくつか紹介

2014年12月01日 18時30分34秒 | Weblog
 マスコミは権力者の恫喝に屈して「自主規制」ばかり、週刊誌は極右的ナショナリズムととレイシズム、ヘイトスピーチであふれかえっている。そんな中で、インターネット時代突入から約15年、だんだんとネット・ジャーナリズムが充実してきた。
 動画を主体としたオルタナティブ・ジャーナリズムのユニークな展開を進める「IWJ」、タブーにかかんに挑戦する「東京BREAKING NEWS」、サブカルチャー的ニュースが充実している「TOCANA」、もちろんジャーナリストが個人的にアップロードしているブログにも読み応えのあるものがたくさんある。

 そんな中で、「本と雑誌の知を再発見」というキャッチフレーズの「本と雑誌のニュース サイト/リテラ」には、とても鋭い記事が掲載されている。今回は最近の記事から、選挙の参考になりそうな記事をいくつかピックアップして紹介してみよう。気になる記事があったら読んでもらいたい。

もはや首相自体が「ネトウヨ」である──安倍“ヘイト”政権が誕生した日

「ソウルに劣化ウラン弾おとせ」安倍首相のFacebookは保守速報よりヒドい

中国はゴキブリ、韓国はダニ!安倍首相がヘイトスピーチ連発の宮司を大絶賛

解散発表当日、安倍首相が『報道ステーション』にだけ出演しなかった理由

『NEWS23』の安倍逆ギレが原因? 自民党がテレビ局に批判封じ込めの通達

自民党の“公平”圧力に『朝生』が屈服!じゃあ安倍首相の単独出演は公平なのか

 以下のような記事も参考になる?

公明党は動物好きの敵? ペット業界とつるんで子犬売買の法規制を骨抜きに

売れない犬は生きたまま冷蔵庫に…ペット業界の裏にある恐ろしい現実

 最後はおまけ。

安倍首相側近らが続々と統一教会詣での“怪”〈週刊朝日〉

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