斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

断想片々(57)【マルハラ】

2024年03月26日 | 言葉
 すっかり市民権を得たパワハラ(パワーハラスメント)やセクハラ(セクシャルハラスメント)といった「ハラ」付きコトバ。モラハラ(モラルハラスメント)やマタハラ(マタニティーハラスメント)なども加わって、今や数にして10語は下らないようだ。変わったところではマルハラ(「。」=マルハラスメント)というのもある。

 マルハラの場合は使われる場が限定しがちで、主にスマホのメール。コトバを交わし合う人間関係も限られ、上司や年長者が、部下や若い人に発したメールの場合が多い。なぜ「ハラ」か。文の末尾に句読点の句点であるマル(「。」)を付けると、発した目上の人が受け取った目下の人に対して「文章は、このように書くべし」と、ハラスメントしているように受け取られるため、であるらしい。若者たちは文末に「。」でなく「!」や「?」を使うことが多く、「!」や「?」であればハラスメントにならないのだとか。
 いやはや、どうにもこうにも・・。「。」だとハラスメントになるのなら、それ以前の問題として、ハラスメントとは何かを定義しておかなければなるまい。

 句読点は読む人を慮(おもんばか)りながら
 句点の「。」や読点の「、」は、文章を書いている側が読む人を慮りながら、読みやすいようにと打つもの。相手を慮りつつ文案を練ることは大切なことだ。「句読点一つにも神経を使う」というコトバもある。

断想片々(56)【「ドミノ理論」の変質?】

2024年03月02日 | 言葉
 ウクライナ戦争も2月24日で開始から2年が過ぎた。ウクライナの民間犠牲者は1万5百人を超え(2月24日付け読売新聞朝刊)、兵士の戦死者は3万人を超えて(26日付け)、ウクライナ側の劣勢は鮮明になっている。メディアが繰り返し伝えるように、旗色逆転の主な理由はNATO側、とりわけ米国からの武器弾薬の供給が滞っているためだ。
 そんな情勢の変化を印象付けるのは、米大統領候補へ名乗りを上げているトランプ氏が「軍事費を負担しないNATOの国へは、ロシアに『どうぞ自由に攻め入ってくれ』とに言いたい」と公言していること。半世紀前のベトナム戦争と、当時アメリカで盛んに唱えられた「ドミノ(ドミノ倒し)理論」というコトバを思い出す。

 さま変わり
 それにしてもベトナム戦争からもう半世紀も経つのかと書いていて驚く。ならば、この言葉を取り巻く環境が変わっても当然かもしれない。当時を知る世代には説明不要だろうが、「ドミノ」は28個の札(牌)を使って数の組み合わせを競う西洋の室内ゲーム。日本では本来の遊び方より「ドミノ倒し」の方が知られている。日本の「将棋倒し」に似て、立てて並べた駒(牌)を連鎖的に倒してみせる遊びだ。
 半世紀前には「米国がベトナムで負ければ、隣接する東南アジア各国が連鎖的に共産化する」というふうに、世界の自由陣営を引っ張る米国がベトナム侵攻を正当化する文脈で使われた。そして今は、米国の同盟国側に「米国は、自由主義陣営のリーダーの座から降りる気か?」と思わせる、ある意味のオドシのようでもある。

 額面通りに受けとめるのは、いかがか?
 やっかいな2国を眼前にしつつ”日米同盟”を頼みの綱とする日本人にとって「どうぞ自由に攻め入って」のコトバは刺激的だ。もっとも、このコトバを額面通りに受け取める日本人は少ないかもしれない。要は、自由陣営のリーダーとして世界にも顔を向けなければならないバイデン大統領と異なり、トランプ氏は当面、大統領選に向けて米国民だけを相手にしていれば良いのである。誰に向けて話しているかを考えつつ聞くべきだろう。

95 【夢】

2024年01月19日 | 言葉
  夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり
 人が自らの来し方を振り返るとき<人間五十年 下天(げてん)のうちを比ぶれば夢幻の如くなり ひとたび生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか>には強い説得力がある。「人間」は「じんかん」と読み「世間、世の中」の意味(三省堂「新明解国語辞典」)。織田信長が愛唱したと伝えられ、起源は幸若舞(こうわかまい)の『平敦盛』にさかのぼる。
 去年新緑の候、思いがけずも届いた大学先輩の訃報と追悼文集には、題名に『夢』とあった。都市開発にかけた生涯を写真とともに紹介し、趣味の自作俳句が添えられていた。一生が簡潔に伝わる、けれんみの無い文集だが、こうして振り返れば人の一生など<夢幻の如くなり>だろう。めでたくもあり、むなしくもあり。<夢>は吉凶の両面で多用される、日本人の好むコトバかもしれない。

 あらざらむ この世の外(ほか)の思ひでに 今ひとたびの 逢(あ)ふこともがな
 百人一首にもあり、よく知られた和泉式部の歌。『後拾遺集』におさめられている。<さして長くもないこの世の思い出に、もう一度だけ、お逢(あ)いしたいものです>。ポイントは「逢ふ」の意味だ。
 このコトバの古語としての意味を筆者が知ったのは、大学受験の浪人中のこと。通っていた予備校の古文の授業で、四十年配の男性講師が説明してくれた。
「『逢う』は、会ってお喋(しゃべ)りするという意味ではないよ。男女が関係を結ぶという意味なんだ」
 純情だった(?)筆者には軽いショックだった。前後の経緯まで事細かに覚えているのは、説明が衝撃的だったからだろう。確かに「関係を結ぶ」と解釈する方が、歌に深みが出る。「もう一度会って、お喋りしたい」では年賀状の挨拶文みたいだ。
 ニキビ面の浪人生は思ったものだ。「二十歳(はたち)前であれば、その思いも分かる。しかし、人生の締め括(くく)りで、人はかくも強く性を望むものなのか、と。ところが七十路(ななそじ)も半ばを越えた現在(いま)、改めて和泉式部の若さ、熱っぽさに畏敬の念を覚える。この年齢になって分かって来ることも、ある。
 
 思ひつつ 寝(ぬ)ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらしものを
 それにしても平安貴族には「夢」を詠んだ和歌が多い。上の歌は小野小町の作。『古今集』から。意味は<思い続けて寝たので、夢で逢えたのでしょうか。夢だと分かれば、目を覚まさなかったのに>だ。
 うたたねに恋しきひとを見てしより 夢てふ物は頼みそめてき
 これも小野小町で、やはり『古今集』から。ここでは、あてにならないものの象徴としての夢が、頼みの綱(つな)に昇格(?)している。<うたた寝の夢で恋しいあの人を見てから、あてにならないはずの夢を頼みにし始めた>。あてにならないものを、あてにせざるを得ない境地、こいごころ。

 「夢」を育てる「夢」
 平安時代に夢と恋とを歌った女流歌人が多かった理由を筆者が自己流に、つまり勝手次第に解釈してみる。--平安時代の結婚は、男性が夜間に女性宅を訪ねる通い婚(かよいこん)である。女性の側は、うたた寝しつつ恋しい男性を待つ。当然ながら「浅き夢みし」の中身は、心待ちにする男性との出会いになりがち。女性は歌のような夢を頻繁に見ることになる。
 もとより流行歌の文句ではないが<会えない時間が愛そだてるのさ 目をつぶれば君がいる>(郷ひろみ『よろしく哀愁』から)も本当だろう。会えば喧嘩も起きようし、口喧嘩から互いの心を傷つけ合うこともある。この点、夢なら言い合いも起こらず、ひたすら相手を理想化してしまう。

 一つの初恋論
 初恋といっても経緯は人それぞれだ。しかし、いちばん多いのは片思いのまま終わるケースかもしれない。胸のうちの半分さえ、いや十分の一さえ相手に伝えられずに終わる。ひとことも話を交わさない場合さえあるだろう。あったとしても中身はぎこちなく、ぎこちなさと悔いとが甘酸っぱい残留物として胸に残る。
 かくて会えないまま、初恋相手との思い出は、ますます美しくなるのかもしれない。コミュニケーションの足りない部分が一方的に美化されてしまうからだ。ここら辺は小野小町が見ていた夢に少し似ているのだろうか。

 さて、かく言う筆者もつい最近、初恋相手(?)に「夢でアった」。この齢(とし)になって、そんな夢を見るとは、夢にも(?)思わなかった。少年時代を含めて、その女性の夢を見たのは初めてのこと。(えっ、それでどうなったか、だって? 現代語の「会った」の方か、古語の「逢った」の方だった、かということ? いや、それはナイショにしておきましょう)。 ただ一つ感心したのは、現実以上にリアリティーがあり、意外性とストーリー性のある夢もあるのだナ、ということだった。

断想片々(55)【墜落と不時着水】

2023年12月06日 | 言葉
 米軍輸送機「CV22オスプレイ」が11月29日、鹿児島県の久島沖に墜落した。木原防衛相は翌30日、在日米軍のリッキー・ラップ司令官に直接「安全が確認されるまでオスプレイの運航を停止してほしい」と申し入れたが、その後も米海兵隊所属の「MV22オスプレイ」や米海軍所属の「CMV22オスプレイ」が沖縄県普天間飛行場で離着陸を繰り返した(12月2日付け読売新聞朝刊13S版)。オスプレイ事故にナーバスな日本側と、アメリカ本土からは遠い日本での事故のせいもあり無頓着な(?)米側。両国の対応が興味深かった。

 不時着水?
 目を引いたコトバの一つに「不時着水」があった。
「墜落したのではなく不時着だった。機体を立て直そうとパイロットたちは最後まで操作に懸命だったのだから、墜落ではない」
 コトバの元々の出所は知らないが、事故直後のメディアの中には、こう説明するテレビニュースもあった。無茶苦茶な説明である。たとえオスプレイでなくとも、墜落直前のパイロットなら例外なく「最後まで操作に懸命」になるはずだ。「不時着水」は、乗務員の無事生還が分かった時のみ使われるべきコトバだろう。

 ソンタクは姑息
 このような”コトバ遊び”の背景に、根強いオスプレイ飛行反対運動への牽制(けんせい)がある。墜落事故が飛行反対運動に火をつける結果にならないようにという、保守派メディアの配慮(忖度)である。肝心の在日米軍側は、テレビニュースに「不時着水」のコトバが出るとすぐ「オスプレイ事故は墜落である」と声明を出した。米軍側の方がよほど正々堂々としている

断想片々(54)【汚染処理水への疑問】

2023年08月24日 | 言葉
 政府は24日から汚染水の海洋放出を開始した。科学音痴の筆者が言うのもナンだが、福島第一原発汚染水の排水問題がイマイチ理解出来ない。

 政府計画では、汚染処理水のトリチウム濃度を国の排出基準(1リットル当たり6万ベクトル)の40分の1まで薄め、沖合1キロの海底トンネルから放出する。ここで言う「排出基準」とは、平時のもの(基準)のはずだ。これまでの経緯からして、政府が事故前に非常時の汚染処理水の排水基準値を検討したことは、ありえない。

 そもそも汚染水の生成過程が違うのだから、排出基準も平時と非常時とは別物であるべきはないか。排出規模や排出方法、排出期間と集中度を考えれば、数値の意味するものは異なる。ところが政府は今回、平時に用いられるべき基準値を非常時の基準値として用いた。別個に考えるべき数値を同じ土俵上で比較している。

 「40分の1」にしても、要は施設内で薄めるか、海に放出してから自然作用で薄めるか--の問題であるように思える。筆者のような科学音痴の考えそうなこと、だろうか。 

断想片々(53)【ビッグモーター社と損保の癒着】

2023年08月03日 | 言葉
 毎日新聞や読売新聞などが3日の朝刊で、ビッグモーター社の乱暴きわまりないクルマ販売を報じた。千葉県で、客のクルマの窓ガラスにセールスマンが顔をべったり付け、「お前なんか客じゃねえ!」「この野郎」と、威嚇の暴言を吐いたという。客を客と思わぬ、けしからぬ態度。会社の体質が透けて見えた。

 クルマよりゴルフボールが大事?
 「たいへん、けしからん。ゴルフボールでクルマを叩くとは! ゴルファーに失礼だよ」
 板金修理の個所を拡大し、修理代金を水増ししていることが明るみに出ると、ビッグモーターの社長氏は、こうコメントした。顧客の大切なクルマより、自分の趣味のゴルフの方が関心事であるらしい。聞いた人は唖(あ)然としたろう。何という勘違い! この経営感覚! あきれる。

 焦点は損保会社との癒着問題
 ゴルフボールや工具での傷付けから、街路樹の伐採へ。次々に明るみに出る不祥事。加えて、ここ数日、損保ジャパン社との癒着問題も浮かび上がってきた。クルマ会社と損害保険会社が組めば、ドライバーから吸い上げる保険金額は、ウナギノボリになるだろう。
 筆者は以前から、修理会社と損保は裏でツルんでいるのではないかと憶測していた。破廉恥かつ漫画チックな話の段階から、構造悪の解明へ。これを良い機会として、徹底的に膿(うみ)を出し切ってもらいたい。

断想片々(52)【トレンドマイクロ社の安全マーク】

2023年07月06日 | 言葉
 有料セキュリティーソフト「ウイルスバスター」(トレンドマイクロ社)をインストールしている筆者のパソコンには、クリック可能な項目ごとに緑色の「安全マーク」が付くようになった。「Gooブログ」であれば、読みたい項目にカーソルを近づけると、先回りして項目の先頭で「安全マーク」(緑色のチェックマーク)が光る。ネット上に虚偽情報があふれ、ネット詐欺も多いご時世だから便利そうだが、イマイチ使いにくい。

 使いにくさの理由
 理由の第一は、パソコン画面が「安全マーク」ばかりになっていること。目に付くのは「安全マーク」の方だけで「危険マーク」(「警戒マーク」?)は見たことがない。項目の大半が「安全」になるのは予想されたこと。ならば赤い「危険マーク」を光らせた方が目立つし、注意喚起になると思うが・・。
 理由の第二は、何のチェックかが明確でない点。情報の正確性、つまり「質」が問題なのか。それとも情報の発信元が過去にトラブルを起こしたか、現在トラブルを抱えているか、といったことなのか。あるいは、その両方か。マークについて簡単な説明が欲しい。

 詐欺メールの排除を
 利用者として強く願うのは詐欺メールの対策と排除だ。【断想片々(51)ザンネンな詐欺師たち】にも書いたが、筆者のパソコンへは今でも日に1、2通の詐欺メールが届く。7月6日には腹立たしくも闇バイトの勧誘メールまで届いた。原因が何であれ詐欺メールの闊歩(かっぽ)を許しているようでは、セキュリティーソフトだとは言えまい。

94 【まっくろくろすけ、&「バナナ320本」】

2023年06月19日 | 言葉
 

 まっくろくろすけ
 小3になる孫娘の、ちーちゃん。まだ保育園に通っていた頃、実家へ来るたび物置へ入りたがった。六畳間ほどの薄暗い「イナバの物置」。ちーちゃんがすることは一つ、地団駄を踏むこと。小さな足で床を踏み鳴らした後で、ぐるりと天井を見上げる。何事も起こらない。ホッとするが、何だか残念そうな様子でもある。まっくろくろすけが、その日も出て来なかったからだ。今でもくろすけに会いたいのか、時々ジイジを薄暗い物置へ誘う。独りで行くのは不安なのかもしれない。
 
 まっくろくろすけ。本名(?)ススワタリ。映画『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』に登場する。チョー有名人、いや有名な妖精だから、説明は不要だろう。『となりのトトロ』には他にも猫バス、トトロなどの妖精が登場する。いかにも子供に好かれそうなキャラクターばかり。くろすけやトトロの、人間たちへの視線の優しいことが、人気の理由のようだ。これらの妖精たちに顔をしかめる大人はいない。

 「バナナ320本で死ぬ」
 子供が信じやすい点では、迷信も同じかもしれない。5月29日付け読売新聞朝刊の連載「情報偏食 ゆがむ認知」で、インターネットに流れる偽情報と教育現場の困惑を特集していた。「バナナを320本食べると死ぬ」。千葉県内のある小学校で、こんな偽情報が流れたことがあったという。バナナに含有されるカリウム分が根拠の情報のようだが、人体に害があるほどの過剰摂取は普通ありえない。記事の主旨は、インターネット上の偽情報の弊害が小学生たちの世界にも広がり、不安をあおっている、というものだった。

 影踏み
 筆者などの高齢世代にも、子供時代の迷信は数々あった。例えば「影踏み」。自分の影を他人に踏まれると数日以内に死ぬ、といったもの。さすがに信じる子供たちは居なかったが、それにはこんな理由もあった。鬼ごっこの一種に「影踏み」という遊びがあって、踏まれた子供が次に鬼になるルール。踏まれるたびに死んでいたら、1度の遊びで10回以上死ななければならない。遊びを通して子供たちは「影を踏まれると死ぬ」が偽情報、つまり迷信であると知っていた。

 変わったところでは他に、ミミズに小便をかけるとオチンチンが腫(は)れる、というのがあった。昔の男の子にとって立ちションは日常だから、これもウソであると知っていた。ただし筆者などは、なぜか今もって止むを得ず立ちションをする際は、下にミミズが這っていないかに注意してしまう。
 <一粒の米粒には神様が三人(体)入っている>というのもあった。要は「だから大切に食べなさい」「食べ物は大事に扱いなさい」と続くのだから、発信元は大人だったかもしれない。食べ物の不足がちだった終戦直後の世相が思い出されて興味深い。

 AI時代と子供の迷信
 迷信も含め子供たちが信じている世界は、時代の反映でもあるのだろう。「バナナ320本」にしても、大人たちの間の健康志向の高まりと知識の広がりとが、背後にあってのことと思える。カリウムが重要な栄養素だとしても、過剰に摂取すれば体に良いはずはない。バナナ以上にカリウムを多く含むとされる柿やぶどうは季節の限られる果物だが、バナナは年間を通して出回る。過剰接種で内臓を痛める可能性も、なくはあるまい。

 子供の頭脳は柔軟で、物事を信じやすい反面、考えを修正するのも早い。幼児のうちは「なぜ、どうして?」が多く、どんなことにも興味を持ち、新しい知識に対する吸収力も大人以上だ。強い関心を持つ事項ほど、もっと深く知りたいと考える。
 であれば「バナナ800本」への不安は、科学的興味を伸ばす入口になるかもしれない。食べ物とは何か、栄養とは何か、カリウムとは何か。過剰摂取とはどういうことか? 教育の現場で「困惑」が生じるほどなら、むしろチャンスだと言える。子供たちの知識欲を上手に引き出し、伸ばしてあげるのが先生たちの、そもそもの仕事なのだから。

断想片々(51)【ザンネンな詐欺師たち】

2023年05月11日 | 言葉
 2か月近く前になるだろうか。マイカーの任意保険を掛けているZ社から、顧客リストが外部流失した旨の詫(わ)び状が届いた。迷惑料のつもりか500円の金券が添えられている。ネット販売が売り物の損保会社だから、顧客のメールアドレスなど流失データ類は、フィッシング(=釣り)詐欺をたくらむ者にとっても好餌(こうじ)だったろう。

 連日のフィッシング詐欺メール
 かくて2、3日すると連日のように、我がパソコンへ詐欺メールが届くようになった。銀行、JRビューカード、アマゾンのプライム会員資格(?)、コンビニのカード等々。どれも決まって「再確認が必要です。確認しないと会員資格が制限されます」なので、仕組んだ詐欺犯は同一人物であると、容易に想像出来た。

 しかし、である。詐欺師が再確認を迫るのは、そもそも当方が持っていない銀行口座やコンビニ・カード、あるいは定年退職後10年以上使っていないビューカード、会員になってすぐ退会してしまったアマゾンのプライム会員、といったものばかり。ビューカードなどは「24時間以内に確認を済まさないと、使えなくなります」との”最後通牒”が、ひと月近くにわたって毎日届くアリサマだった。

 体裁や文章に多少の難があっても、年に1度くらいであれば「おや、何かな?」と、こちらの注意をひくかもしれない。しかし毎日ではダメだ。文面はワンパターン、かつ”最後通牒”が一向に”最後”にならない体(てい)たらく。シマリがない。やたらに撒き餌(まきえ)を投げる磯釣り人の姿が目に浮かぶ。

 これでは「資格喪失します」のオドシも効果あるまい。加えて怪しげな日本語、会社は違っても同じ文面、高飛車で失礼な物言い。さらにメールの発信時間が、大半が深夜から未明にかけて。日本の企業は、こんな時間まで社員を働かせない。

 電子メールを使う顧客ばかりではない
 顧客全員に確認すべき事項が生じたとしても、日本の企業は電子メールなど使わないだろう。顧客のすべてがパソコンやスマートフォンを持つわけではないからだ。特に高齢者は少ない。この一点を考えただけでも、詐欺メールの不合理性、欺瞞性は明らかだ。そこに考えが至らない詐欺師たちは、やっぱりザンネンな人たちなのである。

断想片々(50)【漁師サンの記者会見】

2023年04月18日 | 言葉
 岸田首相が標的になったテロ事件。繰り返し流される襲撃時のテレビ映像で、ひときわ目を引いたのは赤いシャツ姿の漁師男性だった。犯人をヘッドロックで押さえつけた勇敢な行為。よく見れば犯人はこの時、まだ鉄パイプ爆弾を抱えていた。

 筆者としては漁師さんの談話や、どういう人かといった部分を真っ先に読みたいところ、知りたいところだった。ところが某日刊紙がこの部分を報じたのは18日付けの朝刊社会面。事件発生が15日、当の漁師が「記者会見で」語ったのが16日、紙上で報じたのが18日。速報性がイノチの日刊新聞としては、スローモーに過ぎはしないか。
 記者会見を設定したことも、各メディアが競争意識を捨てて歩調を合わせ、安易に流れているようで、なじめない。

 まあ、この新聞社のために弁じれば、新聞休刊日のため17日付け朝刊が発行出来なかったこと、メディアスクラムになるのを避けたこと、といった事情があったのかもしれない。
 新聞休刊日の増加には戸別配達制度の難問が絡む。メディアスクラムの弊害も当然考慮しなければいけない。しかし、仕方がないと言ってしまえば、それまで。他の日刊紙の中には、いち早く漁師談話を載せた新聞もあったのだから。

93 【オールド・リベラリストの憂鬱】

2023年03月25日 | 言葉
 「十年一昔」と言うけれど・・
 「一昔(ひとむかし)」の意味は<もう昔だと感じられる程度の過去。普通、10年前をいう。もとは一七年・二一年・三三年などを意味したこともあった。「十年一昔」>(『広辞苑』第七版)。しかしコトバの意味が変化する時間幅(スパン)として考えるなら、10年は短すぎるようにも思える。
 それほどコトバの意味は早く変わる。一例は「リベラル」というコトバ。一部メディアに限るかもしれないが、政治学用語としての「リベラル」が、いつの間にか「左派」と同義ないし近似の関係で使われるようになっている。

<立憲、「中道回帰」で目指す政権奪還の道 リベラル派にくすぶる反発>(3月18日付け朝日新聞デジタル版見出し)
 時代を遡(さかのぼ)らずとも「リベラル」は「liberal」である。「liberalism」は「自由主義」、「liberalist」なら「自由主義者」「リベラリスト」だ。時代により揺らぎがあっても「一昔前」の日本では、自民党はリベラル勢力に区分けされた。また、社会党(懐かしい名になった?)がリベラルと呼ばれることはなかった。ところが上記朝日新聞見出しのように、今は立憲民主党の左派を指して「リベラル派」と呼ぶ場面に、しばしばお目にかかる。

 東西冷戦時代の「リベラル」
 隔世の感、と言ったら大げさかもしれないが、かつての「リベラル」はメジャーなコトバだった。東西冷戦時代の「リベラル」のこと。

 旧ソ連の解体は1991年だから<十年一昔>なら<三昔>以上前の話になってしまう。ハンガリー動乱(1956年)、キューバ危機(1962年)、プラハの春(1968年)、ベトナム戦争(1955-75年)と続いた東西冷戦の時代、西側ヨーロッパ陣営を結束させたコトバが「リベラリズム」。共産主義の衣を纏(まと)った全体主義に対し、欧米を中心とした西側諸国はこのコトバのもとで結束した。「共産主義陣営」対「自由主義陣営」。オールド・リベラリストにとれば、コトバがメジャーなプラス・イメージから、胡散(うさん)臭いマイナス・イメージへと転落してしまった印象だろう。

 しかし実のところ「リベラル」が動いたのではなく、世の中全体が動いたのである。特に日本社会が動いた。右側へ向かって動いたのだから、世の中そのものが右傾化したと言える。コトバ自体や、その座標軸は動いていない。

 野党の抵抗路線?
 3月3日付け読売新聞朝刊政治面(13S版)に「おや?」と首を傾げる見出しが載っていた。<衆院憲法審 立民 抵抗路線が鮮明>と。憲法改正を審議する場で、慎重路線をとる野党立憲民主党の抵抗が強い、ということらしい。しかし「抵抗路線」では、ただの「駄々っ子路線」みたいだ。
 憲法改正は戦後政治にとって一つの総決算たる、重大問題のはず。保守勢力が昭和のうちに成し遂げようとして遂げられず、平成の30年間でもかなわず、令和の現在に至った。現代でも憲法改正には国民の間に半数近い反対意見があり、それゆえ立憲民主党は「審議は慎重に」と最大限の注意を払うように求めているわけだ。この論理、どこか、おかしいだろうか。

 国会は少数”異”見を聴く場 
 立憲民主党のような野党が「抵抗路線」をとらず、時の政権やお役人が線を引いた設計図のままに唯々諾々(いいだくだく)と追従していたら、国民は納得するのだろうか。
 立憲民主党支持者は少数派。国会審議において”異”を唱え、少数意見を代弁してこそ、政党としての役割を果たす。問題が重大であるほど「徹底抗戦」の度合を強くするのでなければ、少数派国民の代弁者とは言えない。
 「リベラル派」を左派と位置付けるのも、野党の反対を「徹底抗戦」と呼ぶのも、世の中の右傾化傾向のゆえである。両者に共通するのは少数”異”見を締め出そうとする姿勢であり、根っこの部分は同じだ。少数意見は切り捨てるべし、無駄な「抵抗」は止めるべしでは、全体主義の隣国と変わらない。

 気になる語に「権威主義」も
 政治学の分野では「いく昔前」から普通に使われているコトバのようだが、中国やロシアなどの一部全体主義国を指して「権威主義の国」と言うことがある。筆者は違和感を覚えて仕方がない。皆さんは、いかがでしょうか。
 国語辞書で「権威主義」の語を引くと<必要以上に権威(者)をたてにとって世事に処そうとする態度・行動>(『新明解国語辞典』)とあり、「権威」自体は<ずば抜けた実力やすぐれた判断力の累積によって支えられた、他を威圧し、追随せしめる人がただよわせる雰囲気。また、そのような雰囲気をただよわせる人>(同辞典)とされている。このコトバへの一般的な理解だろう。
 ところが、政治学の分野で見かけるようになった語の方は「独裁者」とほぼ同義。それなら、なぜ使い慣れた「独裁者」の語の方を使わないのか。雰囲気や威圧にとどまる「権威」と、権力による排除と強制の「独裁」。明らかに語義が異なる。それに「権威」の方は「再生医学の権威」や「松尾芭蕉研究の権威」など、真に尊敬に値する人を形容する場合にも多く使われる。
 一方でスターリンやヒットラー、現代ではプーチン。彼らのどこに<ずば抜けた実力やすぐれた判断力の累積>があるというのだろう。歴史に浮かび上がるのは、弱い国の人民、民族から流れた血の量ばかりだ。
 

断想片々(49) 【気球と悪夢】

2023年02月26日 | 言葉
 米中の非難合戦になっていた「謎の気球」騒動も、やっと一段落したかに見える。おかしな話だった。首をかしげたのは、もっぱら「民間の気球」や「アメリカ側が気球を飛ばした」「気象観測のため」といった中国側の言い分。回収した気球を調べればすぐ分かってしまうのに--。

 偵察気球と偵察衛星
 現代は宇宙戦争の時代。ウィキペディアで「偵察衛星」あるいは「スパイ衛星」を検索すると、詳細かつ明快な説明が出て来る。今や偵察衛星の存在は秘密でも何でもない。まして「気球」となると何時代か昔の話に感じる。
 宇宙から送信される衛星写真で地上の自転車が明瞭に見えると話題になったのは、ウン十年も昔のことだ。現在のテレビニュースには毎日のように北朝鮮のミサイル発射場の衛星写真が紹介される。機器も技術も日進月歩の現代、地球上で起きるすべてが宇宙からは丸見えだ。一説に中国の偵察衛星は250機を超えるとか。十分過ぎるスパイ衛星を保有するのに、さらに気球が必要なのだろうか。

 悪夢その1
 今回の気球は成層圏(高度1-5万メートル)に達するらしい。あるテレビ局のゲスト解説者が「対流圏に雲が出て地上が見えない時に、気球が雲の下まで降りて地上を撮影するためではないか」とコメントしていた。なるほどと思ったが、雲の出来る対流圏(高度1万1千メートル以下)でなければ、雲を避けて地上の撮影は出来ない。特に高度1万メートル付近は国内外便の旅客機が頻繁に利用する高さである。視界の悪い気象条件下(雷雲が出ている?)、そんな危険な高度を「バズ3台分」の大きな気球が上下動していたら、旅客機にとっても危険極まりない。

 悪夢その2
 最初にアメリカで発見された気球は、今月4日に五大湖の上空で撃墜された。もし、この気球が”気球爆弾”だとしたら、どうだったろう。気球に起爆装置が仕掛けられ、炭そ菌の類の毒物が爆発時に散布される仕組みになっていたとすれば--。太平洋戦争中に旧日本軍が米大陸に向けて飛ばした気球爆弾の例もある。今回の気球の真の目的が、気球型新兵器の実験データの入手だった、ということも、あり得ない話ではない。ゾッとさせられる。

92 【オリジネーター・プロファイル】

2023年01月29日 | 言葉
 「フェイク」発信元は個人の時代へ?
 トランプ前大統領とともに世に出た観がある「フェイク」や「フェイクニュース」といったコトバ。ホワイトハウスを去った後もコトバは消えず、ウクライナ戦争や新型コロナ禍に場を変えて、より広く人の口の端(は)に上るようになった。
 トランプ前大統領の頃は、米CNNなど大手メディアの流す情報が標的だった。しかし現在の日本で標的になっているのは、ネット上にあふれる個人発信の虚偽情報である。非難は個人レベルへ。コトバそのものも変質しつつあるように思える。

 チェック機関OPの発足
 耳慣れない「オリジネーター・プロファイル(OP)」という語。originatorは「創作人」「発起人」の意味。profileは、ご存じ「プロフィール」、つまり「横顔、輪郭、人物寸描」だ。2語を合わせて「発信者のプロフィール」「発信元(発信者)の信用度・信頼性」といった意味だろうか。ネット上の虚偽情報チェックのため、ブラウザー(閲覧ソフト)に認証アイコン付きで表示するという。

 筆者がこの語を初めて目にしたのは、1月17日付け読売新聞朝刊だった。読売、朝日、毎日、産経、中日の大手新聞と一部放送など計11社が協力して技術研究組合を設立し、「ネット上の記事、広告などの情報に、デジタル化した識別子を付与する」(読売新聞から)という。「識別子の付与」は分かりにくいが、昔からあるコトバに置き換えるなら「お墨付き(マーク)」といったところか。細部の青写真が完成しているわけではないから先走ったことは言えないが、問題があるとすれば「言論の自由」との兼ね合いである。運用次第では検閲になりかねない。マイナスの認証子を付与された発信者は、必ずや「言論への不当な検閲・干渉だ」と反発することだろう。

 アナログ(新聞)主導でデジタル(ネット)のチェック?
 1月17日付け読売新聞に「オリジネーター・プロファイル(OP)技術研究組合の組合員(50音順)」として、発足時11社の会員名が紹介されている。以下の通り。
< 朝日新聞社、一般社団法人WebDINO japan、産経新聞社、ジャパンタイムズ、中日新聞社、日本テレビ放送網、News Corp、fluct、毎日新聞社、Momentum、読売新聞社 >
 将来の会員構成がどうなるかは知る由もないが、発足時の顔ぶれから判断する限り、新聞社の主導で作られた、という印象が強い。しかも、いわゆる活字メディアを二分する週刊誌や月刊誌などの出版社系は参加せず、新聞社と言っても大手のみ。新聞と競争関係にある放送関係からは、日本テレビ放送網1社の参加にとどまった。
 既存活字メディアが、新興のデジタル・メディアのチェックに乗り出した、という構図だろう。デジタル・メディアの業界が自主的に作った「研究組合」ではないようだ。

 判断する側の立ち位置
 トランプ前大統領は、敗北した大統領選を振り返って「選管の開票作業に不正があった」と断じた。ウクライナの非軍事施設をミサイル攻撃するロシア・プーチン大統領は「ロシアはナチスドイツと戦っている」と強弁している。いずれも敵方にとって、いや中立的立場の日本人にとってさえ明白な「フェイク」なのだが、それぞれの国民の半数近い人たちが「フェイク」にあらずと信じている事実に驚く。

 右翼や極右にすれば、国民の大半が左翼に見えるかもしれない。反対側から、つまり左翼や極左から見れば、世の人はおしなべて右翼的と映るだろう。往々にして人は自分こそが中道つまり真ん中にいて、物事を捉え、判断していると考えがちだ。しかし、右左翼を分ける基準に絶対はない。判断する個々人の立ち位置次第、視座次第の、つまり相対的・主観的な基準に従っているだけなのである。「フェイク」か否かの状況判断にも同じことが言える。

 であれば「オリジネーター・プロファイル(OP)」の判断に際しても、国民は判断者の立ち位置を注視すべきだ。大手活字メディア自身が思い込んでいるほど、国民は現在の大手活字メディアを信頼しているわけではない。むしろネットにあふれる「フェイク」の裏側に、大手活字メディアに対する強い不満や不信がひそんでいることを、忘れてはなるまい。

断想片々(48) 【言い間違い】

2022年12月22日 | 言葉
「支払いは電子レンジで・・」
 近所のスーパーのレジで、カードを出しながら、すぐ言い間違いに気づいた。自分の顔が赤らんだのも分かった。
「・・・」
 レジ係の女性はチラリと当方を見たが、最初は表情を変えない。本当は必死で笑いを堪(こら)えていたのかもしれない。40代半ばだろうか。
「いや、その、電子マネーで・・」
 言い直した。
「はい、電子マネーですよね。言い間違えるお客さん、多いんですよ!」
 柔和な目で筆者を見て、それから、やっぱり「ぷッ」と吹き出した。明るく言ってくれると、かえって救われる。
 (しかし、あんな重いものが、貨幣の替わりになるはずもない・・)。そう思った途端、こちらも声を出して笑ってしまった。何人かの客が驚いたように振り向いた。
 
 「レジ」で「電子マネー」だから「電子レンジ」になったのかな。へッ、へッ、へッ。やっぱり、おかしい。

断想片々(47) 【痛い親指、甘い柿】

2022年12月17日 | 言葉
 庭の柿の実が熟れた。さっそく捥(も)ぎ、ナイフで皮を剝(む)こうとして、左手親指先の指紋のある部分、いわゆる「指の腹」を切ってしまった。包帯を巻くものの、傷が深いらしく血が止まらない。困ったことに、というかアタリマエというか、止まらなければ何もできない。ここは「年齢の割に血液サラサラか・・」と都合良く解釈して、ゴロンと横になる。果報は寝て・・いや、止血は寝て待つことにした。

 とはいえ気になる。見ると、もう包帯に血が滲んでいない。寝転んだために血が止まったらしい。鼻血や生傷の絶えなかった子供の頃のチエを思い出した。<出血が多い時は、傷口を心臓の位置より高くする>。横になったので傷口が心臓の高さになった、ということだろうか。
 
 もっとも、問題は、ここからだった。触覚機能の代名詞たる指先には神経が集中しているのか、とにかく痛い。それに少し力を込めただけで出血する。日常の動作で親指の先を使うことがいかに多いかを、怪我をして初めて文字通り痛感した。
 例えば朝、歯を磨こうと、練り歯磨きのチューブのキャップを回す。左手親指でチューブをしっかり掴まなければキャップは外れない。つい、いつもの調子で掴むと激痛が走る。かくて右手のひら全体でチューブを握り、右手親指と右手人差し指でキャップをつまんで外す、という芸当が必要になる。時間をかけ、ゆっくりやれば意外と簡単だ。何度かの鋭い痛みに耐えつつ覚えた方法である。
 万事がこの調子。朝起きてパジャマのボタンを外し、シャツのボタンを掛ける。ここで最初の激痛が走る。顔を片手で洗う。朝食で目玉焼きを作ろうにも、料理のプロでもあるまいし、シロウトには片手では割れない。さて、食べ終わると食器洗い。独り暮らしゆえ、これも自分で。指先が滑るので洗剤は使えない。

 そんなこんなで本日にいたるまで10日間くらいは不自由した。それにしても親指の先だけで、これほど日常が不自由になるとは! 怪我してみなければ分からぬものだ。そうそう、皮が剝けないので放っておいたカキ。改めて皮を剥き、食べてみると、トロトロの熟柿に変わっていた。その甘いこと、あまいこと。柿が詫びを入れているのかと勘違いするほどに甘く、おいしかった。