ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

宮下奈都「羊と鋼の森」を読む

2024年05月09日 | 読書

宮下奈都著「羊と鋼の森」(文春文庫)をKindleで読んだ。この小説は2015年に刊行され、2016年の本屋大賞を受賞した。

この小説は、調律師をモチーフにした仕事小説であり、主人公の外村(とむら)青年の成長物語である。全然音楽の下地がない外村が、ある日学校の体育館にあるピアノの調律に訪れた板鳥氏の調律を見て衝撃を受け、卒業後、調律の学校に通い、板鳥の勤務する楽器店の調律師になり、周りの先輩たちを見ながら、成長していく物語である。

主人公の外村は幼いころ北海道の山間の集落の中で育った、そして家の近くの牧場で羊が飼われていたことを見てきた。本書の題名「羊と鋼の森」の羊はフェルトの材料、鋼は弦の材料、そして森は外村が育ち、羊が育ってきたところ、というわけだ。

本書を読むまで、ピアノが音を出す仕組みなど詳しく知らなかった。鍵盤を押すと、鍵盤に連動しているハンマーが鋼の弦を打ち、音が鳴る。ハンマーは羊毛を固めたフェルトでできている。ピアノには88の鍵盤があり、それぞれに1本から3本の鋼の弦が張られている、ということも知らなかった。

本書を読んで知ったこと、感じたことなどを書いてみたい

  • 最初のほうで上司の調律師の柳と外村が、木の名前の話をし、柳が自分は木の名前など全然知らないが、外村は木の名前だけでなく花の名前も知ってだろう、それはかっこいい、言う場面がある。昔読んだ坂東真理子「女性の品格」(文春文庫)の中で、日本は自然に恵まれた国で、昔から日本人は多くの花や木を愛でてきた、「万葉集」や「古今和歌集」、「枕草子」や「源氏物語」の中には花や木が歌われ、描かれてきたが、現代の日本人はこれらの花や木を知らなくなってきている。そうした木や花の名前を知っているということは、自然をいとおしむ態度につながり、自然を丁寧に観察しているといってよいでしょう、と述べている、これを思いだした。
  • 小説の中で、上司の調律師の秋野がどうして調律師になったか話すところがある、彼は、以前はピアニストを目指していたが、あきらめて調律師になったという、そして、外村が担当することになった双子の姉妹もそろってピアノを弾くが、妹は途中でメンタルな理由で弾けなくなり、最後は調律師を目指すという、そのような経歴の人が多いのかなと思った。それはいいことだと思う。最近テレビで「さよならマエストロ」というドラマがあり、その中でマエストロ役の西島秀俊が、指揮者になる人は演奏者の気持ちがわかっていなければならない、何か楽器が弾けなければその気持ちもわからない、と言っていたように思う、そういう意味で調律師もピアニストの気持ちや苦労がわかる人がなるというのはいいことだと思った
  • ピアノというのは精密な楽器だということがよく分かった、家庭にあるピアノ、コンサートホールにあるピアノ、結婚披露宴をやるレストランにあるピアノなど、置かれた状況、気象条件など音に影響するいろんな要因を考えて調律しないといい音は出ないというのがよく分かった
  • ピアノコンサートを聴きに行く場面があり、上司の秋野がステージに向かって右側に座っている理由が出てくる。私もピアニストの手元が見える左側がいい席だと思っていたし、実際に公演に行っても大体左側の席に多くの観客が座っている、ところが、この小説では、むしろ音に集中するためピアニストが見えないほうが良い、ピアノの大屋根の向きを考えても、音は右手側に伸びると考えるのが自然だ、と外村が考える場面がある。なるほどそういうものかと思った
  • 調律師が客の要望を聞き、理解するのはなかなか難しいということがよく分かった、お客さんが、くっきりした音がいい、とか、丸い音がいいとか、その目指す音は人によって感覚が違うので言葉だけで理解するのは難しい、確かにそういうものだろう
  • ピアノの音は調律によって変わるが、椅子の高さでも変わること、したがって、調律をするときはお客さんに一度椅子に座って弾いてもらって高さを調整してから調律するという、また、ピアノの脚のキャスターの向きによっても音が変わることが出てくる、実に微妙なものだ
  • 上司の板鳥さんが、調律で一番大切なものは、との問いに、「お客さんでしょう」と答えるのは意味深である、確かにそうかもしれない、外村は小説の中で何回か客から、もう来ないでいいとか他の調律師に交代させられている、これはショックだろう、それがなぜなのか小説の中では明らかにされない

調律師の仕事に関して忘れられないのは、むかし、辻井伸行のピアノコンサートに行った時のことだ。コンサートで、突然、ピアノ弾いていた辻井伸行が演奏を中止して、「これは僕の音ではありませんのでこれ以上演奏できません」と言って退場してしまったことだ。観客はみんな呆然として、どうなるのだと驚いた。そのあとどうなったかは覚えていないが、多分、休憩になり、その間に調律師が調律をやり直して、また演奏したのだと思う。本当にびっくりした経験だ。

また、最近でもあったのだが、ピアノの公演に行ってホールに入ると、舞台上で調律師が調律をしている時がある。ということは、調律後の音を確認せずに本番の演奏を始めるということだが、本書を読むと、そんなことがあり得るのかと感じた。そういえば、辻井伸行のケースも確か本番直前まで調律をしていたように思う。調律師が忙しすぎる人気の調律師なのか、何か事情があるのでしょうが、あまり美しい姿でないことは確かだ。

さて、この小説だが、クラシック音楽に興味のある人には読む価値が大きい本であると思うが、純粋に小説として読むと、ストーリーが単調なように感じた。読んでいって意外な展開もなければどんでん返しもない、色恋沙汰も全然ない、もう少し話に起伏があったほうが読んでいて面白いだろうと感じた。


坂口安吾「堕落論」を読む

2024年05月08日 | 読書

坂口安吾(1906年〈明治39年〉~1955年〈昭和30年〉、48才没)の「堕落論」(青空文庫)をKindleで読んでみた。無料。名前は知っていたがどういう小説を書いているのかは知らなかった、今回読もうと思ったきっかけは忘れたが、興味を持った。

堕落論は終戦直後の1946年(昭和21年)4月に発表されたもので、わすか14ページのエッセー(評論)である。ウィキペディアによれば、「堕落論」は、終戦後の暗澹たる世相の中で戦時中の倫理や人間の実相を見つめ直し、〈堕ちきること〉を考察して、敗戦に打ちのめされていた日本人に大きな影響を与えた、とある。

読んで安吾が主張していることやその感想を書いてみたい

  • 農村社会の不合理さ、理不尽さ、農村の耐乏生活、排他性、独特のずるさなど、農村は文化の担い手などにはなりようがない
  • そしてその耐乏、忍苦の精神が合理性を無視し、戦時中は兵器は発達せず、兵隊は耐乏の兵隊で、便利の機会は渇望されず、肉体の酷使耐乏が謳歌されて、無残極まる大敗北となっている
    コメント
    排他性は農村だけでなく、あらゆる集団であったでしょう。合理的発想より精神論を振りかざすのは確かに日本人の欠点でしょう、合理的判断ができずに情緒的な感情で意思決定すれば、仮に再び戦争になったらまた負けるでしょう

  • 天皇の尊厳などは常に利用者の道具に過ぎず、真に実在したためしはない、昔から最も天皇を冒涜する者が、最も天皇を崇拝していた
  • 藤原氏や将軍家がなぜ天皇を必要としたか、それは自らを神と称して絶対の尊厳を人民に要求するのは不可能だからだ、この戦争(大東亜戦争)がそうではないか
  • 昨年の8月15日、閣下の命令だから忍びがたきを忍んで負けよう、それは嘘だ、我ら国民は戦争をやめたくて仕方なかったのではないか、天皇の命令など欺瞞だ
  • われわれ国民は天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している、そして人間の、人性の、正しい姿を失ったのである
    コメント
    天皇を権威として利用してきた歴史という指摘はその通りでしょう、その結果、人間としての正しい姿を失った、という点はちょっとピンとこないが、それは以下で

  • 人間の、また人性の正しい姿とはなんぞや。欲するところを素直に欲し、嫌な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ
  • 好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎとり、赤裸々な心になろう、そこから自我と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる
  • 日本国民諸君、私は諸君に日本人、及び日本自体の堕落を叫ぶ、日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ
  • 私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、死して日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない
    コメント
    安吾が主張する「堕落しろ」というのは現実を支配している封建的発想から自由になれということでしょう。一方、つい先日読んだ「日本文化防衛論」で、三島由紀夫は、人間性の無制限な解放は必ず政治体制の崩壊と秩序の破壊に帰することは自明である、と述べているが(p132)、安吾はそれでも良いから不合理な古い制度などは全部破壊してしまえと極論を言っているのだろう

  • 人間の真実の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる、この生活は世界連邦論だの共産主義などというものがいかように逆立ちしても、どうもなしえるものでもない。
  • 我々の為し得ることは、ただ、少しずつ良くなれ、ということで、人間の堕落の限界は案外、その程度しか有り得ない。人間は無限に墜ちきれるほど堅牢な精神に恵まれていない。
    コメント
    安吾の「堕落せよ」との主張は極論で過激に見えるが、実は常識的なものだと思った。ただ、人間の堕落の限界をあまり重く考えていないようだが、共産主義者などがそれを悪用して、三島の主張するような事態を引き起こす可能性は高いだろう

いろいろ研究すると面白い作家かもしれない、と感じた。

 

 


宇都宮ガーデンゴルフ、そのあと道の駅たかねざわ、宝積寺駅に行く

2024年05月07日 | ゴルフ

栃木県高根沢町の宇都宮ガーデンゴルフクラブに行ってきた。何回か来たことがあるコースだが、最近来ていなかった。家から100キロ、車で2時間かかるためだ。天気は曇り、最初のうち一時雨、その後時々晴れに。費用は2人で19,000円だった。

このコースは平成8年開場、母体はミサワホーム、名称もミサワガーデンゴルフだった。平成16年にミサワホームが民事再生法を申請し、平成17年にゴルフ場再生ファンドのジャパンゴルフプロジェクトの傘下となり、平成21年に韓国系企業に経営交代して現在に至る。日本のゴルフ場はどこも同じような経緯を辿っているところが多い。

コースの内容は、18ホール、ワングリーン、ナビ付きリモコンカート、設計は宮澤長平氏。コースは日本人の設計だがフェアウェイには大きなアンジュレーションがあり、グリーンもワングリーンで広いアメリカンスタイル。各ホール変化があって面白い。距離はバックティーで6,800ヤードでまあまあ。

この日はゴールデンウィークであったが雨予想で、予約していた組数の半数がキャンセルしたとのこと、すいてはいたがプレーの進行は遅かった、毎ホールティーショットで待たされ、ストレスがたまった、ハーフ2時間30分近くかかったので、運営には問題ありだ。遅い理由の1つは前の組が250ヤードを過ぎないとティーショットのOKが出ないためだ、そこまで飛ばせる人は少ないので、カートナビを見て自分で判断させた方が良いと思うが、過去に打ち込みトラブルでもあったのかもしれない。

レストランは韓国系企業の経営ということもあって韓国料理が多く、また、キムチなどの惣菜が食べれたのは良かった。

さて、今日はコースを後にしたのは2時くらい。この日は家から2時間もかけて来た以上、すぐに帰るわけにはいかない、せっかくの機会を有効活用しなければと思い、ゴルフのあと、近くにある「道の駅 たかねざわ 元気あっぷむら」に寄ってみた。ここには天然温泉、グランピング、コテージなどもあり、結構人が来ていた。ショップで晩ご飯のおかずや翌日の朝食用のスコーンを買った。

そして、まだ時間があったので道の駅のインフォメーションセンターでもらった高根沢地区の観光案内に出ていた宝積寺駅に行ってみた。この駅は2008年建替時の駅舎の設計を隈研吾氏に依頼したことで有名になったそうだ。

この駅舎の特徴は、駅の本体構造は鉄骨造としたが、天井は構造用合板とダイアゴナルなジオメトリーで組んだ、一種の木製格天井としたことで、かつての木造駅舎が有していたような、地域の核にふさわしいやさしさと温かさがあることだ、と説明されている。

確かに駅舎の天井は木造の複雑なものとなっておりユニークさが存分に発揮されていた。良いものを見せてもらいました。

今日も長い1日、お疲れ様でした。慎重に運転して無事に帰宅した。


「森下幸路ヴァイオリンリサイタル」を聴きに行く

2024年05月06日 | クラシック音楽

10年シリーズ+第27回、森下幸路ヴァイオリンリサイタルを聴きに行ってきた。場所は東京文化会館小ホール、席は自由席、チケットは4,000円。半分くらいは埋まっていた。14時開演、16時終演。

出演

ヴァイオリン:森下幸路
ピアノ   :川畑陽子

森下幸路は京都市生まれ、4歳よりヴァイオリンを始め、幼少を米国で過ごし、早くから才能を開花させた。帰国し1989年、桐朋学園大学音楽学部卒業、在学中より東京ゾリステンや新星日本交響楽団(現・東京フィル)のゲスト・コンサートマスターを務めるなどの活動を内外で始め、1996年から毎回テーマを設けて挑む「森下幸路10年シリーズ」と題したリサイタルを東京文化会館と仙台でスタート。現在、大阪交響楽団首席ソロ・コンサートマスター

川畑陽子は釧路市出身、5歳よりピアノを始め、桐朋学園大学音楽学部卒業。在学中より演奏活動を始め、1997年にはセヴィリアでの音楽祭、2013、14年には台湾へも招かれ、15年より北ドイツ音楽祭に招聘されている、国内では森下幸路の共演者をしばしば務め、東京文化会館小ホールと仙台でのリサイタルでは「ピアニズムにおいても陰影の機微を解した表現の丹念さにおいても抜群の力量を感じさせる。」(音楽の友)と高い評価を受けている

本日の出演者については失礼ながら知らなかったが、良い演奏をしてくれたと感じた。最初の曲の演奏開始前に室内が暗くなり、いよいよ出演者が登場というところだが、舞台の上も暗くなり、そこに二人がそっと影のように出てくる、そして舞台がすこしだけ明るくなると二人の姿が浮かび上がるように現れ、静かに最初の曲「月の光」を弾き出す、このような曲想にあった雰囲気満点の演出は初めてで驚いたが良いアイディアだと思った。

曲目

フォーレ/月の光
武満 徹/妖精の距離
シベリウス/即興曲Op.5-5(ピアノ独奏)
クーラ:無言歌Op.22-1
グリーグ/ヴァイオリン・ソナタ第2番ト長調
ベートーヴェン/ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第9番イ長調「クロイツェル」

この日の曲目は「クロイツェルソナタ」以外は聞いたことがない曲であったが、一曲ずつじっくり演奏に耳を傾けて聴けたのはよかった。特にシベリウスの即興曲やグリーグのヴァイオリン・ソナタが初めてでも聞きやすく、良かった。

さて、この日の演奏で、プログラム終了後のカーテンコールでアンコールのクライスラーの「愛の喜び」を演奏後、森下幸路が観客に向って少し話をしてくれた。内容としては、コロナが収束して普通の生活に戻ってコンサートもできるようになって良かった、健康でいることの大切さ、自分の弟の名前は「健康」で、医者になった、昨年は仲間やマエストロとの別れがあったが、音楽を通じて天国とつながっているような気がする、などをゆっくりと話してくれた、これは良かったと思う。

そしてその後、アンコールの2曲目が川畑陽子のピアノで静かにスタートすると、「あっ、Morgenではないか」と直ぐにわかりうれしくなった。例のRシュトラウスのMoren(独語で「明日の朝」の意)である。ピアノとヴァイオリンの組み合わせで聞くのは初めてだが、実に良かった。この日の演奏では森下幸路のヴァイオリンも素晴らしかったが、川畑陽子のピアノも非常に良かったと感じた。このMogenのピアノは上品なタッチで気持のこもった演奏であり感動した。彼女のピアノの腕前も相当なものだと思った。森川幸路だけでなく、彼女の話も聞きたかった。

(アンコール)

クライスラー 愛の喜び
R・シュトラウス Morgen

良い公演会でした。

 


女子ゴルフ「サロンパスカップ」を観戦する

2024年05月05日 | スポーツ観戦

今週、茨城ゴルフ倶楽部東コースで開催されているゴルフの女子プロ公式競技World Ladies Championship Salonpas Cup初日を観に行ってきた。チケットは事前に購入すると割引になり3,000円、嫁さんと二人で6,000円。

だいぶ前からこのトーナメントを観に来ている、女子プロたちのプレーを見たいということだけではなく、このコースを見たいという思いもある。有名なコースで、プレーしたことがなかったからだ。昨年、初めてプレーする機会に恵まれた、今回と同じ東コースで、素晴らしいコースだった。

今年もまたこのトーナメントの時期になった、春になり、芝も新しく生えそろうこの時期、気候も良く、晴れれば絶好のゴルフ観戦日和りである。幸い、この日は朝から1日晴れで存分に観戦を楽しめた。

今回は前日から当日明け方まで雨が降り、下が泥濘んでいるのでギャラリー用駐車場の足場が悪く、車のタイヤやボデーが汚れることが想定されたので車で行くのはやめにして、電車で行くことにした。TXのつくばみらい駅から送迎バスで10分もかからない便利なところ、7時過ぎに到着した。

最初に練習場でプロたちが練習しているところをしばらく見て、そのあと、特定の組について先ずはアウトコースから観戦し、そのあとインコースに回った。人気がある選手の組につくと大勢のギャラリーが集まっているので観戦するのも選手と一緒に移動するのも大変なので無名に近い選手の組について観戦した。コースは平に見えるところも多いが結構アップダウンがある。選手について歩いていると結構運動になる。

11時くらいまで4時間観戦してコースを後にした。今日の観戦でゴルフスイングの良いイメージができました。

 


筒井清忠「戦前日本のポピュリズム、日米戦争への道」を読む(その3・完)(追記あり)

2024年05月04日 | 読書

2024/5/4追記

現在放送中の朝ドラ「虎に翼」で、寅子の父直言が「共亜事件」という政財界を揺るがした疑獄事件で逮捕され裁判にかけられる。いろいろあって被告人は全員無罪となったが、裁判官が「無罪となったのは証拠不十分ではなく、疑惑そのものが全く存在しなかったためだ」と説明する場面があった。

この事件のモデルは「帝人事件」である、事件がでっち上げであったことが筒井清忠氏の本に書いてあった(下記の一番上の記載参照)。同様な記述は昨年読んだ北岡伸一氏の「日本の近現代」にもあり、その時もブログで取りあげた(こちら参照)。

自分が書いたブログで取り上げた事件がテレビで放映されたので、記念にその旨追記した。なお、寅子のモデルとなった三淵嘉子さんの父親の武藤貞雄さんは、この帝人事件とは無関係でありテレビのだけのフィクションである。

以下、2023/11/19当初投稿

(承前)

  • 時事新報が報道した帝人事件は、その後各メディアが大きく取り上げ、政治家・官僚が16名も逮捕・起訴され、斉藤内閣は総辞職した。たが、この時も明確な証拠を示しての報道ではなかった。その結果、裁判では全員無罪となった。裁判官は、この判決は証拠不十分で無罪になったのではなく、全くの犯罪の事実がなかったことによる無罪であり、この点間違えの無いようにされたいと語った。無罪判決が出ると新聞は、政界腐敗と批判して内閣崩壊までさせた反省もなく、検察批判に転じた。こうしてこの事件は政党、財界の腐敗を印象づけ、正義派官僚の存在をクローズアップさせた事件として記憶に残るものになった。
    (コメント)最近では慰安婦強制連行報道が典型だ。根拠があやふやな本を頼りに大騒ぎし、日本及び日本人の名誉を大きく傷つけ、日韓関係を無用に悪化させた。
  • 1939年に欧州で第二次大戦が始まり、ドイツの勝利が続くと、例えば大阪朝日は連日のように独伊の優勢とイギリスの劣勢を論じた、7月13日には「大転換必至の我が外交、日独伊連携・現状打破外交へ」と題し、「世界大変革の大渦の真っ只中に東亜の現状打破とその新秩序建設に向かって長期推進せんとする日本と、欧州の再建に向かって現状打破の大業に邁進しつつある独伊とが、世界新秩序偉業の前にその関係をいよいよ緊密化して行くのは必然の姿である」と論じた。
    (コメント)世界情勢を見る目がないのは戦後も同じではないか。
  • ドイツの大勝に煽られて、バスに乗り遅れるなという大衆の興奮があったが、この「バスに乗り遅れるな」という言葉を初出は朝日新聞(1945年6月2日)のようだ。
    (コメント)新聞社が何かキャンペーンのように大げさに報道し、1つの方向性や空気を作り出したら、「何かおかしくないか、違った見方は無いのか」と思うべきでしょう。最近のガザのパレスチナ人がかわいそうだと言う報道もそうだ。

この本の最後で著者は以下の様に述べている。

大衆運動の結果、普通選挙が実施され、大衆の代表としての二大政党制が成立した後、新聞は、二大政党制を積極的に支援し育成しようとしなかった。政治家の腐敗、スキャンダルを大々的に報道し、大衆に政党不信を植え付けた。この結果、新聞・知識人は、より清新と観られた近衛文麿・新体制や軍部に現状打破勢力として期待をしていくことになるのである。しかし、この既成政党批判と清新な力への渇仰が招いたのは、結局は大政翼賛会という名の政党政治の崩壊と無極化であった。戦前のポピュリズムが招いた国内政治における最後のものは大政翼賛会だったのである。

では戦後も続くこのような傾向をどうして改善していけば良いのか、著者は、読者自身に考えてもらいたいとしながらも、その基礎となるのは清沢洌が説いたように日本のメディアの知的向上であり、その前提としての統計など正確な資料報道の重視であると説く。そして、メディアに対して批判・攻撃をするばかりでなく、よいメディアを育てていくのも、政党政治を育てるのと同じく国民がなさねばならぬことだという認識が広く必要であろう、と締めくくった。

著者の言うとおりだろう。ネットでは新聞論調に左右されない多様な意見が出てきているのは良い傾向だ。また、AMラジオの朝のニュース番組でも新聞論調とは異なる中道路線の番組があり、これも多様性の観点から良いことだ。新聞やテレビで世の中の空気が1つの方向に傾くのが一番危険だと思う。ここに新聞再生のヒントがあるのではないか。

(完)


三島由紀夫「文化防衛論」を読む(3/3)

2024年05月04日 | 読書

(承前)

学生とのティーチ・イン(三島の講演、その後の質疑)

  • 日本ではどういう危険があるかというご質問だったと思いますが、それは政治体制の危険じゃないと思います、つまり日本人の民族性というものだと思います、日本人の民族性は、ご承知の通り振り子のように、こっちの端へ行くとまたこっちの端へ行く傾向があるので、それをこっちの端へ行かないように、いまいろいろ平和憲法なりがチェックしているわけです、戦前のような形で容易には起こりえないというふうに私は考えております
    コメント
    極端から極端に振れるブレの大きさは日本人の民族性かどうかわからないが、非常に危険であることは間違いないと思う、しかし、三島の「平和憲法がチェックしている」とか「戦前のような形で容易には起こりえない」との考えは甘いと思う、平和憲法自体が極端な発想であり、憲法制定当時と最近の日本の周辺環境、世界情勢があまりに違い過ぎるということを大部分の日本人はもう気付いている、変われないのは・・・
  • 共産社会に階級がないというのは全くの迷信である、日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢にプール付きの別荘を持っている、そして日本にはどういう階級がありますか、会社の社長だって昔の三井、三菱に較べれば自分の自由なんて一つもありゃしない、こういう人たちの家に行ってみましても、昔だったら召使い何十人といたがいまは二三人だ、私は階級差というものの甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきたが日本では無階級に近い
    コメント
    その通りでしょう、三島のいうとおり今の日本には欧米のような格差もないし、2.26事件当時の貧困はないでしょう
  • 戦争ではいつも共産党はそうなんです、ソ連に限らずこういう国は熟柿作戦と申しまして、柿がまだ熟さないうちには決して自分でもいで食べようとしない、熟して落ちかかってきたときに手を出してポッともぎ取って食べる、上海で戦後、市民は戦争に飽き飽きしていて、平和を求めていた、もう平和さえくれれば何でもいいやという心境になっていた、そこに人民解放軍が呼びかけてきた
    コメント
    戦後の日本も同じでしょう、国民が厭戦気分になってきたところに、正義の味方米軍が来て、悪い日本人を処刑し、日本人に贖罪意識を植え付け、保守派を一掃した、そしてその隙に左派思想が学校、マスコミに入り込み、或は自ら転向して検閲などの占領政策に協力し、それが固定化した
  • 軍隊は栄誉のために死ぬという大きな特徴を持っているので、それがないと傭兵になってしまう。やはり何かのために死ぬということが大事である、それが私がかなり抽象的な「文化防衛論」で述べたことです、結局文化を守るために死ぬのであり、その文化の象徴が天皇の役割ということなのです。
    コメント
    国のため死ねるかという質問にNoと答える人の比率が多い国の一つが日本となって久しい、これは国家権力や愛国心を敵視し、自由が何にもまして大事だと主張してきた左派マスコミ報道が影響してるでしょう
  • 私は、言論と日本刀は同じもので、何千何万人相手でも、俺一人だというのが言論だと思うのです、一人の人間を多勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて暴力という、日本で言論だと称されているものは、あれは暴力
    コメント
    その通りだ、特定の代議士の非違をあげつらって社説で何度も非難する新聞があるが、こういう冷静さを失った紙面作りは批判を通り越して暴力でしょう。わが国新聞は、ジャニーズ問題の報道姿勢をみても、とても言論などと偉そうに言えるものではないだろう

果たし得てない約束

  • 25年前に私が憎んだものは、多少形は変えはしたが、いまも相変わらずしぶとく生きながらえている、生きながらえているどころか、おどろくべき繁殖能力で日本全体に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善という畏るべきパチルスである、こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終るだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった、おどろくべきことには、日本は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである、政治も、経済も、社会も、文化ですら
    コメント
    その通りでしょう、そしてそれは今も続いている。それにもっとも貢献しているのがメディア、学者でしょう、更に自民党も戦後体制から脱却するのをとっくの昔に放棄し、安易に流れ、選挙の前になると保守的ポーズを取るだけの無責任政党になりはてた、全員が戦後体制利得者となり、現状変更を拒み、やがて国を滅ぼすでしょう
  • 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない、このままいったら日本はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする、日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、ある経済的大国が極東の一角に残るであろう、それでも良いと思っている人たちと私は口をきくきになれない
    コメント
    あまりに有名な一節。これを打破するのは、新聞・テレビなどの左派思想に洗脳されていないネット世代が社会の大部分を占めるようになった時だと思う、彼らが左に傾きすぎた日本を健全な中道路線に戻し、自由と平和の維持に積極的に貢献する責任ある国家「日本」を作ってくれるでしょう。明治維新も戦後の復興も若い人たちがやった、今の日本もきっと若い人たちが再生してくれるだろう

(完)


名曲喫茶「でんえん」2024年初訪問

2024年05月03日 | カフェ・喫茶店

国分寺にある名曲喫茶「でんえん」に久しぶりに行ってきた。駅の北口から歩いて5分くらいか、かなり旧くなった一軒家の入口を入ると、店主のマダムが入口近くの席でお出迎えしてくれる。先客は2名なので席は空いている。好きな席にどうぞ、ということでスピーカーから少し離れた席に座る。

ここは昭和32年創業とあるからすごい、開店当時から内装などはほとんど変わっておらず、当時の雰囲気が残ることから、ドラマのロケーション撮影などに利用されることもあるそうだ。

今日はブレンドコーヒーとチーズケーキのセットメニュー900円を注文する。店内には本箱もあり、雑誌が置いてあるテーブルもあるので、そこから雑誌を取って読みながら待つ。

スピーカーからは比較的大きな音でクラシック音楽が流れている。ショパンのピアノ協奏曲1番だった。店内は会話禁止ではない、店の人も客と普通に話している、ただ、店主が高齢なので話すときはマスクをしてくれ、と張り紙に書いてある。

コーヒーとケーキが出てきたので、しばしコーヒーを啜りながら音楽を聴く、ここはLPかCDかはわからないが、かかっている曲はクラシック音楽の最終楽章までの全曲ではなく、特定の楽章だけなのが面白い、今度行ったときなぜそうするのかなど聞いてみたい。

店内の壁には何枚かの絵も掛かっている。

良い雰囲気の中でゆっくり過ごせた、客もあまり入ってこない、いつまで続けられるの心配になる、マダムの他にもう1名女性の店員さんがいるが、この人がマダムの子どもさんかお孫さんか、アルバイトかはわからないが、何時までも閉店せずにいてもらいたいものだ。

ご馳走様でした


三島由紀夫「文化防衛論」を読む(2/3)

2024年05月02日 | 読書

(承前)

  • 守るとは何か、守るという行為には必ず危険がつきまとう、平和を守るにはつねに暴力の用意が必要であり、守る対象と守る行為との間には、永遠のパラドックスが存在するのである(p40)、「平和を守る」という行為と方法が、すべて平和的でなければならないという考えは、一般的な文化主義的妄信であり、戦後の日本を風靡している女性的没理論の一種である(p50)
    コメント
    女性的云々というところは除き、その通りでしょう、これがわからないのがリベラル左派新聞や軍事研究を忌避する学者たちでしょう、ならず者国家からみれば良心的日本人であり、かつ、利用価値のある日本人たちだ。非暴力的な方法だけではウクライナは守れなかった事実を見て国民は現実に気付いている
  • 日本は世界にもまれな単一民族、単一言語の国であり、われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかっている、異民族問題の強調自体がこの民族と国の分離の強調であり、終局的には、国を否定して民族を肯定しようとする戦略的意図に他ならない、在日朝鮮人問題は日本国民内部の問題ではあり得ず、革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない(p60)
  • 国と文化の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるのが天皇であり、雑多な、広汎な、包括的な文化の全体性に、正に見合うだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の真姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない(p73)、菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇であるから、軍事上の栄誉もまた文化概念としての天皇から与えられなければならない、天皇に栄誉大権の実質を回復し、軍の儀仗を受けられることはもちろん、連隊旗も直接下賜されなければならない、そうしなければ容共政権が成立したとき、天皇制は利用され、ついには捨て去られるに決まっている(p79)
    コメント
    三島氏が容共政権成立の際の天皇の立場を心配するのはわかるが、天皇に国の統治権ではなく栄誉大権の実質を回復しても、結局、戦前と同じように誰かにうまく利用されるだけになるのではないか

自由と権力の状況

  • チェコ問題はタカ派を勢いづかせると同時に、ハト派にも奇妙な論理を許し、大国の武力の前には戦っても甲斐ない僅かな武力を用いるよりもチェコのような非武装の抵抗こそ唯一の力であると主張する者もある。完全無防備抵抗は民族の自立を否定する思想であると言わなければならない
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    その通りでしょう、テレビでウクライナに対して被害をこれ以上出さないために直ぐに降伏せよと主張する声のでかいコメンテーターがいた
  • そもそも人間性の無制限な解放とは、おのずから破壊を内包し、政治秩序の完全な解体を目睹し、そこに究極的にはアナーキズムしか存在しないのは論理的必然である。言論の自由ないし表現の自由と、あらゆる形の政治秩序との矛盾がひそんでいる。人間性と政治秩序との間の妥協こそが民主主義の本質なのである(p131)
    コメント
    その通りでしょう、自由が大事だとばかり主張している人たちは無責任であると思う、自由には責任が伴うし、自由が無制限に認められるわけでもない

(続く)


三島由紀夫「文化防衛論」を読む(1/3)

2024年05月01日 | 読書

三島由紀夫著の文庫本「文化防衛論」(ちくま文庫)を読んだ。三島(1925-1970、本名平岡公威)の小説は「金閣寺」や「仮面の告白」、「サド侯爵夫人」、「春の雪」などしか読んでないが、昨年、猪瀬直樹氏の書いた「ペルソナ」を読んだ(その時のブログはこちら)、この本は平岡家三代の物語で大変面白かった。最近も「三島由紀夫論」という本が出ており、依然として注目すべき作家となっているようだ。

今回は小説ではないが、偶然見つけた面白そうなタイトルの本だから読んでみた。その中で特に感心を持ったところを記載してコメントしてみたい。よって、これは本書の要約ではない

反革命宣言

  • われわれは共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企図、あらゆる行動に反対するものである
  • われわれは護るべき日本の文化・歴史・伝統の保持者であり、代表者であり、かつその精華であることを以て自ら任ずる、よりよき未来社会を暗示するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する
  • 戦後の革命思想は、弱者の最低の情念と結びつき一定の政治目的へ振り向けた集団行動である、彼らは日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかり、それを革命に利用しようとするのである、例えば原爆被害者を自分たちの権力闘争に利用した
  • 政府にすら期待してはならない、彼らは最後には民衆に阿諛するからである

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共産主義や革命思想の欺瞞は指摘の通りである、左派は弱者、少数者、被害者などに寄り添う姿勢を見せながら、それらの人たちを政治的主張のために利用している、よって利用価値の無い被害者などはほとんど取り上げないのは今も同じでしょう
ただ、政府にも期待せずに自分たち少数で日本の文化・歴史・伝統を守ろう、と何か自分たちで行動を起こそうとしている(現に最後に起こした)、その行動の中身が問われる。また、よりよき未来を否定するという考えもよく理解できない

文化防衛論

  • 若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しになってもよく、それによって世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのを聞いて、これがそのまま、戦時中の一億総玉砕思想に直結することに興味を抱いた、戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のように、戦後思想へ伝承されている
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    その通りでしょう、戦前は極端な強硬論、戦後は極端な消極論(平和論)、ブレが大きく思い込みが激しい日本人や日本の言論空間。どちらも国を危うくする発想だと思う。常に多様な見方に接し、頭の体操をする癖をつけないと日本は再び危険な状況を迎えるでしょう
  • 文化とは、例えば源氏物語から現代小説まで、禅から軍隊の作法まで、すべて「菊と刀」の双方を包摂する。現代では「菊と刀」の「刀」が絶たれた結果、日本文化の得失の一つである、際限もないエモーショナルなだらしなさが現れており、戦時中は「菊」が絶たれた結果、別の方向に欺瞞と偽善が生じたのであった(p48)
    コメント
    その通りでしょう、その意味で現代の日本は戦前と同様に非常に危険な状況にあると言えるでしょう、新聞や学者は軍事を極端に忌避する、この「刀」を敵視するが如き極端な発想が危険である。また、理性や合理的・科学的判断に訴えるのではなく、情緒的感情(エモーショナル)に訴える、これも大変危険である。「安全だが安心できない」とか、「唯一の被爆国」とか、情緒的な主張は国際社会では説得力が無いでしょう、最近の福島原発処理水の海洋放出は科学的主張が国際社会を説得した一つの好例であろう

(続く)