城郭 長谷川博美 基本記録

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滋賀近江歴史城郭疑問符?

2020-11-16 20:18:35 | 城址見学会予定 
滋賀近江歴史城郭疑問符?

対談者
私には素朴な疑問があります。
何故?織田軍琵琶湖上水城ネットワーク4城
に一番織田軍の根本城郭、丹羽長秀の佐和山
城が入らないのか?素朴な疑問を感じますが?

一般者
素朴、純粋、真面目は良い事です。時に純粋な
心の子供が大人社会の矛盾を刺すような指摘を
する事もあります。それは真理かもしれません。

対談者
長谷川先生に長浜市余呉天神山城の西郭を案内
してもらいました。天正11年期の陣城遺構です。
また何故か?東近江伊庭山城と非常に似てます。
▲長浜市天神山城▼東近江伊庭山城址


長谷川
東近江能登川町の徳川家康の休憩所、伊庭御殿は
元来徳永石見守寿昌「ながまさ」の居館であった
と伝承されています。伊庭御殿の東山頂の伊庭山
の背後を守る伊庭山城は山麓居館に対する山頂の
詰め城であった可能性があります。また伊庭の乱
を引き起こして佐々木六角に半旗をひるがえした
近江国小守護代「伊庭氏」の元々の家臣が徳永氏
であったとされます。天正11年賤ケ岳の戦いの時
に羽柴秀吉は当時長浜城主だった柴田伊賀守勝豊
の家臣に徳永石見守寿昌「ながまさ」がおります。
長浜の天神山城と東近江の伊庭山城の形状が類似
する事を指摘された貴方は行政区歴史観から広域
の歴史遺跡比較研究視点が発達されたのでしょう。

一般者
確かに似てます!伊庭山城と天神山城は似てる!
これって歴史城郭の比較研究論と言うのですか?

対談者
そればかりか羽柴秀吉が修築した近江長浜市内の
横山城の南にある観音丸郭と、長浜市天神山城も
非情に似た類似した城郭だと思います。観音丸↓▼


一般者
しまったわ!長谷川先生が観音丸をよく観察して
下さいと、言われた事の真意が今頃解りました。
越前金ケ崎城の2重堀切も見落としていました。

長谷川
まあまあ御気楽に、のほほん、のほほん、が大切。
世の中、ボーットしていたほうが気楽で楽しい!

▼長浜市余呉町天神山城 西城部
▼長浜市天神山陣城現地解説版ブログ著者作成


長谷川
横山城は発掘により秀吉期と思われる改修がその
発掘層位から報告されてます。文献『信長公記』
に信長から横山城代に秀吉が指名され事も記載。

一般様
しかし柴田伊賀守勝豊の家臣達が長浜市余呉に
きていた文献資料が実際あるのでしょうかね?

長谷川
天正11年3月に羽柴秀吉から弟の羽柴美濃守秀長
にあてた書状には「柴伊衆」と表記されてます。
「柴伊衆」とは当時の柴田伊賀守勝豊家臣達の
徳永、山路、大鐘、木下、小川、などの長浜衆
の事を意味します。

対談者
私は長谷川先生と
東近江伊庭山城も
長浜市横山城も
同余呉町の久太郎小屋跡も
そして今度は長浜市余呉の
天神山城3城を見学します。

一般様
すげえなあ~是非行ってみたいなあ~!わくわくする!

城郭 片岡天神山城2城(茶臼山も含む3城)
特徴 ★ 賤ケ岳合戦 天正11年 初期段階の陣城
   ★ 典型的織豊系陣城にして高度な縄張技巧
講師 歴史城郭研究家 長谷川博美 当該ブログ著者
主催 余呉城郭研究会 ウッデイパル余呉
開催 2020年令和2年 11月21日 土曜
会長   生月茂氏
名誉理事 田畑喜久弘氏
現地受付 宮本さん
予約先 ウッデイパル余呉 城郭係
☎ 0749-86-4145 ★火曜は定休日です。

※お車で参加の人 当日午前10時 駐車料金無料
余呉観光館前/滋賀県長浜市余呉町下余呉1938番地

※電車で参加の人
JR北陸線余呉駅 当日午前10時10分

参加費 2500円
特典  ①送迎バスあり「見学会員用送迎バス」
    ②弁当付
    ③資料A4/8ページ
    ④講師による詳細現地遺構詳細解説
★注意 弁当用意の為に事前予約制です。

質問者
城郭講演に行くと西浅井町「現長浜市合併」
には全く城郭がないと言われますが下記に
は北近江国人筆頭に熊谷下野守が記されて
います。塩津、今西、南浜、等に居住して
いた北近江国人筆頭の熊谷下野守らの山城
が塩津谷つまり西浅井町に存在するのかを
長谷川先生に質問しましたら10箇所以上の
城址があると言う事で非常に驚きましたよ。
西浅井の西岡城に長谷川先生と見学行った
ら物凄い堅固で立派な城址に驚いています。
私達が歴史講演で学んでいる内容と現実の
実際の山城には開きや、ネジレがあります。
歴史とは文字だけ講演だけが第一の歴史?
なのですかね?私は何を信じたら良いのか
長年悩んでおります。長谷川先生の城郭の
師匠や先生はどなたですかと?質問しても
何時も答えは「私の城の先生は人ではなく
城址そのものから学んでおります」が口癖。


『天文三年浅井備前守宿所饗応記』
浅井備前守(亮政)
御屋形様(京極高清)
御曹司様(高広)

「一族衆」
京極加賀守政数
加賀五郎(政数甥)
黒田四郎左衛門尉(宗清)
岩山民部少輔
高橋兵部少輔(清世)
碧憪斎

「奉行人」
大津若狭守(清忠)
山田越中守(清氏)

「国人衆」
熊谷下野守直房★
多賀豊後守貞隆
河瀬九郎左衛門尉
河瀬新六
下河原宗兵衛尉

長谷川
さてさて『饗応記』文面だけを読むと
何も解りません。当時の武家社会には
武家社会の有職故実智識や含蓄が必須
です。
熊谷下野守は当時の昇殿席次を鑑みるに
京絵氏に次ぐ席次を誇っている。
しかもも熊谷下野守殿と「殿」の敬称を
用いている浅井備前亮政は、席次も低い
当時の江北のヒエラルキー階級を痛切に
感じる資料と言えます。その熊谷氏達が
割拠した塩津谷に城が無いなどとは良識
ある研究家なら軽々に断言はできません。
日本海から塩の道を押えてた塩津熊谷氏
が山城ひとつも構えられないなどと道理
が、通りません。熊谷氏の城は隠然たる
西岡城として輝いています。また文献的
 資料価値の高い『菅浦文書』などでも
「しおつ勢」なる文言で書き記されてる。






コメント
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