伊勢ー白山 道

集団では無く、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します

至高体験は唯の通過点

2008-08-06 19:48:04 | Weblog

今までの精神世界の有名な指導者や教祖は、見神体験や
至高体験を語って来ました。
そして、それを聞かされた普通人は、そうなる事が良い事だ
と誤解して、その様な体験を目指して努力するが、自分は
奇異(←皮肉です)を体験できないから駄目だ。 先生は凄い
人だ。 と、成って来たのです。 そして、先生を勝手に妄信
するのです。
はたして、至高体験をする事が人生で最も大事なのでしょう
か? その体験をすれば、働かなくても良いのでしょうか?
子供は無事に育つでしょうか?
答えは、NOです。 
至高体験を重視する人の特徴は、大きく2つに別れます。
1. その体験を語る事により、それで人々からの金銭奉仕で
  生活出来る、結構な身分の人間。
2. 体験をした為に、この世を早く去る様な生き方を選び、
  短命。 家族を作り子孫を残す事にも、意味を見出さずに
  終わる人。 最終的に自殺する人もいます。

もし世の中、このような人間ばかりだと、未来はどうなるので
しょうか? 社会生産活動をしない人間が増えると、誰に寄生
する事に成るのでしょうか? 社会の衰退、破滅へ向きます。

禅の悟りの段階を10段階で示唆する「十牛図」においても、
「見牛」・・・悟りの状態を垣間見るレベルは、初期のほんの
3段目に過ぎないと位置づけられています。
最終段階の全ての至高体験、悟りを経た後の10段目の人は
入鄽垂手(にってんすいしゅ) 」・・・修行を離れて街中に出て
人々と戯れる。 と、なっています。
これは、真に正しい表現だと私の体験からも思います。

私の至高体験、見神体験を振り返ると、それは言葉では表現
し尽くす事が出来ない体験です。 でも、それは過ぎ行く体験
の1つにしか過ぎないのです。 そんな体験が続けば、社会
生活は出来ませんし、その再体験に執着しても生けません。
近代インドの聖人ラーマ・クリシュナは、日常中に頻繁な
至高体験
を繰り返しました。
歩いている時でも忘我状態に成り、立ち尽くしたまま何時間
でも微笑んでいるのです。時には、よだれを流しながら・・・。
幼子が見れば、指を差して笑ったかも知れません。
彼の意識が私に伝えるには、現実界に居た時は意外な事に
「回りの人に迷惑を掛けて申し訳なかった」と言う趣旨の事を
私に感じさせた事がありました。 そして、自分の様に成る事
を人々に推奨したことは無いし、決して勧められるものでは
無いと。  ラマナ・マハリシとは段階が少し違いました・・・。

日常生活の中で、自分自身が「生かされている」事を感じ、
「有難さに涙こぼれる」ような気持ちに、突然成れる事が
到来します。 これは、真の最高の至高体験を既にしている
のです。
人間は既にもともと根源存在と一体不二(1つ)の存在です。
それなのに短時間、改めて上記以外の奇異な至高体験とし
て垣間見る体験とは、逆に根源存在と距離を置いたから感じ
た現象とも言えます。
真に一体(カンナガラ)なら、共に喜怒哀楽を体験して一生懸命
なので、特別な体験としては現れません。
後退した現象を喜んで居ては生けません。

生かして頂いて ありがとう御座位ます

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コメント (115)
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