町田営業所業務日報

地元周辺の鉄道・バス車両について気紛れに綴ります。

雪の日の南武線

2015年01月31日 | JR線

午前中だけとはいえ昨日は関東地方にも降雪が見られ、大変に冷え込みの厳しい一日になりましたが、雪と南武線205系の組み合わせはこの日が最後になりそうなので、通勤途中に軽く撮影を行うべく定番の稲城長沼駅へ行って来ました。ホーム先端は雪が吹き込み、なかなか大変なことになっていましたが駅に着いて見ると私以外にもカメラを持った人の姿があり、考えることはみんな一緒なんだなぁ~・・・と思った次第です(苦笑)

一発目は何が来るかな?と思いカメラを構えていましたが、やって来たのはE233系の各駅停車でした。「なんだ233か」と一瞬思い、練習がてらにシャッターを切りましたが編成番号をよく見るとN1編成でした。特に何がどうって訳でもないですが、何となくトップナンバー編成の登場は嬉しくなります。こんな機会でもないと暫くマトモに撮影することはないと思いますが、降雪の中を走る姿は普段以上に精悍でイケメンですね(笑)

あと気持ち前方に行ってれば完璧だった205系のナハ41編成。正面窓に雪が纏わり付いて枠線のようになっています。雪が舞うだけでこちらもいつもと違って見えて来ますねぇ~。

後続の各駅停車はナハ40編成。時間は12時前でしたが、この頃になると段々と雪の勢いも弱まり次第に雨へと変わって行きました。撮り鉄的には残念ですが、午前中だけで済んだのは幸いでしたね。この後は、大慌てで上りホームへ移動しこれに乗って仕事先へ向かいました。この日は手袋はして来たものの、シャッターを切るまでが辛かった・・・。

先程の快速運用に就くナハ41編成と、稲城長沼始発の各停で待機中のE233系N6編成。過渡期ならではの両形式の並びと、雪の組み合わせもこれが最後ですね。春には沿線の桜と205系のコラボレーションの狙ってみたいです。

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思い出の小田急5000形(その2)

2015年01月30日 | 小田急電鉄

昨日の続きです。唐木田出張所に到着後しばらくはヘッドマークを着けたまま特別列車の装いでしたが、その後間もなくヘッドマークを取り外した上で種別・行先を表示しての撮影に入ります。種別・行先共に20分ごとに変更を行っていました。

快速急行・片瀬江ノ島行きの表示を出した5268F。もともと5000形は急行列車向けに高速性能重視で設計・製造されたグループなので、やっぱり優等列車の表示が好く似合いますね。そしてお次は・・・。

消滅して久しい相模大野で分割を行う急行箱根湯本・片瀬江ノ島行きです。1990年代末期まで見られた列車のひとつで、頻繁に異形式同士が分割・併合を繰り返す光景は小田急の名物でした。5000形といえば、いつも急行運用に就いているイメージが強いので、個人的にこの表示が一番ツボに来ます(笑)もっとも、分割急行が運転されていた時代の行先に英文はありませんでしたが・・・。

6両と4両の連結部分を。この日をもって、長年続いた“小田急顔”同士の連結シーンも見納めになりました。それにしても、1960年代の昭和テイスト溢れる車体に青いブランドマークと都会的なグレーのドアステッカーがミスマッチですね~。欲を言えば、ドアステッカーの復元とブランドマークの撤去も頼みたかった・・・!

イベント開催に伴い、小田急線各駅に掲出されたポスターです。駅置きのパンフレットと全く同じ体裁ですね。尚これは、2012年の部品販売ツアーの時に張り出されていたものを撮影しました。記念品と弁当付きとはいえ参加費用が大人3500円ですから、ロマンスカーで箱根まで行って帰るのともう変わらないですねw

こちらがツアー参加者に配布された記念品です。乗務員用の行程表、記念乗車証に撮影会の入場証、実車のパンフレットの復刻版とヘッドマークを象ったポップと盛りだくさんな中身で、特製の紙袋に入れて配布されました。紙袋のみ2012年のファミリー鉄道展で販売されています。

ツアー参加者には記念掛け紙付き弁当とお茶も一緒に配布されました、ロングシートの通勤電車で堂々と弁当を広げるなんてこんな機会がなければ出来ないことですね。

今回さよなら運行を行った5268Fは、翌日31日に相模大野へ回送され廃車になりました。後ろの4両5065Fもしばらくは残存したものの、ファミリー鉄道展2011で最後を飾り同年10月19日に廃車、いずれも解体されています。このイベント開催から約1年2ヶ月後に最後まで残った4両1編成が引退し、小田急顔の通勤電車の歴史に終止符が打たれました。

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思い出の小田急5000形(その1)

2015年01月29日 | 小田急電鉄

丁度4年前の2011年1月29・30日の両日で小田急5000形の6両編成が引退し、同系のみで組まれた10両編成が見られなくなることから“小田急5000形10両さよなら運行”が新宿→唐木田間で実施され、沿線で大いに話題を呼んでいました。各日共に450名ずつの事前招待制で、合計900名の募集に対して3900通もの応募(!)があったというのですから、それだけ名実共に小田急を代表する車両だったということでしょうか。技術的には革新的な部分が無いにも関わらず、4両編成車の登場間もない1970年にはローレル賞の候補で次点に入っていることからも、人気の程を窺わせるエピソードですね。

私は運よく当選し30日の方に参加することが出来たのですが、デジカメの画像を漁っていたら、唐木田出張所での撮影会の時のデータが出て来たのでお目にかけたいと思います。ただ、いかんせん安物のコンデジで適当に撮ってしまったので余りいい画像でないのが難点ですが(汗)今更ですが、カメラ新調してちゃんと撮っておけば良かったなぁ~・・・としみじみ後悔しています。

唐木田駅到着後に、案内に従って出張所に通されると先ほどの編成が待機していました。私も他の参加者に混じりカメラを向けてヘッドマークを着けた10両編成を正面から狙いました。わずかに後部がカーブしている為、全編成は収まっていません。光線の関係で、正面はいい感じに日が当たっていますが側面が・・・。

反対側から。この日、5268Fのパートナーに抜擢され新宿側に連結されていたのは5065Fでした。こちらにもヘッドマークが取り付けられています。この編成はさよなら運行後にも廃車直前に開催された小田急ファミリー鉄道展2011で展示されました。

ヘッドマークを着けたクハ5560を横から撮ってみました。この角度から見ると、設計のベースになった2600形・4000形に比べ車体とほぼ同一面になった正面窓の様子や、シールドビーム化された前照灯の様子が分かると思います。登場時に装備していた電連は、営業運転で小田原方先頭車に他編成を連結することは無くなったため後年撤去されました。

 

次回へつづく。

 

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生田緑地のスハ42とD51を見る

2015年01月26日 | 保存車両・廃車体・特殊車両

生田緑地で保存されているスハ42 2047とD51 408を観察に行って来ました。生田緑地自体は何度も足を運んでいますが、枡形地区の川崎市青少年科学館がリニューアルされてからは初の訪問です。2012年4月にプラネタリウムと科学館の展示物を刷新したことは知っていたのですが、周辺にも大幅に手を入れていたことにビックリしました。。。

今日は登戸駅からのシャトルバスに乗って行こうと思っていたのですが、藤子・F・不二雄ミュージアムの展示物入れ替えに伴う休館によりバスも29日まで運休とのことだったので向ヶ丘遊園駅から徒歩で向かいました。正門を抜けて真っ直ぐ進むと、進行方向に見えて来ます。

以前は売店を併設した喫茶店の前にあり、どう見ても店の休憩スペースのような感じのあったスハ43ですが、科学館の改築とカフェの新設と共に綺麗に移設されていました。移転と共に整備を行ったようで青い車体が艶々と輝いています。貫通路が閉鎖され、ちょっと面妖な雰囲気の妻面ですが所属や自重、定員などの各種表記はキッチリ国鉄書体で美しく書き直されています。

車内に入ると、旧型客車独特の高い天井に板張りの床、質素な造りのボックスシートがずらりと並び往時を偲ばせてくれます。屋外の保存で自由に車内に見学出来るにも関わらず、注意書きの札が無ければ動態保存車と見紛うばかりの良好な状態を保っていますね。モケットの傷みもない他、トイレや洗面所も使用禁止(当然ですが)ながら透明の仕切りを設置して内部を見れるようにしている所にも驚かされます。市で管理しているとはいえ、整備が行き届かず劣化して処分されてしまったり、部品などを盗まれて無残な状態になる車両もある中、これ程手入れの行き届いた旧客の保存車はなかなか無いんじゃないでしょうかね。

窓を開けてみました。全ての客窓は開閉可能になっておりこちらにも補修が行われたのか、軽く力を入れただけで簡単に開けられるようになっています。

天井には古風な扇風機が取り付けられていますが、カバーをよく見ると「JNR」のロゴが入っています。これはアルファベット表記ですが、現在でもよく知られているマークより更に古いタイプなんでしょうか? ちなみに、車内の開放時間が午前9時30分から午後4時30分までの為か蛍光灯などの灯火類は取り外されていました。

解説によれば1948年に日本車輛で落成し水戸客貨車区に配置され1985年に廃車となり当地で保存されることになったそうです。後年改造で電気暖房装置を設置したことにより元々の番号である47に2000をプラスして2047号車となりました。原番号は「スハ42 47」で47番目に製造された車両ですね。(当時国鉄の規定では、電気暖房装置を備えた客車は車番+2000で区別していました)製造から67年、廃車後30年も過ぎているのにこの姿を保っているのは関係者の方々の相当な努力を窺わせます。

このスハ42形はオハ35形のグループの一員です。よく混同されるスハ43形客車は、従来車の実績を踏まえて居住性や乗り心地を大幅に改善し、1951年から製造されたグループでオハ35(スハ42)はこの一世代前の車両ということですね。戦前に登場したグループはオハ35以前に製造されていたスハ32系の設計を基本とし、TR23形台車形ペンシルバニア形軸ばね台車を装着していました。戦後の増備車より、軸受の構造を変更したTR34形台車へまず移行します。これらの台車は軌道に掛かる負荷が軽減できる特徴がありましたが乗り心地に難があった為、改善を図るべく新規設計されたウイングばね式鋳鋼台車TR40形台車に改められました。このTR40形台車では従来のものと比較すると約6トンも重量が増加したため、「スハ42」という形式に区分されることになったのです。ちなみに形式記号の片仮名は車両の重量を表し、オは大型のオが由来で32.5t以上37.5t未満の車両を示します。ス=37.5t以上42.5t未満の車両で、鋼製車体=スチールカーから、だそうな。(←自宅に戻ってから図鑑をひっくり返しネットで調べまくりました)

科学館の入り口付近にはD51 408号機が保存されています。こちらは特に場所は変更されませんでした。一応階段がありますが、運転室への立ち入りは出来ません。車体の各部が磨き上げられたようにピカピカでした。

408号機は最終配置が川崎市内の新鶴見機関区だったことが縁で保存に選ばれたようです。解説曰く生きた教材とのことですが、両者の状態の良さを見ると“今ひとたび”も可能なんじゃ・・・、と思ってしまいますね(笑)

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世田谷線の車内放送更新開始

2015年01月21日 | 東京急行電鉄

朝から雲が広がり冷たい雨が降る憂鬱な空模様ですが急用が出来てしまい、急遽三軒茶屋へ行くことになってしまいました。今回は世田谷線を何度も乗り降りするため、自宅から喜多見駅まで徒歩で向かい“小田急・世田谷線散策きっぷ”を初めて購入し、山下駅から玉電カラーの300系301Fに乗車したのですが車内放送の音声が更新されていました。

1999年の登場以来、世田谷線の自動放送は池上・多摩川線の7700・7600系のワンマン放送と同様に関東バスなどで御馴染みの岡本洋子さんが担当して来ましたが、遂に新放送に更新されることになるようです。尚、今度の放送は他線との区別の為か鉄道線全線を担当している西村文江さんではなく、別の方を起用していました。聞きなれない声だったのでかなりの違和感がありましたが、今度の放送は誰が担当されているんでしょうか・・・。

帰りに乗った309Fは岡本さんの放送のままでした。今日稼動していた編成は今の所旧放送で存置されているようですが、今年中には他編成にも直ぐに波及することと思います。このブログでも記事にしましたが神奈川中央交通の森田夕里さんの降板や、JR東日本のATOS放送より津田英治さんがまさかの引退など、耳に馴染みのある方の声が次々聞かれなくなり残念に思っていたところだったので私としては「あぁ世田谷線よお前もか・・・」といった心境です(涙)更新完了までに走行音と共に録音してみたいですね。

世田谷線といえば、必ず沿線のガイドマップなどでも取り上げられる宮の坂駅前の元・東急デハ80形改め江ノ電600形の保存車両ですが、久々に降りて観察して来ました。いつも通り過ぎるばかりで、こうしてじっくり見るのは数年ぶり。車体がステップレス化され乗務員室も拡大されるなど、東急の保存車といっていいのか甚だ疑問ですが、本家デハ80形が全車両廃車解体処分された今玉電の貴重な生き残りなんですよね。80形も引退時には世田谷区内での保存が計画されたようですが、用地や資金の問題から結局流れてしまい実現出来ず終わってしまいました。もしここにいるのが本当のデハ80だったら・・・。

車内は座席のへたりも無く、相変わらず良好な状態を保っていましたが残念なことに吊革の盗難が発生したとのことでその旨張り紙が掲出されていました。保存車両からの部品持ち去りは歴とした窃盗であることを自覚してもらいたいものです。

本家の江ノ電からは消えて久しい円形ドアステッカーも入り口のドアに健在です。現在より二世代程前のデザインで1990年代前半くらいまで見られたものです。指を戸袋方向でなく上向きにして左右どちらにも使用できるようになっているのが特徴でした。このステッカーの時代は、下半分の広告が全て藤沢市民会館になっていました。

本日使用した小田急・世田谷線散策きっぷです。世田谷線だけではなく、有名撮影地を含む小田急線の世田谷区内の区間(喜多見~東北沢間)も一日乗り降り自由なので撮り鉄活動にも重宝しそうですね。

コメント (2)
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