まこねこまどかブログ

マンガ家まこねこの気ままな日記

主われを愛す

2013年08月31日 | 明治人物伝

「八重の桜」で、新島襄が女学校で教える歌「主われを愛す」を、クララが歌った時、清国で聴いたので、清国の歌だと思っていた人がいました。
この賛美歌は、アナ・P・ウォーナーという女性が詩を書きました。
アナは、姉のスーザンとともに島に住んで、アメリカ士官学校の生徒のために聖書教育を60年間も行っていました。
そして、1859年に、アナが書いた小説「Say and seal」に入れられたのです。
それを、1862年に、ウィリアム・ブラッドベリーが、曲をつけて子供の愛唱歌として普及したのです。
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八重の桜と石井筆

2013年08月31日 | 明治人物伝

「八重の桜」で、新島襄が大阪で学校を作ろうとして大阪府知事に断られてしまいます。
この渡辺登は、大村藩にいた時、浦上のキリシタンを捕まえて各地に流した時のリーダーをしていた方です。
兄の清の娘・渡辺筆は、後に知的障害者の学校を作った石井亮一と再婚します。
彼女の方が年上だったことと、石井がクリスチャンだったことで、周りの反対がありましたが、伯父の渡辺昇が助けてくれて結婚したのです。
この石井筆の使っていたピアノが見つかり「天使のピアノ」という映画になりました。
筆は、若い頃、クララから英語を習っていた時期もあるのです。
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みんな知り合い

2013年08月25日 | 明治人物伝

クララたちが日本に来る切っ掛けになった富田鐡之助と新島襄は、アメリカで知り合いになりました。
岩倉具視の遣米欧使節団が、アメリカに行った時、富田は抜擢されてニューヨーク領事心得になりました。
この少し前に、アメリカの弁務行使だった森有礼は、密航していた新島襄と知り合いになり、新島を公に明治政府に認めさせていました。
だから、新島は岩倉使節団の通訳に抜擢されたのです。
この時、二人は出会っています。
後に、富田は、日銀総裁になりますが、彼が支援して故郷の仙台に東華学校を作ります。
そして、新島が校長をしていました。
この二人は、クララの家によくやってきました。
新島は同志社を大学にするとき、勝海舟からお金を借りているので、みんな顔見知りなのです。
偉大な人物が、同じところで、関わりを持っていたというのは、興味深いですね。
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雨ニモマケズのモデル

2013年08月23日 | 明治人物伝


宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のモデルは、宮沢の友人でクリスチャンの斎藤宗次郎だと言われています。
彼は、お寺の息子でしたが、小学校の教師になりました。
入院していた時、聖書と出会い、1900年(明治33)に洗礼を受けました。
岩手県花巻市で、初めてのクリスチャンでしたが、親から勘当され、町の人たちからは迫害されました。
無教会派の内村鑑三の影響で、非戦論を唱えたため、学校を辞めさせられ、新聞配達をしたのです。
9才の娘は、子供たちから「キリスト教徒の娘」だといじめられ、腹を蹴られたのが原因で腹膜炎を起こして亡くなりました。
それでも、人々を恨むこともなく、新聞配達の帰りには、病人を見舞い励ましたのです。
そして、第一にキリストに仕え、第二に人々に仕える生活を20年もしました。
彼が、東京に行くことになった時、町中の人々が、感謝して見送ったのです。
斎藤は、内村鑑三の弟子になり、内村が亡くなる時は泊まり込んで看病をしました。
宮沢賢治の「冬のスケッチ」という作品の中に、斎藤をもじったと言われる加藤宗二郎という人物が出てくるそうです。
1927年(昭和2)に、90才で、亡くなりました。

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影の働き人

2013年07月08日 | 明治人物伝


クララのお兄さんのウイルスは、通称ウィリイと呼ばれていますが、医師でアメリカ公使館の通訳もしていました。
その時、日本に来た宣教師たちみんなに便宜をはかりました。
そのおかげで、外国人はみんな日本を自由に旅行できる許可が降りたのです。
影で、宣教の働きを大きく助けたのです。

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