まこねこまどかブログ

マンガ家まこねこの気ままな日記

殉教記念日

2024年02月05日 | 歴史
2月5日は、公に秀吉の命令で、26人のキリシタンたちが長崎の西坂ではりつけになり、殉教した記念日です。
1597年のことです。
この中には、幼い子供が3人いました。
また、日本と中国のハーフとインドとポルトガルのハーフもいました。
メキシコ人が1人とスペイン人が4人もいたのです。
そして、最年少のルドビコやその親族たちの5人が愛知県出身です。
幕末・明治時代に宣教師たちが日本に来るときに読んでいたギュツラフ聖書の翻訳を手伝ったのも愛知県出身の漁師たちです。
船が難破して、アメリカの船に助けられて、聖書の翻訳の手助けをしたわけです。
愛知県は、藤飯聡太さんや信長、秀吉、家康ともゆかりのある地です。
そんな愛知県出身である私は、歴史好きとしては嬉しいです。

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坂本龍馬とキリスト教

2021年02月20日 | 歴史
この間、インターネットラジオ風のひびき「まどかとまさこのホットなひととき⭐︎」で、坂本龍馬とキリスト教について語りました。
NHKのドラマの中で、龍馬がキリシタンを助けるところが出てきます。
その龍馬の甥にあたる坂本直寛さんは、自由民権運動家で牧師でした。
ラジオでは叔父と言ってしまいましたが、龍馬が叔父でした。
ここで、訂正いたします。
高知教会で、洗礼を受けています。
北海道の開拓もした方です。
龍馬の従兄弟の沢辺琢磨は、函館で宮司となっていましたが、ロシア聖教のニコライを殺そうとして説得されたのです。
ここが、龍馬と似ていますね。
勝海舟を殺そうとした龍馬は、説得されて勝の弟子になりました。
その勝海舟は、幕末時代にキリシタンを助け、咸臨丸でアメリカに行った時は、毎週礼拝に出ていたのです。
勝の援助で、留学した者が牧師となり、子供達も信仰を持ちました。
そして、勝は死ぬ数日前に、信仰告白しています
ところで、沢辺琢磨は新島襄が日本を脱出してアメリカに行くとき、助けた人であり、日本人初めての正教会の司祭となった人です。

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勝海舟と赤坂教会

2020年07月16日 | 歴史
今連載している「海を越えて」は、勝海舟の息子の嫁であるクララと、赤坂教会の歴史です。
クララのお母さんが、亡くなった時、多額のお花料が与えられました。
それで、兄のウィリイが、勝海舟の屋敷の前の土地を勝から買って病院を建てたのです。
そこで、礼拝がもたれていました。
ウィリイは、数十年後、日本人のため医学を学びに行った先のイギリスで死にました。
病院は、記念館になり、それが赤坂教会になりました。
昭和20年日本は、戦争に負けました。
医師であり牧師であった井上哲雄先生は、満州で終戦を迎え、ロシアの捕虜になりました。
捕虜収容所には、私の父も含め5万人の日本兵がいました。
その中で、日本人の婦女子13万人を守るために10人が選ばれました。
そして、井上先生も選ばれましたが、父たちは、シベリヤに送られました。
井上先生は、ハルビンで働いていました。
同じ時、勝の孫で、後に女医として大きく用いられる方もそこにいたのです。
当時、道端で凍死している子供たちがたくさんいたので、ロシア兵は、井上先生に孤児院をやるように言いました。
井上先生は、子供が苦手なので、断食して神様に祈ると「私に従いなさい。」と言われたのです。
孤児院には、350人の子供たちが集まってきました。
やがて、静岡に帰り孤児院をされていましたが、後に東京の赤坂の牧師として活躍されました。
不思議な、神様のお導きですね。


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和宮の替え玉説

2018年06月29日 | 歴史
今日は、ものすごく暑いし、風も強いです。
日傘をさして、キャリーの荷物を引きずりながら、駅まで歩くだけだけで、疲れてしまいました。
自販機の炭酸が頼りです。
ところで、漫画の「海を越えて」で和宮(静寛院宮)と篤姫(天璋院)が、赤坂の勝の屋敷に遊びに来たときのお話を描いています。
たまたまネットで、和宮は、明治2年に京都に帰る途中に、賊に襲われて自害しているという話がありました。
そのときのお付きの女性が、親族に語ったというのです。
それを、調べた方が、一般的に和宮と言われている写真は、よく似た別人だというのです。
天皇が東京に移動されたので、和宮は明治6年に、東京に移り住んでいます。
勝が、赤坂の柴田の屋敷を買って、静岡から移動したのが明治5年です。
その後に、和宮と篤姫は、勝の家に遊びに行っています。
また、和宮は、度々篤姫の屋敷に遊びに行っています。
いくら似ていても、替え玉だったら、分かると思います。
また、替え玉だったら、わざわざ、何度も遊びにいかないと思うのですが…。
明治10年に脚気で亡くなった和宮の棺を開けたとき、片手首がなかったため、別の替え玉説が小説になっています。
真実を知りたいものです。
歴史は、ロマンがありますね。
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炎のランナーのその後

2018年02月26日 | 歴史

炎のランナーのモデルとなったエリック・リデルさんは、スコットランド人でしたが、中国で宣教師の子供として生まれました。
子供たちは、スコットランドに帰って学校に通いました。
1924年、パリオリンピックに100メートルで出場が決まりましたが、競技が日曜日に行われるので、クリスチャンとして日曜日に走るのを拒否しました。
しかし、友人が自分の出る400メートル競技を彼に譲ったために、リデルは誰も期待していなかった400メートルで金メダルを取ったのです。
このお話は、有名な「炎のランナー」という映画になりました。
その後、彼は、プロテスタントの宣教師となり中国に渡りました。
しかし、1931年、満州事変が起き、奥さんと子供は奥さんの国であるカナダに帰りました。
リデルは、中国に残りましたが、日本軍によって収容所に入れられ、そこで亡くなりました。
その収容所に若いクリスチャンがいました。
彼は、リデルから「汝の敵を愛せ」と言って、日本人を愛し赦すことを教わりました。
リデルは、日本はまもなく戦争に負ける、だから日本人の救いのために祈るようにと言ったのです。
リデルが、収容所で亡くなった後、日本は戦争に負けました。
その若いクリスチャンの青年は、リデルの意志を継いで、宣教師として焼け野原になった日本にやってきたのです。
本当に、多くの方々の祈りが、リバイバルの後ろにはあるのです。



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