のびたとブレイク

生き生きと第三の人生を歩んでいます
うたごえ ウォーキング ボランティア 時々花と金魚

花魁も今はイベント花散歩

2017年04月10日 08時48分16秒 | うたごえ

ランチコンサートの日 浅草では 花魁(おいらん)道中が行われていた

実際には行っていないので 実施されたか雨模様も加えて 結果は報道も含めて見ていない

浅草の観光連盟が主催する行事で 芝居を観るように 明るい催しである

 

 

花魁道中とは 客の指名を受けて 花魁が自分の部屋から店へ行く この間を指す

格式高い花魁 禿(かむろ) 新造 鼓太夫 遣り手などを従え 独特の八文字を描きながら歩く

ただの娼婦では無い 容姿 気立て 詩や音楽 文学 なども教育され格式も高い

 

遊びに行ってもすぐ会えない 一度目は誰か指名=初会 二度目=裏を返す 三度目=馴染みとなる 

裏をかえすとは さいころの1の目の裏は6 いろはのいの次はろ=6 一の次でようやく心通じるのだ

三度目でようやくお馴染み この馴染みが おさななじみ や 店のお馴染みさんとか 現代にも生きている

 

遊郭には安く遊べる女もいる 但し花魁と遊ぶには 客もそれなりの教養と財産が無ければ行けない

江戸時代の初期には遊女が多く居た 幕府が出来て関西からも多くの商人たちと遊女も集まる

やがて幕府公認の傾城地(けいせいち)が 現在の人形町付近に出来た 1617年のことである

 

更に幕府は1656年移設を命じ 浅草の日本堤か本所と指名したが 明暦の大火があって現在地へ移った

明治5年解散令が公布されて 5000人の遊女が解放されたが 行くところも無く騒ぎ出す

これを受けて明治8年 料亭形式の貸座敷形態で開業を許可した

 

吉原は数度の火災を受けた 明治44年 大正12年の関東大震災 この時は多くの遊女が焼死した

この慰霊堂を建立したが これは 現在でも 吉原観音として地元の方が護っている

東京大空襲で全焼 昭和21年はGHQの命で公娼は廃止したが 赤線 と言う名称で1958年まで続いた

 

関東大地震で犠牲になった遊女の慰霊 吉原観音 大正時代に建立された

 

バブルの頃は ソープランド街と化し 250店もあったと言うが 現在でも風俗営業店が幾つか並ぶ

4月5日に私は隅田川の桜を愛でた後 同じく桜並木が続く 山谷掘りあとを歩いたが 延々と桜は続く

そして 辿り着いたのが この吉原一帯であった 名前は聞いていたけれど 初めて訪ねる地名だった

 

山谷掘りを埋め立てた桜並木 1キロ以上続く

吉原の外郭にある

 

この一帯が 江戸時代から 華やかでもあり 庶民の賑わいもあったり 遊女の哀しみもあったと肌で感じた

吉原神社も 吉原観音も そんな哀しみや 現在の女性たちを 祈りの場であったり 見守ってきただろうか

周りが風俗営業の店で昼間から明かりが点り 遊びに来た高齢者かと間違われそうで 急いで抜け出てきた

 

  

         最後までお読みくだ-さいまして有難うございました m(_ _)m

 

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コメント (12)
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