のびたとブレイク

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築地から 豊洲へ移転 栄えあれ   6日閉鎖 11日豊洲市場となる

2018年10月08日 07時00分00秒 | うたごえ

あの築地市場 場内市場だけだが 6日に83年の歴史に幕引き 11日から豊洲で開業する

場外市場は そのまま残るが 土壌汚染問題で知事がストップさせて 2年の時が過ぎた

問題点は解消したようだが 業者を2分したり 翻弄させた 新しい旅立ちがやがて繁栄されることを祈る

 

 

場内市場も 場外市場の賑わいも 私たちには多くの想い出を残してきた

ツアーの添乗員では 市場の三代目が案内して廻ったり 寿司を食べたこともある

主に場外は 特に暮れの買い物 正月には 会社などで鮭や刺身を求めて誰かが買い出しに行った

 

 

ところで 私たちには 魚市場だけでなく 秋葉原の駅前にあった青果市場なども想い出にある(写真下)

閉鎖されて 太田市場になった時 ここは空き地で駐車場化されていた

ツアーバスは ここから出発して新宿は都庁の駐車場へ向かい 添乗員は電車で移動 バスに合流する忙しいものだ

 

 

信州から東京へ出てきたときは 千住に住んだ 千住大橋の近くには やっちゃば と呼ばれる青果市場があった

現在でもこの市場は営業しており 私もウォーキングで訪ね 食堂で食べた

戦後の混乱期の終わりごろ やっちゃ場には青物の葉が落ちており これを拾いに行って食べたのである

 

 

さて 魚市場に戻ると 江戸時代に話しは遡る 私の手元に 平成2年の古本があり 江戸時代の全てが載っている

徳川家康が江戸に居を構えると 多くの武士や商人も江戸へ押し寄せ その相手をする女性も集まる

元禄のころには 100万人を超える世界に名だたる都市となって行った

 

家康は東海道など五街道の整備 小名木川などの舟運の為の開削 玉川上水などの水の確保など大事業を行った

その生活をするための食料の調達も必須になる 先ず魚は江戸湾と小田原辺りから運ばせる

昔からあった漁業は細々としており 関西方面から大がかりな漁業者も来て 急速に技術も進歩して行った

 

 

今の日本橋に魚市場の前身の魚河岸が出来た 魚市場発祥の碑が ここに立つ(写真上)

現在の佃島は 摂津の佃村の漁師が開いた村である所から名前になった

同じく 摂津の深川八郎衛門が深川漁師町を作った これも名前の由来になっている

 

この日本橋魚市場は関東大震災で罹災 現在地に移ったから そこから数えて83年の歴史である

更に農作物などの青果市場は 千住 駒込 神田の三大市場である

秋葉原の青果市場(元は神田)は江戸時代は千住から仕入れをして ここから江戸市民に入って行く

 

その他 品川には青物横丁がある 京橋 本所 深川に市場があった

本所は現在の江戸博物館の辺りだったろうか 面白い話がある

現在の葛西は 小松菜 葛西菜の産地であり 小名木川などを利用して江戸に舟で運んで来た

 

帰りには 市民の糞尿を運び これが貴重な肥料となっていた 有料で引き取ったそうだ

せご(西郷)どん で 徳川の終焉を見るが 家康 家光の頃の 都市計画は壮大なものであったと思う

現在にも その基盤も生きているものもあり 吉宗の頃の飛鳥山 向島の桜移植と共に その姿がある

 

小名木川

 

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