らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

さくら貝のうた

2015-11-30 | ナツメロ

先日、実家で法事を済ませた後、兄弟夫婦が全員揃ったことから、岡山県笠岡市の島に渡り、宿泊を兼ねた懇親会をペンションで開きました。
開会までの間、浜辺に出て過ごしましたが、日頃、浜辺を歩くことがないので、柔らかい砂の感触を楽しみながら時間を費やしました。

その内、誰それとなく綺麗な貝殻を探し始めると、殆どの人がそれに加わり、色鮮やかな貝殻を採取していました。
大姪(姪の子供)が「さくら貝を見つけた」と言ったので、写真を撮らせてもらいました。
桜貝は幅1-2cmのピンク色の二枚貝の総称で、貝殻拾い遊びの対象とされることが多く、「お守り」とされることもあるそうです。

・これが大姪(姪の子供)が見つけたさくら貝です。


「さくら貝」と言えば昭和46年(1971年)6月1日に発売された倍賞千恵子の「さくら貝の歌」があります。
彼女の清らかな声で歌いあげるこの曲は、聴く人の心に心地よく沁み込んでくるのではないでしょうか。
今日は倍賞千恵子が歌う「さくら貝のうた」をお聴きいただきたいと思います。

「さくら貝のうた」  倍賞千恵子



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇帝ダリア

2015-11-29 | 

先日、所用で家内の実家に帰った時、家の前の休耕田にダリア界の王様といわれる「皇帝ダリア」の花が咲いていました。
きょうはこの花をご紹介します。

「皇帝ダリア」はキク科の多年草で、別名を「木立ダリア」「帝王ダリア」と言います。
原産地はメキシコで、日本には江戸時代末期の1842年(天保13年)にオランダ人によってもたらされたといわれています。

・「皇帝ダリア」は花径20cm超の大きな花を咲かせます。


皇帝ダリアの花名は学名の「Dahlia imperialis(皇帝のダリア)」からで、学名の「Dahlia(ダリア)は、スウェーデンの植物学者アンデシュ・ダール(1751年~1789年)の名前に由来します。
和名は「天竺牡丹(テンジクボタン)」と言い、花の形が牡丹に似ていることからつけられたようです。

皇帝ダリアは短日植物なので、花芽ができるのは日が短くなる9月以降です。
しかし、近くに街灯や電灯があると日が長いと勘違いして花芽をつけない事もあるので注意が必要とのことです。
花は11月下旬から霜が降りる頃まで咲きますが、寒さに弱く、霜に当たると、即、枯れるようです。

・草丈は高く、大きいものでは4~5mになり1株で100個以上の花をつけることもあるようです。


コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本初のタクシー料金

2015-11-28 | 雑学

リタイヤしてからはタクシーに乗ることがなくなりましたが、タクシー料金が高くなっているようですね。
現在、大阪での中型車の初乗り料金は、2㎞までが680円、以後266mごとに80円が加算されます。
しかし、タクシーが初めて登場した時はもっと高かったようです。

調べてみると、タクシーが初めて登場したのは大正元年(1912年)8月15日です。
場所は東京で、数寄屋橋の傍に「タクシー自動車」と言う会社が開業したそうですが、この会社が自動車を使用したタクシーの最初の事業所、即ち、タクシー会社の第1号だということです。
使用車両はT型フォードで、6台での営業開始でした。

・これがフォード・モデルT型車です。(ネットより)


当時の運賃は、最初の1マイル(約1.6キロ)が60銭(現在の貨幣価値でおよそ3000円)で、その後、800メートルごとに10銭(同500円)が割り増しされ、更に、深夜、雨天、道が汚れている時には400メートルごとに10銭の割増料金が取られたそうです。
当時は盛りソバが3銭、電車賃の最低運賃が5銭だったので、かなり高価でしたが、それでもタクシーの需要は多く、大正時代中頃にはタクシーの台数が2000台にも増加していたのだそうです。

タクシーの開業とともにレンタカーも登場しました。
日本にレンタカーが初めて登場したのはタクシーと同じ大正元年だそうです。
当時、貸し出された車は40馬力エンジンの5人乗り乗用車で、レンタル料は1日30円(現在の価値で15万円)でしたが、これでも大人気で注文が殺到したため、後に1時間5円(25000円)に値上げしたそうです。
当時のレンタカーは車を貸すのではなく、運転手つきの現在のハイヤーに近いものだったそうです。

因みに、当時の乗用車の値段は4000円前後で、これは現在の貨幣価値にしておよそ2000万円と言われ、ロールスロイス並みの値段でだったようです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉大仏

2015-11-27 | 雑学

所用のため数日間ブログの書き込みをを休ませていただきました。
今日から再開しましたのでよろしくお願いします。

再開初日は大仏さまについて調べました。
大仏とは、大きな仏像の事で、仏像は、もともとは仏教を始めた釈迦の姿のことです。

今から約2500百年前、釈迦はさまざまな修行の後、悟りを開いてブッダ(Buddha)になりました。ブッダとは「悟りを開いた人」という意味です。
このブッダを当時の中国で「仏陀」という漢字に写し、この「仏陀」が省略されて「仏(ぶつ、ほとけ)」と言う言葉になったのだそうです。
従って「仏像」とは、「ほとけの像」のことで、狭い意味では悟りを開いた釈迦のことを指します。
そして、仏像が出現したのは釈迦入滅後500年以上経ってからで、概ね紀元後1世紀頃のこととされています。

さて、本題の大仏さまについてですが、大仏の定義は特にないそうです。
しかし、一応の定義としては、「起立した状態で丈六(約4.85m)以上の仏像」、座った状態なら約2.4m以上のようです。

「丈六仏(じょうろくぶつ)」とは、一丈六尺の大きさで作られた仏像をいいます。
これは仏教の開祖であるお釈迦様の身長が一丈六尺であったという伝説に基づくもので、それ以上の大きさの仏像を「大仏」としているようです。

大仏様と言えば、奈良の大仏さまがすぐに思い浮かぶと思いますが、他にも鎌倉の大仏さまや茨城県牛久市にある牛久大仏など、全国にはたくさんの大仏様が鎮座しています。
ところで、奈良の大仏様は立派な大仏殿に鎮座していますが、何故か鎌倉の大仏さまは大仏殿がなく、雨ざらしになっています。
なぜ、鎌倉の大仏様には大仏殿がないのでしょうか?

・鎌倉の大仏さまです(ネットより)


初代鎌倉大仏が開眼したのは鎌倉時代の寛元元年(1243年)6月ですが、この時に建立された大仏さまは木造で、それからわずか4年後の宝治元年「1247年)に暴風雨によって倒壊してしたのだそうです。
そのため建長4年(1252年)に、現在鎮座している金属製の大仏様と大仏殿が造営されました。
ところが大仏殿は二度の大きな台風で破損し、そのたびに修復されたそうですが、戦国時代の明応4年(1495年)8月15日に発生した「明応の大地震」によって大仏殿が崩壊し、大仏様は露坐となったと伝えられています。

因みに崩壊した大仏殿は、東西25間(約45メートル)、南北21間(約38メートル)という大規模なもので、現在では大仏様の周囲に礎石だけが残っているようです。
創建当初大仏像を収めていた堂宇(大仏殿)は60基の礎石に支えられていたようですが、現在、境内に遺る同礎石は56基ということです。

鎌倉の大仏を訪ねた時には確かめてみてはいかかでしょうか。

・これが現在残っている鎌倉大仏の礎石です。(ネットより)


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つくね芋収獲

2015-11-19 | 家庭菜園

先日、つくね芋の収獲をしました。
皆さまはつくね芋をご存知でしょうか?

つくね芋(捏芋)はヤマノイモ科ヤマノイモ属に属する中国原産のツル性多年草で、ヤマイモの一変種です。
塊茎は不規則な塊状をなし、別名は「ツクイモ」とか「コブシイモ」「イチョウイモ」などと言われています。

当地では、今年も台風並みの暴風雨が数回吹き荒れましたが、支柱の倒壊などの被害を受けることなく収穫期を迎えました。
今年春先に作付した作物は、このつくね芋で全て収穫したことになり、現在は大根、白菜などの秋野菜が畑で元気に育っています。

・これが無事収穫期を迎えたつくね芋の支柱です。


今年は1畝に8株植え付けました。
支柱に巻きついた、まだ勢いのよい蔓を切って収穫の準備をします。

・蔓を切り取った株です。この後スコップで深く掘って収穫します。


掘り起こして見ると、よくできた株では1株に6~7個の芋が生っていました。
芋の形状は主に塊形・丸形で、長芋と比べると芋の水分は少なく粘りは強いようです。

・これがよくできた1株のつくね芋です。 


「栄養素と健康効果」
つくね芋の栄養素の主成分は糖質ですが、ビタミンB群、ビタミンC、各種ミネラル、食物繊維を含み、消化酵素のアミラーゼやジアスターゼ、活性酸素を除去するカタラーゼを多く含んでいるそうです。

山芋をすりおろした時のネバネバは糖たんぱく質のムチンによるもので、胃の粘膜を保護して胃炎や胃潰瘍を予防する作用、タンパク質の消化を助ける作用があるということです。

更に、ミネラル類ではカリウムの含有量が多く、体内の余分なナトリウム(塩分)を尿とともに排泄してくれるので、高血圧の予防にも役立つそうです。
これらの健康効果を期待して、我が家では早速とろろ汁で食べました。

・これが収獲したつくね芋です。この中の小さいイモは来年の種イモにします。



「お詫び」
  いつも当ブログにアクセスいただきありがとうございます。
  所用のため、明日から数日間(少し長引くかも知れません)、ブログの書き込みを休ませていただきます。
  

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪弁「なおす」

2015-11-18 | 地元紹介

大阪弁に「なおす」と言う言葉があります。
標準語の、壊れたものや間違い等を本来の正常な状態に戻す時に使用する「なおす」ではありません。
多分、大阪以外の方には通じない言葉だと思います。

私はこの「なおす」という言葉について、若い頃の失敗談があります。
東京から大阪へ転勤になった初日、上司から「机の上のその書類なおしてくれるか!」と言われ、私は書類が乱雑に積み上げられていたので、綺麗に積み上げる事と思い、「はい、なおしました」と報告しました。
上司はそれを見て、「なおしてないやないか、早よなおしといて!」と、また言われました。
私は整理整頓の意味と思っていたので、今度は机の上を整理し、右側に積み上げられていた書類を左側に置き換えて、「なおしました」と、また報告したのです。
すると上司の方が、東京からの転勤者なので知らないのだと思ったのでしょう、説明してくれました。
「なおすというのは片づけることなのだ」と。
私は素直に謝まり、この言葉を覚えたのでした。
今では笑い話になる、若い頃の失敗談です。

そこで、「なおす」を広辞苑で調べました。
辞書には
①曲がったこと・乱れ・間違い等を本来の正常な状態に戻す。②地位・身分などを元に戻す。復帰させる。
の他、16項目に渡って説明していますが、その16番目に(近畿・中国・九州などで)しまう。収める。片づける。と説明しています。
大阪で使われている「なおす」は、この16番目の意味の言葉だったのです。

「なおす」の用法としては、例えば、何か道具を使っていて用が済んだとき、そばにいる人に向かって、「これ、なおしとって」といった具合に使うのが最もポピュラーな例です。
これを標準語で言うと、「この道具を、もとあったところに片づけてください」といった意味となります。
この言葉、大阪以外の人には理解できないですよね。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サウンド・オブ・ミュージック

2015-11-17 | ナツメロ

ミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」をご存知ですよね。
この映画が公開されてから今年が50年です。
日本では昭和40年(1965年)6月19日に公開されるや否や、たちまち大人気となり、私も銀座の映画館(名前は忘れました)に観に行ったことを記憶しています。

・映画の一場面です。中央は主演のジュリー・アンドリュースです。(ネットより)


「サウンドオブミュージック」は、第2次世界大戦の苦難の時代を家族のきずなと歌の力で乗り越えた一家を描いた映画です。
映画の舞台となったオーストリア、ザルツブルクでは、撮影に使われた公園や教会が今も人気スポットとして観光客を呼び込んでいるそうです。

10月17日には、主人公一家の子孫などゆかりの人が参加して、公開50年を記念するイベントがザルツブルクで開かれ、映画のメッセージである「平和」「家族の愛」を再確認する場になったという報道がされていました。

この映画では「ドレミの歌」や「エ―デルワイズ」「サウンド・オブ・ミュージック」「もうすぐ17歳」等、皆さんよくご存知の歌がたくさん歌われています。
今日はその中から代表的な歌である「ドレミの歌」をお聴き頂きたいと思います。

「ドレミの歌」


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

110番の誕生

2015-11-16 | 雑学

フランスでは13日夜、ISによる無差別の銃撃や自爆テロがわずか30分ほどの間に6カ所で発生しました。
このテロ事件による死者は129人、負傷者は352人で、うち99人が重傷だそうです。
この事件で犠牲になられた方やフランス国民に対し、全世界から哀悼の意が表されています。
小生も謹んで哀悼の意を表したいと思います。

それにしてもテロ集団はフランスをよく標的にするものです。今年に入ってからでも既に6件発生しているようです。
色々と国内事情があるようですが、テロは絶対許されるものではなく、断固として阻止し、取り締まらなければなりません。

日本もテロに対しては「対岸の火事」ではありません。
来年にはサミットが開催され、そして、2020年には東京オリンピックが開催されます。
テロリストたちにとっては絶好の標的と映る筈です。
国内でテロの発生が起こることのないよう、警察には万全な警備体制を敷いていただき、そして、一般市民の命と安全な暮らしを守っていただくようお願いします。

さて、日本では警察への緊急通報に110番が割り当てられていますが、何故この番号になったのでしょうか?
そこで調べてみました。

日本の警察制度は、明治5年9月、川路利良という役人を一年間ヨーロッパへ派遣して警察制度の調査を行わせ、その結果をもとに明治7年1月に警視庁がつくられました。
110番で警察に電話が繋がるという通報システムが完成したのは、警視庁誕生からおよそ70年後の昭和23年10月1日で、東京、大阪、京都、名古屋など主要8都市で開始されたのだそうです。

しかし、当時から110番だったわけではありません。
当初は東京だけが110番で、大阪、京都は1110番、名古屋は118番と都市によって異なる番号が割り振られていたそうです。
これが昭和29年の新警察法によって110番に統一されたのです。

なぜ110番号になったのか、警察本部によると3つの理由があったのだそうです。
1.国民に覚えやすい番号とすること
2.誤報が少ないように番号を3桁にすること
3.ストッパーまでの距離が短い「1」を多くすること

即ち、間違わないようにストッパーまでの距離が一番短い「1」を二つ使い、最後に0を入れて覚えやすく、そしてかけやすい番号として、全国共通の110番が採用されたと言うことです。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大岡越前と遠山金四郎

2015-11-15 | 雑学

所用のため数日間ブログの書き込みをを休ませていただきました。
今日から再開しましたので、引き続きよろしくお願いします。

さて、時代劇に出てくる名奉行と言えば北町奉行所の遠山金四郎と南町奉行所の大岡越前ですよね。
ドラマでは北町奉行所は南町の悪口を言い、南町奉行所は北町の悪口を言う展開となる場合が多いようですが、この二人の名奉行、果たしてどちらが有能だったのでしょうね。
そこで調べてみました。

北町奉行所の遠山金四郎と南町奉行所の大岡越前は生きた年代が全く違うので比較ができないと言うのが実のところです。
遠山金四郎は勘定奉行を経て1840年(天保11年)に48歳で北町奉行となり、水野忠邦が行った天保の改革、即ち、倹約奨励や娯楽の廃止を唱えた政策に反発し、芝居小屋廃止を移転だけにとどめるなど、庶民の見方を貫きました。
それがアダとなり北町奉行をクビになりましたが、1845年(弘化2年)に南町奉行に返り咲きました。
刺青をしていたのは事実のようですが、テレビで観るほど立派なものではなかったようです。

一方、大岡越前は徳川第8代将軍吉宗によって1717年(享保2年)に41歳で南町奉行に任命されました。
歴代の奉行の中でも最も高い評価を得ていますが、ドラマに出てくる「大岡裁き」の殆どはフィクションだそうです。

奉行所の格は、一般的には南町奉行よりも北町奉行の方が高いとされていたようですが、大岡越前の時の南町奉行だけは例外のようです。
遠山金四郎は「大岡越前以来の名奉行」と言われていたので、二人を敢えて比較するとすれば大岡越前の方が有能だったと言えるのかもしれないと言うことです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

色男

2015-11-10 | 雑学

男性の皆さん、「よっ!色男」なんて言われた事がありますか?
おっと!失礼しました。今も昔も言われているのでしたね。
私には縁のない言葉ですが、今日はこの言葉の語源について調べました。

色男の語源は、歌舞伎で男女の濡れ場を演じる「濡事師」で、色白の美男子に見せるため、顔を白く塗っていたことから「色男」と呼ばれるようになり、美男子を意味するようになったのだそうです。
その後、色男は顔だちのよい美男系だけでなく、女好きな(好色な)性格も含まれ、女性にもてるような遊び人系をも指して使われる言葉となりました。

「色男」と言えばよく知られた川柳に「色男 金と力は なかりけり」があります。
この意味は、女にもてる美男子にかぎって、とかく懐は寂しいし、腕っ節も弱いものだということです。

色男の定義は、人や時代でさまざまで、昔から垢抜けして、軟弱なやさ男が色男とされていたようですが、一方で、美男子をからかった、負け惜しみの言葉としても用いられていたようです。


「お詫び」
  いつも当ブログにアクセスいただきありがとうございます。
  所用のため、明日から数日の間、ブログの書き込みを休ませていただきます。
  

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする