幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

古文書ライブラリ―への道具

2019-07-13 12:21:58 | Weblog
先日、隣村のパソコン相談所の後藤氏と飲みました。
も魚も結構でしたが、話の中でスキャン機械と言うものを教えていただきました。
二日酔いの翌日、機械と画像情報を整理するソフトを買ってやってみました。

まず、


スキャン機械で古文書を撮影してみました。一枚三秒というスピ-ドです。

整理するソフトでフアイルを作成して、画像を入れてゆきます。



小さい日記を撮影しても、解像度が抜群によいので、拡大してもぼやけません。
老眼の私には、原文書より格段に読みやすくなりました。



紙数にして30枚程の小さな日記でしたが、10分かからず、パソコンに収納できました。

ずいぶんと、日記がありますので、夢だった「古文書ライブラリ-」が出来そうなきがしてきました。

整理ソフトも使いやすく、場所分けや年代分けも簡単にできそうです。

この頃は朝飯前に2冊くらいづつ撮影、収納しています。

時代の変化は恐ろしいものですネ~
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ようやく 「角田桜岳日記」 入力が終わりましたが、、

2019-06-09 16:10:49 | Weblog
 先日、与左衛門様から、御教え頂きました「角田桜岳日記」の天気情報量が多く

デ-タ入力がようやく終わりましたが、そのうちに集めている未入力日記も増えて、
只今、入力中です。
商工会や色々と総会も多く、いつもですと5月中に終るのですが、10連休の影響で、
今もって総会が続いています。
ブログ書き込みが出来ません。
青い空を見ながら「あ~あ~、暇だ」と、ぼそっと呟きたい此の頃です。
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長谷川貞信「浪花百景之内 松が鼻」の雪景が描かれた日

2019-02-22 21:10:18 | Weblog

 八軒家絵巻様よりリクエスト頂きました。

ご依頼内容は、
「長谷川貞信が描いた「浪花百景之内 松が鼻」の雪渓をとりあげております。作画時期は明治2年または3年(前後1年ぐらいの誤差はあるかも)とされておりますが、大阪管区気象台には明治15年以後の記録しか残っておらず、日付を特定しかねております。」とありました。

 大坂で降った雪を調べてみました。残念ながら私のデ-タベ-スに大坂の記録が少なく、天候記録もすくないため、京都の雪も含めて探しました。
明治元年9月1日から明治4年12月30日までで、京大坂で雪の記録があったのは、67日でした。
けっこう雪の回数は多いのですが、大坂での積雪は少ないようです。

例えば明治元年12月16日の京都の日記では積雪三寸との記事もありますが、池田では曇晴、大坂では晴で、雪すらも降っていないようです。大坂で積雪があったと思われる日を見てみますと、

 明治二年一月十八日  
   朝三寸斗雪晴天【池田】
   雪三寸許降【京都】
   朝六寸大雪積る【兵庫県三田町】
 明治二年十二月五日
   晴天、朝雪一寸つもる【池田】
   風、夕より夜へ雪【岸和田】
   朝雪壱寸程【三田町】
 明治三年一月十二日
   雪ふり、六七寸計リ積リ候【京都】
   暁起、風雪満天平地無形影ガイガイ一白【大坂】
   雪【岸和田】
   朝雪弐寸つもり辰刻小雨【池田】
 明治三年十二月四日
   暁天風雪、、一面之銀世界【京都】
   朝雪一寸ふり後晴天【池田】
 明治四年一月一日
   雪天雪積事三寸四ツ時より交天大厳寒也終日通ノ雪軒ノツらら不解夜晴【京都】
   風雪大至【大坂】
   晴天時々雪降寒気強【池田】
 明治四年一月一日
   朝晴天辰上刻より雪一寸後みそれ一寸【池田】
 明治四年十二月二十九日
   朝掛ケより雪ふる、四五寸積る、、壱日雲る、夕飯後小雨ふる【京都】
   雪【岸和田】
   雪【池田】

の七日となっています。土地勘がないので、良く分かりませんが京都で積雪があっても、大坂での積雪は少ないようです。
明治初年に、長谷川貞信が描いた「浪花百景之内 松が鼻」の雪景ような雪の降った日は、いつ時だったのでしょうか、
はっきりとは分かりませんでしたが、絵うを見た感じでは積雪がニ三寸と言う感じでしたので、明治二年一月十八日か
明治三年一月十二日あたりが有力な感じがします。

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富士宮市の袖日記

2019-01-27 22:35:53 | Weblog
富士宮市に「袖日記」と言う日記があります。
面白い記事が沢山載っています。少しご紹介します。
皆さんも読んで見てください。



蒸気船の海城王、下に申付、しきりに日本のコメを借りたき由を申付る時ニ、
水主壱人帆柱の上ニあがり、遠目鏡を以て遥ニ安房、相模、上総の方を見渡し、
王の前ニ出て申けるハ、日本ニハ米ハ御座りませぬと申。
王申ニ米が有か無か、遠目鏡くらひで見究らるべきや、何故ニ左様申スと咎めける時、
水主の申ニハどうあっても日本ニ米ハ無ニ違なく候、
其訳ハ総房之台場其外諸大名の陣中も残らずみなアワを喰ふておりまする



異船より書翰候処、
其内ニ 不二山と鷹と茄子と書てあり、
江戸中ニ評定届ず京都へ向ひ伺ひ候処、
是ハ倹約と唱へて民を苦しむる事を異国よりさみしたるなりと禁庭仰候て 
御歌被下   

  それニ鷹 あまり倹約茄子故ニ 三国一のふじのさいなん 


おあとが、宜しいようで
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オ-ルコック 老中公式訪問日の江戸の天気 安政六年六月七日(1859年7月6日)

2019-01-01 13:09:00 | Weblog


 オ-ルコック 老中公式訪問日は、安政六年六月七日(西暦 1859年7月6日)とのことで、天気は如何だったのでしょう。
現在の平年値では、東京の梅雨入りは6月8日ごろで、梅雨明けは7月21日ごろです。
おそらく、安政六年六月七日の江戸の天気は梅雨前線が関与していたと考えられます。

天気分布図がうまく行かず、申し訳ありませんが、安政六年六月五日には九州四国近畿北陸を中心に雨域が分布していて、
翌六月六日には、東海、関東、東北、北海道に雨域が広がり、九州、四国、近畿は晴又は曇りとなっております。
雨域は低気圧と連動していると思われますので、五日から六日にかけて(梅雨前線上を)低気圧が東進したと考えられます。
通常の季節ですと、低気圧一過の後は晴れ上がりそうなものですが、居座った梅雨前線の影響で全国的に天気は不安定だった
模様です。
梅雨前線の位置が確定しにくいので、六月七日の江戸の天気記事を集めてみますと、

朝雨、後晴【村垣公務日記】【江戸】
晴、夕より雨【梅若実日記】【江戸】
曇、七ツ時より雨ふる【尾崎日記】【八王子】
朝雨四前止、晴る、、夜雨【齋藤月岑日記】【江戸】
 となり総合しますと、
朝は雨降りで9時ころ雨があがり、晴れたが午後5時ころから、また降り出し夜も雨だったと思われます。

気温については江戸の史料がありませんが、水戸の大高氏記録に、朝五ツ時の記録があります。
 6月3日70度、 4日73度、 5日68度、 6日73度、 7日記録なし、 8日70度、9日73度、となっていてほぼ安定しております。
平均しますと 約71度で、温度は華氏ですので摂氏22 度位になっています。
特に天気や気温の急変はなかったようですので、江戸の気温もほぼ似たような傾向だと思われます。
現在の7月の平年値では水戸より東京の方が1.5度ほど気温が高いので、推測しますと、
江戸での7日の午前9時ころの気温は摂氏21~25度位だったのではないかと思います。

 風につきましては、手持ちの江戸の史料がないので、近隣の史料を集めてみますと 
北気ニ而陰、後ニは南ニ替り時 夜ニ入陰、雨降【浜浅葉日記】【横須賀】
小雨昼比より半晴南風【吉野家日記】【流山】
南風【玄蕃日記】【銚子】
坤風雨天【新島島役所日記】
となっていて、江戸でも昼過ぎには南風になっていた可能性が強いと思われます。

はっきりした史料がなく、傍証での天気予想になってしまいましたが、

安政六年六月七日(西暦 1859年7月6日)の江戸の天気は
【朝は雨降りで9時ころ雨があがり、気温は摂氏21度~25度で、後に晴れてきました。
風は昼頃から南風となり、午後5時ころから、また雨が降り出し、夜も雨だったと思われます。】

この日あたりは、全国的に御天気が変わりやすい傾向にありました。
(上の天気分布図は、安政六年六月七日のものです)










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牛久駅の宿屋の番頭と高杉晋作

2018-11-09 12:20:58 | Weblog

高杉晋作の日記「試撃行」 によりますと、晋作が修行の旅で、茨木県の牛久駅の宿に泊ったのは、万延元年八月二十九日、西暦では1860年10月13日のことであります。
試撃行にその夜の事が書かれています。

此夜雨頻降、同宿旅人皆狼狽認雨具
家奴云 秋時雨至夜 必催明朝放晴
九月朔日、果如家奴言 天晴日出
同宿旅人驚訴喜 予亦応其喜

訳してみますと、

二十九日の夜、雨が頻りに降ったので、同宿の旅人たちは、あわてて雨具を用意した、
その時宿屋の番頭が、秋の夜に時雨が降れば、明日の朝は必ず晴れ渡ると言った。


果たして翌九月一日の朝は番頭の言うように空は晴れ日が出た。
同宿の旅人は番頭さんの言った通りになったので、驚いて言った。
番頭さんの言う通りに晴れた、良かった、良かった
私もまた、良かった良かったと言いました。

と言う感じでしょうか。さて、家奴の 秋時雨至夜 必催明朝放晴 と言うところですが、

この日の雨は、雨頻りに至る、時雨と言う記録から積乱雲による強い雨考えられます。
また夜は日射がありませんから、積乱雲が発達するのは上空に強い寒気が入ってきたと考えられます。
この時雨は、天気図から見ますと、前線の雨の後に、寒気の核が通過する時に降った時雨と思われます。
寒気が過ぎると、移動性高気圧が張り出してきますから、晴天になる確率は高く家奴の言葉は現在でも通用しそうです。

実際に天気分布図をみてみなすと、


(うまく分布図が出来ません、後日UPいたします。)



とあって前の推定は正しそうです。

さぞや宿屋の番頭は得意顔であったでしょうが、良かった良かったと言ったのが誰あろう泣く子もだまる、奇兵隊の総帥 高杉晋作とは知るよしもなかったでありましょう。
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月窓庵海松の【俳諧日記】

2018-09-25 20:44:06 | Weblog
ご無沙汰しております。
古文書からの気象情報の収集が一息つきました。



今回はとくに、写真の月窓庵海松の【俳諧日記】に時間がかかりました。

少し紹介いたしましょう。

日記の作者海松は本名 佐々木龍海と言い、三重県川越町豊田の長息坊から80歳近くになって京都元誓寺通りの興徳寺の住職になった僧侶です。
日記には、簡単な自分の履歴が書かれています。



于時文政□年發月十五日勢州朝明郡豊田村長息坊道場也、住居是ハ同国三重郡山之一色村道場住、安藤茂規仲人ニ而此地ニ住居、五拾二歳之朋也、尓ル所明治九年子八月御法主殿より西京元誓寺通り寺今町興徳寺無住ニ付轉住被 仰付、御受申上候、九月八日豊田邑長息坊退寺、、十三日午後二時興徳寺え着

とあります。

一冊めは、嘉永六年、安政元年、二年、  二冊めは安政三年、四年
三冊は安政五年、六年          四冊 欠
五冊は文久二年、            六冊は、文久三年、四年
七冊 欠                八冊は慶応三年、四年
九冊は明治二年             十冊は明治三年
十一冊上 欠              十一冊下 明治六年
十四冊 明治十年、十一年        十五冊 明治十二年
十六冊 明治十三年           十七冊 欠
十八冊 欠               十九冊 欠
二十冊 明治十七年(84歳)       続きは有るかどうか不明

内容は、俳句だけでなく、天気、地震の揺れ、日常生活、世間の話など多岐にわたり、興味深い日記です。ただ虫食いが激しく難読な部分もありました。
写真のようです。



直し方のわかる方、ご教示ください。

先日、電気を点けると、巨大な紙魚がいました。
この日記と一緒に渡来したのかも知れません。大きさは3~5cmもあったでしょうか。
あまりの大きさにゲジゲジと見紛うほどでした。

紙魚もこの位大きくなると、食い物は、古文書など時化たものでなく、残飯を漁っているように見えました。
潰そうと思って追いかけましたが、影に逃げ込み逃げられてしまいました。
翌日はバルサンを買ってきて部屋中を燻蒸しましたが、紙魚がどうなったかは分かりません。

ところで、龍海住職がいた興徳寺は調べますと京都に現存していました。
この日記がどのように流転してきたのか、欠けている日記は現存しているのでしょうか。
あれこれ想像しますが、知る由もありません。
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ご無沙汰しております

2018-06-10 17:54:10 | Weblog
ご無沙汰しております。

手元に、未読文書が多数集まり、気象情報を入力中です。



どの文書も気象情報満載で



こんな感じです。

古文書たちが「もたもたするな!」と言っておりますが、入力には大分時間がかかりそうです。

当分古文書と楽しみますので、ブログの書き込みは少しサボらせて頂きます。





2ケ月書き込まないので、広告が出てしまいましたので、書き足して出ないようにしました。
お盆ちかくになり、ようやく六割ぐらいおわりました。
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天保十一年の雪(続三方領地替え)

2018-04-01 17:28:28 | Weblog
三方領地替が言い渡された庄内藩は豪雪地帯であります。
次第に、庄内藩御百姓による三方領地替えへの反対闘争は、庄内藩農民幕府の様相を呈してきます。
幕府のある江戸に行くには、船を利用しなければ、山越えは必須です。
実際、幕府への越訴や有力諸藩の嘆願には、山越えの路を利用しています。
奥羽山脈や鳥海山、月山、吾妻山の積雪が気になるところです。
そこで、今回は天保十一年の積雪を調べてみたいと思います。

手元の史料で、天保十一年の雪の記事があるのは、天保十一年六月十九日(1840年7月17日)の南アルプス市の日記です。
「 上天気、八ツ時より夕立、始メ此辺ハ雨少しふり、川東甲府在ハひうかふり、鏡中条辺ハ大夕立有之候、富士山ハ候(降?)雪か八合目頃迄雪ふり 」
とありまして、富士山には新暦の7月17日八合目まで冠雪があったようです。
初冠雪か終雪かは分かりませんが、かなり早いです。
富士山の冠雪は、この頃では2008年の8月9日が最も早いようです。

次の記録は、九月七日(新暦10月2日)の弘前の記録で「 岩木山に雪見ゆ 」とあります。現在の平年値では10月21日ですので、天保十一年の冠雪は富士山や岩木山で現在の平年値より20日ほど早いことが分かります。

1840年の気温を現在の平年値で比較したのが下のグラフです、時間は正午です。



平均気温が現在の平年値より3度程低くなっています。

十月一日(10月25日)には秋田県から山形県にかけて初雪が降っており、庄内地方も初雪が降った事と思われます。秋田市での初雪の現在の平年値が11月13日ですから、やはり20日程現在の平年値より早いようです。

矢口弥兵衛の早駕篭が鶴岡についたのが、十一月八日ですので、早駕篭の出発した十一月一日から八日までの間は江戸から鶴岡辺で雪の記録はありませんので、早駕篭は雪に悩ませられることは無かったようです。

しかし、翌日の十一月九日には、「 雪降、近所山迄白く相成候 」秋田県南の院内の記録では、雪が里まで下りてきたようです。
天保十一年は、やはり現代より寒冷で雪も早かったようです。

庄内藩農民代表が転封に反対して江戸へ出発する、十一月二十三日までには、まだ間があります。

雪も、幕府対庄内藩御百姓の闘いも未だ序章でございます。
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天保十一年十一月一日(西暦1840年11月24日)、江戸城黒書院の天気

2018-03-14 23:07:33 | Weblog
天保十一年十一月一日、酒井忠発が、江戸城黒書院で、三方領地替を言い渡されました。
忠発と庄内藩にとりましては、まさに「青天の霹靂」でありました。

ところで、当日の江戸の天気はどうだったでしょうか。
江戸九段下の【井関隆子日記】によりますと、「時雨の雲も昨日に尽ぬるにか、日影花やかに晴わたりぬ
となりまして、前日までのぐずついた天気がようやく晴渡ったようです。

全国の天気分布図を見ますと、



となっており、日本海側の一部を除き日本列島は概ね晴になっております。
忠発の言い渡された時間は正午前後と考えられますので、

午正晴、55度、29寸7分【霊憲候簿】 言い渡された時の江戸城黒書院での天気は晴、気温は摂氏12,8度前後で、
暮れも程近い、新暦11月24日としては穏やかな天気でしたが、天気とは裏腹に「神田大黒」の庄内藩江戸屋敷は
暗雲の中にあったと考えられます。

柴又の寅さんに言わせれば「空は晴れても、心は闇よ」と言ったところでしょうか。

冗談はさておき、暮れには早速国元に向けて、矢口弥兵衛が早駕篭で出立します
早駕篭出発の時は、気温は摂氏11.7度と高めでしたが、江戸も曇りとなりました。

秋田、山形では、一月前の十月一日に初雪が降っており、道中の雪も心配です。

興味は尽きませんが、夜も更けましたので、今日はこの辺で「おやすみなさい」

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