幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

紀州大納言狙撃さる

2012-09-02 17:56:32 | Weblog
紀州候、箱根にて狙撃され死亡のうわさ


てんてんてんまり、てんてまり

西条八十の「まりと殿様」は良く分らないところがあります。
あえて言えば「手まりの手がそれて、供先を割り、小児が無礼打ちになった」
と言う、恐ろしいスト-リーが下敷きになっているような気もします。


大坂の【浮世の有様】と言う日記の天保十二年二月二十三日の項に

「春来奇怪の浮説種々、、紀州侯無禮せし小児、其親当を掛川の宿にて切殺し、箱根に於て、鉄砲にて打殺され給いしなど、」

との記述があります。


要約すると、
「春から色々なデマが飛び交い、、紀州候に無礼をした小児と其の親などを掛川宿で切り殺し、箱根で紀州候が鉄砲で撃ち殺され

たなど、」となります。


確かに、紀州候斉順は天保十二年の一月、武士1639人、人足2337、馬103頭という大部隊を連れて江戸入りしています。
しかし【浮世の有様】の作者も浮説と書いているように、当時の紀州藩主徳川斉順に特別な変化はありません。

では何故、この噂が出来たのでしょうか。
おそらく、徳川斉順の江戸出府の様子が異常だったからだと思われます。

天保十二年閏一月二十九日の藤沢市遊行寺の【藤沢山日鑑】に、遊行寺へ立ち寄る予定だったが「江戸表より御急之趣申来」  て遊行寺立寄りは中止となり、「紀州様非常御立抜」とあります。

また【関口日記】【生麦】には、「紀州様御参府朝早シ(天保十二年閏一月三十日条)」とありますように、異常な急ぎぶりだった事は間違いありません。

言うまでも無く、「江戸表より御急之趣申来」と言うのは、天保十二年閏一月三十日の大御所徳川家斉の死です。
紀州藩主徳川斉順は、大御所徳川家斉の七男ですので、この急ぎぶりは納得できます。

日本一とまでいわれ4000人もの供廻りを連れた、紀州の大名駕篭が東海道を東に急ぐ姿は異様なものだったのでしょう。
この異様な大名行列を見て世間の人が、あれこれと憶測したのではないでしょうか。
この年、家老の三浦為章が亡くなったことも、噂の一因かもしれません。

ところで、江戸時代後期には、無礼打ちなどあったのでしょうか。
私は、今のところ文献は見たことがありません。

江戸後期には、一部の気違いは別として、無礼打ちなどない成熟した社会が作られていたのではないかと、私は考えております。

コメント (2)
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