サイババは光を非常に好んだ。彼は小売店主たちにいつも油を借りて、マスジッドと寺院では夜中ランプを灯していた。これはしばらく続いた。油を無料で提供していたバニアス(小売店主)たちは、あるとき集まって彼にはもう油をやらないことに決めた。
いつものようにババが油を乞いに行くと、彼らは皆はっきり”NO”と言った。ババは狼狽することもなくマスジッドに戻ると、ランプに乾いたろうそくの芯を置いた。バニアスらは好奇心から彼をじっと見ていた。ババはほんの数滴の油の入ったタムレル(ブリキのポット)を手に取り、そこへ水を入れてそれを口に入れ、それから容器の中へ戻した。
このようにしてブリキのポットを清めると、彼はブリキのポットから水をランプに注ぎ、灯りをつけた。ランプは燃え始めると、夜中燃え続けたため、これを見ていたバニアスたちはびっくり仰天した。バニアスたちは後悔してババに謝ると、ババは彼らを許し、これからはもっと信心深くなるよう言った。
前述したレスリング勝負から5年の後、アーメドナガールからジャヴハール・アリとそこでいう名のファーキルが弟子を連れてラハタへやってきて、ヴィラバドラ寺院の近くにあるバクハル(広々とした部屋)に滞在した。ファーキルは博学で、コーランの全てを暗誦でき、美しい弁舌を披露した。
宗教的で信仰深い多くの村人たちは彼の元へやってきて、彼を崇め始めた。こうした人々の支援があって、彼はヴィラバドラ寺院の近くにイドガー(壁に囲まれた土地でイスラム教徒がイド日に祈りを捧げる場所)を建設した。この件では少々諍いがあって、そのためにジャヴハール・アリはロハタを去らなくてはならなくなった。
そこで彼はシルディにやってきて、ババと共にマスジッドに住んだ。人々は彼の美しい弁舌に心を奪われ、彼はババのことを自分の弟子と呼び始めた。ババはこれには反論せず、彼のチェラ(弟子)であることに同意していた。それからグルとチェラはラハタに戻って共に暮らすことにした。
グルは自分の弟子の真価を全くわかっていなかったが、弟子の方はグルの欠点を見抜いていた。だがババは彼を見下すことなく、彼の行動を注意深く見ていた。ババはマスターに色々と奉仕までした。彼らは時々シルディにやってきたが、主な滞在場所はロハタだった。シルディにいるババを愛する帰依者たちは、ババが彼らを置いてロハタにいることが気に入らなかった。
そこで彼らは代表団を作り、ババをシルディに連れ戻そうとした。彼らはイドガーの側でババに出くわし、自分たちがやってきた目的を話すと、ババはファーキルは怒りっぽく不機嫌で自分の元を離れないだろうから、ファーキルが戻る前に彼らだけでシルディに戻る方が良いと言った。そのようなことを話していると、ファーキルが現れて、自分の弟子を連れて行こうとする彼らにカンカンになって怒った。
そこで熱い口論が巻き起こり、最終的にはグルとチェラの両者がシルディに戻るのがよいということになった。そして彼らはシルディに戻り共に暮らした。だが数日後、グルはデヴィダスに試されて、欠陥のあることが暴かれたのだった。
ババが結婚式の一団に混じってシルディにやってくる12年前、10歳か11歳だったデヴィダスはシルディに来てマルティ寺院に住んでいた。デヴィダスは美しい顔立ちで輝く瞳をして、平静の権化でディヤーニ1であった。多くの人々、すなわちタティヤ・コテ、カシナスその他の人々が彼を自分たちのグルだと見なした。
彼らはジャヴハール・アリを彼の前に連れて行き、行われた討論の中でジャヴハールが負かされ、彼はシルディから逃げ去ったのだった。彼はビジャプールに滞在し、長い年月の後シルディに戻ってくると、サイババの前にひれ伏した。彼がグルでサイババが彼のチェラだという思い違いは一掃され、彼は後悔したが、サイババは尊敬の念を持って彼を扱ったのだった。この場合、サイババは自ら身をもって、人はエゴイズムを取り除き、最高の高み、すなわち自己認識を得るために弟子としての義務を果たさねばならないということを示したのだった。この物語はムハルサパティ(ババの偉大な帰依者)の記述に従って綴られている。
次章では、ラーム・ナヴァミ祭2、マスジッドの初期の状態と後の修復等について述べることにする。
ババの別の物語に移ろう。シルディにはモヒディン・タンボリという名のレスラーがいた。ババと彼はいくつかの点で意見が合わず、勝負を行うことになった。この時はババが負けた。それからババは服装と生活様式を変えた。彼はカフニを身につけ、ランゴット(腰巻き)を着け、頭を布きれで覆った。
またベッドを荒布で覆い、破れて擦り切れたボロ布をまとうことで満足した。彼は常にこう言った。「貧困は王の身分より、貴族の身分よりよい。主は常に貧しい者の兄弟だ」ガンガギールもまたレスリングを非常に好んだ。
あるとき彼がレスリングをしていると、平静な気分が彼に降りてきた。そして適切な時に、お前は神に祈ることにその身をすり減らしなさいというマスターの声が聴こえた。そこで彼はサンサーラを断念し、神を悟る方向に向かった。彼はブンタンベのそばの川岸にマスを建設し、弟子たちと共にそこに住んだ。
サイババは人々と交わったり喋ったりしなかった。彼はただ質問されたときにだけ答えていた。日中、彼は常にニームの木の下に座り、時にはバブールの木陰や小川の側や村はずれに座ることもあった。午後になると、適当に歩き始め、ニムガオンに行くこともあった。
そこで彼はしばしばバラサヘブ・デングルの家を訪れた。ババはバラサヘブ氏を愛した。彼の弟のナナサヘブは二人目の妻を娶っていたが、息子がいなかった。バラサヘブがナナサヘブをサイババのダルシャンに行かせると、しばらくして彼の恩寵によりナナサヘブは息子を授かった。それから後、人々は大挙してサイババに会いにくるようになり、彼の名声は広まってアーメドナガールにまで届くようになり、その後ナナサヘブ・チャンドルカールとカシャヴ・チダンベールやその他大勢がシルディにやってくるようになった。ババは日中は帰依者たちに囲まれ、夜は荒廃したマスジッドで眠った。
この時のババの持ち物は、チルムとタバコ、’タムレル’(ブリキのポット)、長いカフニ、頭に巻く布切れ、そして彼が常に持ち歩いているサトカ(短い棒)だけであった。白い布切れはもじゃもじゃの髪の毛に巻かれ、左耳のところから背中に垂れていた。この布は数週間も洗濯されることがなかった。彼は靴もサンダルも履かなかった。荒布の切れ端がほとんど一日中彼の腰掛けだった。
彼はコウピン(布の腰巻き)を着け、寒さを凌ぐために常に南向きのドゥーニ(聖なる火)の前に座り、左手を木の手すりにかけていた。ドゥーニでは、彼はエゴイズムや欲望を供物として捧げ、常に「アッラー・マリク(アラーは偉大なり)」と口にしていた。彼のいたマスジッドには2部屋しかなく、帰依者たちはみなそこへやってきて彼に会った。
1912年以降、変化があった。古いマスジッドが修復され、歩道が作られた。ババがマスジッドに住むようになる前は、長い間タキアと呼ばれる場所に暮らしており、そこでババはグングル(小さなベル)を足首に付け美しく踊り、憐れみ深い愛を込めて歌っていた。
1.(7-8-0ルピー):1957年以前、インドルピーは16アナと同等で、1アナは4パイサと同等だった)
サイババは若い頃、髪を腰まで伸ばしていて頭は剃っていなかった。彼は運動選手のような格好をしていた。彼がラハタ(シルディから3マイルの場所)を訪れたとき、マリーゴールドとジャイとジュイの小さな苗木を持って帰ってきた。
手入れをした後、彼はその苗木を植えて水をやった。ヴァマン・タティヤという名の帰依者は、毎日2つの焼いていない土製の水差しを彼に渡していた。これを使って、ババ自身で苗木に水をやっていたのだ。
彼は井戸から水を汲み上げ、肩に水差しを背負って運んだ。夜になると、水差しはニームの木の根元に揃えて置いてあった。水差しは泥で作られ焼かれていなかったので、そこに置かれた後すぐに壊れてしまった。
翌日タティヤはまた2つの新しい水差しを渡した。こうしたことが3年間繰り返され、サイババの骨折りと努力の甲斐あって、庭園ができた。この場所に現在は大きな館が建てられている - ババのサマディ・マンディールで、現在も非常に多くの帰依者たちが頻繁に訪れている。
タナ地区のマムラトダールを退職したサイババの熱心な帰依者であるB.V.Dev氏は、この件でサグン・メル・ナイクとゴヴィンド・カムラカール・ディクシットに照会を行って、”Sai Leela” Vol.11, No.I 25項にパドゥカ据付の物語の完全版を掲載した。内容は次の通りである。
釈迦歴1834年(紀元1912年)、ムンバイのドクター・ラムラオ・コターレがババのダルシャンを受けにシルディにやってきた。彼の調合師と彼の友人のバイ・クリシュナジ・アリバグカールが彼に同行した。調合師とバイはサグン・メル・ナイクとG.K.ディクシットと親しくなった。彼らは色々と議論をしているうちに、サイババが最初にシルディに現れ、聖なるニームの木の下に座ったという何かしらの記念碑を作らなくてはならないと考えた。
彼らはババのパドゥカをそこに据付けようと考え、石でおおまかな形を作ってみることにした。そしてバイの友人の調合師は、もしこの件が彼の主人のドクター・ラムラオ・コタレの耳に入れば、彼は立派なパドゥカを用意してくれるだろうと提案した。皆がこの提案を気に入ったので、ドクター・コターレに連絡を入れた。
彼はシルディにやってきて、パドゥカの図面を描いた。彼はカンドバ寺院のウパサニ・マハラジを訪ねて、彼にその図面を見せた。マハラジは多くの修正を行い、蓮、花、巻貝、円盤、矛等を描いて、ニームの木の偉大さとババのヨガのパワーについてのスローカ(詩篇)を刻むよう提案した。詩篇は次のようなものであった。
“我、主サイナスに頭を垂れる。辛く不快な時も、常にニームの木の根元に座して、
甘露が滲み出るようにして下さった(この木から滲み出るものは“アムリタ”と呼ばれ、癒しを行う甘露である) - カルパヴルクシャ(願いを叶える木)よりも優れたお方。”
ウパサニの提案が認められ準備が進められた。パドゥカはムンバイで製作され、調合師によってシルディに送られた。ババは、シュラヴァン月のプルニマの日(15日)に据付をするのがよいと言った。その日の午前11時、G.K.ディクシットはカンドバ寺院からドワルカマイ(マスジッド)までの間、頭にパドゥカを乗せて行進した。ババはパドゥカに触れて、これは主の御足であり、ニームの木の根元に据付をするようにと人々に言った。
これに先立って、ムンバイのパルシー教徒の帰依者パスタ・シェスが郵便為替で25ルピーを送っていた。ババはこのお金をパドゥカの据付に使った。据付にかかった合計の費用は100ルピーで、そのうち75ルピーは寄付金でまかなわれた。最初の5年間は、G.K.ディクシットが毎日のパドゥカ礼拝していたが、やがてこれはラクスマン・カチェシュワール・ジャカディが行うようになった。
最初の5年間、ドクター・コターレはランプを灯す費用として月に2ルピーを送っていたが、パドゥカを囲む柵の費用も払った。柵を駅からシルディに運び(7-8-0ルピー1、現在の価値にして7.50ルピー程度)、屋根を付ける費用はサグン・メル・ナイクが支払った。現在はジャカディ(ナナ・プジャリ)が礼拝を行い、サグン・メル・ナイクがナイヴァイディア(甘いお菓子を供えること)と夜のランプの点灯を行っている。
バイ・クリシュナジは元々はアッカルコット・マハラジの帰依者であった。彼は釈迦歴1834年、アッカルコットに行く途中にパドゥカの据付の時にシルディにやってきた。彼はババのダルシャンを受けた後は、アッカルコットに行きたいと思っていた。彼がこの許可をババに願い出ると、ババはこう言った。「おや、アッカルコットとはどこだね?君はなぜそこに行くのかね?彼の地のマハラジはここにいる。私自身だ」これを聞いてバイはアッカルコットへいくのをやめた。パドゥカの据付の後も、彼は時々シルディにやってきたのだった。
B.V.Dev.氏は、ヘマドパントはこうした詳細を知らなかったと結んでいる。知っていれば、彼は”サッチャリタ”の中でこうした出来事について記述しないはずがない、としている。
アッカルコット・マハラジの帰依者のバイ・クリシュナジ・アリバグカールはアッカルコット・マハラジの写真を礼拝していた。あるとき彼はアッカルコット(ソラプール地区)へ行って、マハラジのパドゥカ(足跡)のダルシャンを受け、真摯に祈りを捧げたいと考えた。だがそこに行く前に、彼は夢でビジョンを得た。
アッカルコット・マハラジが現れて彼にこう言ったのだ。「今はシルディが私の休息の場だ。そこへ行って君の礼拝を捧げなさい」それだからバイは予定を変更してシルディに行き、ババを礼拝し、6ヶ月間そこに滞在して幸福に過ごした。
このビジョンの思い出に、彼はパドゥカを用意して、釈迦歴1834年(紀元1912年)シュラヴァン月(ヒンドゥー月暦で7月~8月)の吉兆の日に、ダダ・ケルカールとウパサニによって執り行われた相応の儀式と手続きの元、ニームの木の下で、据付を行った。あるディクシットのブラーミンが礼拝式の遂行を任され、管理は帰依者のサグンに委託された。
結婚式の一団がシルディに来たとき、カンドバ寺院の近くにあるバガット・マールサパティの敷地内のバンヤンの木の根元で一団は偶然足を止めた。軽馬車の手綱はカンドバ寺院の中庭で緩められ、一団のメンバーは一人ずつ降りてきた。
ファーキルもまた降りた。バガット・マールサパティは降りてきた若いファーキルを見ると近寄って声を掛けた。「ヤ・サイ(ようこそ、サイ)!」他の人々も彼のことを“サイ”と呼び、それ以来彼は“サイババ”と呼ばれるようになったのである。
11月開催のヒマラヤ行のお申し込みは締め切らせて頂きました。今後年に2~3回計画しますので、次回お申し込み頂ければ幸いです。
注意事項
〇インドはビザが必要ですので出発の10日前頃までに手続きを終わらせてください。
〇インド霊性修行の旅は、ツアー形式ではなく、あくまでも仲間が集いあって参加する形式を取っています。ので、一切の責任は主催者には発生しない事を、ご了承の上お申し込み下さい。
〇ヒマラヤ迄の道路事情は良くありませんので、あり得ない事ですが、万が一と家族を安心させる為に旅行保険に入って参加して下さい。
〇季節的は冬になりますので、気温は東京の冬と同じと考え冬仕度で参加下さい。
〇プログラムの内容は講師等と折衝の為、確定したものでない事をご承知下さい。変更される場合は、計画しているプログラムより高度な行を考えています。
〇今回はかなりハードに行われますので、体調を万全にしてご参加下さい。
〇体内と魂に溜まっている毒素の中和を行いますので、日本食の持ち込みは一切禁止させて頂きます。シャンプーや石鹸等もケミカル以外のものをご持参下さい。特に今後は神染めが問題になると思われます。
〇ファイヤープージャはほぼ毎夜行われますので、録音機をご持参下さい。ビデオで撮影しても構いませんが、絶対表には出さないで下さい。勿論他の教えやマントラも同じです。
今まで行って来た、制約とは問題にならないくらいに厳しいと思って下さい。今回から行う行は神との契約の元に全て行われる事をご理解下さい。
ですから、未だにサドゥも知らないことだらけで、巷で行われているプージャや修行との差がはっきり分かる事でしょう。そして、本当に神の世界が存在している事にびっくりするでしょう。今まで神を疎かに考えていた人は身が凍る体験をすると思っています。これが、一部の人しか巡り合う事が出来なかったヒマラヤの秘伝なのです。
〇今回授かる一部の行は、ヒマラヤの奥地のある地区だけに伝わってきたものあり、ヴェーダーの経典通りの事を授かりますので、絶対門外不出でお願いします。これが守れない方は、残念ながら次回からの参加はお断りします。これが条件で今回開催される運びになった事をご理解下さい。万が一これが外部に漏れた事が発覚しますと、次回からの教えは全員中止され、今まで「辛抱」と「忍耐」で頑張って来た、意欲的な方々にご迷惑を掛けることになります。
〇参加費用は、今のところ概算ですが1~4(セットプログラム)のプログラムの参加で15~20万円位になると思います。これにはデリー到着後からデリーに戻るまでの一切の諸費用とプログラム費が入っています。プロの通訳をお願いしない時の計算です。(講師の謝礼・会場費・ホテル・食事・国内線・車代・コーディネイト料・プージャや食事の材料費・アシュラム建設協力金等)になっており、日本からデリー往復の飛行機は個人手配となり、費用も個人負担です。※他のツアーと比較して下さい。いかに格安で行うと考えているかご理解頂けると思っています。ましてシークレットな教えを授かりますので、お金で比較すべきではないとも思っているところです。
私は霊性修行をビジネスと考える思考は好ましくないと思っています。そして、金儲けの為の師弟制度も打破すべきと思っています。この縁にめぐり合った人達は、上下の関係を考えず、親兄弟の関係で学べたらと思っていますし、才能ある人にはチャンスをどんどん与えるべきと思っています。
〇数名の希望者がいる場合は、居残り特訓も可能です。その時は一日1000円のご負担をお願いします。帰りもなるべく一緒になりますので、航空チケットはオープン切符でお願いします。(但し一人でも行動が出来る方に限らせて頂きます。)
〇その他気がついた事や変更が起こった場合は、随時発表していきます。また、お申し込みを行い、キャンセルのない方には、パスワード付きのブログ(ヒマラヤ聖者gooの聖者コース)で講師の紹介やもっと詳しい情報を提供します。それぐらい慎重に情報の流出に気を使わなければ、秘伝の教えには辿りつけない事をご理解下さい。
この教えは、今まで縁だけで伝わっており、幾らお金を積んでも絶対表に出る事の無かった教えでもあります。また、秘境の僻地だからこそ残っていた最後の法と思われます。ので、縁がある人だけに参加して頂ければと思っています。私は教えを独り占めに出来ない使命をおびており、それを実行しているので次から次に情報が入って来ると硬く信じています。自分だけこっそり学ぼう等の下衆の考えはありませんので、チャンスがある人はどんどんヒマラヤを目指し貴方も神の一員を目指して下さい。私が開設している「ヒマラヤ聖者goo」のタイトルは、「遠い」を「近い」にです。遠いと思っているヒマラヤをもっともっと近くにすべきと思い、無料の宣伝入りのテンプレートを使わせて頂いています。そして、ヒマラヤを自分の庭にしようと思う心意気を、皆に持って頂きたいとも思っているのです。
皆様方のお一人お一人が生きている間にヒマラヤの教えに縁がある事を祈っています。それほど、ヒマラヤとは神秘な世界なのです。日本にいてヒマラヤを知ることは出来ません。ましてヒマラヤの靈氣を自分の身に感じる事は出来ません。この靈氣こそが眠った魂を呼び起こす原動力だと私は思っています。し、古の偉大な聖者の誰もが言っている事なのです。ですので、ヒマラヤの行を勧めない聖者は、自分だけこっそり秘伝を得て、師弟制度を守ろうと思っているのかも知れません。「貴方にはヒマラヤはまだ早い」とか良く耳にしますが、何が早いのでしょうか?人間に生まれた以上は誰しもが目指す道ではないでしょうか?・・・・そんな事を云う貴方は、何様ですか?ビジネスマンですかと問いたいところです。
〇締切日は、インド国内線の手配がありますので、9月30日を考えています。その後国内線が確保できる状況でしたら、延長を考えます。国際線は日が立てば立つほど高くなりますので、迷っている方は、仮予約を入れる事をお薦めします。
〇通訳は最近インドと日本の経済の結びつきが強くなりつつあり、考えられない位高くなっています。と言うより、企業と契約する為確保が難しい状況です。特に英語とヒンドゥ語とサンスクリット語と現地語を話せる通訳は引っ張りだこで、3年で豪邸が建つそうです。もしセットさんに依頼する事になりますと、参加する人数にもよりますが、お一人様1,5万円から2,5万円の追加になります。しかし、ヒマラヤの聖者はテレパシーの力をもっていますので、より、高い教えを必要としない人には必要ないかもと思っています。私達は教えの内容よりも結果を追求していますので、もう少し考えさせて下さい。
〇アストロロジーの教えは表に出ている部分は大差ないと思っていますので、一般的な知識はそちらで得て下さい。私達はシークレットな伝授で神の力を授かる事を中心に考えています。ですから、聖者に口伝えで教えて頂いたシークレットな部分だけを日本語にして配布する計画をしています。これも流出しない事が確認できた時点での配布になります。
〇病気治しを目的で参加される方は、新薬なども必要でしょうから、無理をしない程度の努力で結構です。まず、自分の病気を治すことを主体に考え、人に癒しを与えるのは、自分が治ってからにして下さい。病人が病人を治そうと思う思考は、格好のブラックの餌食になりますので、今は「辛抱」と「忍耐」で、自分が幸せになれる事を一番に考えるべきと思っています。
〇お申し込み方法は後日お知らせします。ので、今は国際線の格安チケットを手配するのが一番かと思っています。思いついたまま、書きなぐっていますので、また随時発表していきます。
灯台は海の様々な場所に建設され、船乗りが岩や危険を避け、安全に航海ができるようにしている。サイババの物語も俗世という海の中で、同じような目的を持っている。その甘美さは甘露を上回り、私たちの世俗の道を平坦にし、横断しやすいようにしてくれる。聖者の物語は恵みである。
物語が耳から私たちの心に入るとき、肉体意識やエゴイズムや二元性の感覚は消えてしまう。物語が心に蓄積されてくると、疑念は晴れ、肉体の持つうぬぼれは抜け落ち、智慧が豊富に蓄積されるのである。ババの名声について純粋に記述したり、愛をもってそれを聞くと、帰依者の罪は打ち砕かれる。従ってこれが救いを得るための簡単なサーダナなのである。クリタ期のサーダナはサマ・ダマ(精神と肉体の平静)であった。
トレタ期では放棄であり、ドワパール期には礼拝であった。カリ期(現在)には、主の御名や栄光を歌うことである。この最後のサーダナは4つのヴァルナス(ブラーミン等)全ての人々に開かれている。その他のサーダナ、すなわちヨーガ・ティヤガ(放棄)、ディヤーナ(瞑想)、ディヤンダラナ(集中)は、実践がとても難しいのだが、主(サイババ)の物語や栄光を歌ったり聞いたりするのはとても簡単である。
私たちはただそこに注意を向ければよいのである。物語を聞いたり歌ったりすることで、感覚や物質への執着が取り除かれ、帰依者たちは感情に動かされなくなり、究極の自己認識へと導かれるのである。この結末を見据えて、サイババは私に”サッチャリタ”という彼の物語を書かせたのである。
帰依者たちは今ではたやすくサイババの物語を読んだり聞いたりし、一方で彼の姿に瞑想し、グルや神(サイババ)への信仰を得、感情に動かされなくなり、自己認識に至る。本書”サッチャリタ”のを準備し執筆している間、私を単なる道具として使い、全てを完成させたのはババの恩寵なのである。
第一章
神々へ敬意を表する - 小麦をひく物語とその哲学的な意味
古来の慣習に従い、ヘマドパントは様々な言葉で敬意を表して、著書スリ・サイ・サッチャリタの巻頭を飾っている。
(1) まず、彼はガネーシャ神1に敬意を表して、あらゆる障害を取り除き、執筆がうまくいくよう祈り、スリ・サイがガネーシャ神自身であると述べている。
(2) 次に、女神サラスヴァティ2に敬意を表して、彼の本書執筆を鼓舞してくれるよう祈り、スリ・サイが女神と同一であり、自らの人生を歌っているのはサイ自身であると述べている。
(3) 次に、それぞれに創造、維持、破壊の神々であるブラフマン、ヴィシュヌ、シャンカールに敬意を表して、サイナスがこうした神々と同一であり、偉大な師である彼が私たちを世俗の生活の河の向こう側へ連れて行ってくれる存在であると述べている。
(4) 次に、パラシュラーマ3(ヒンドゥーにおけるラーマ神)が海を干拓してできた土地、コンカンに自身を顕現させた守護神ナラヤナ・アディナスと、家族のアディ(最初の) ・プルシュ4にも敬意を表する。
(5) 次に、ゴートラ(氏族)に生まれたバラドワジ・ムニに敬意を表し、様々なリシ、ヤグニャヴァルキャ、ブルグ、パラシャール、ヴィシュワミトラ、ヴァシシュタ、ヴァルミキ、ジャイミニ、ヴァイシャンパヤン、ナヴァ ヨギンドラ等、またニヴルッティ、ドゥニヤナデヴ、ソパン、ムクタバイ、ジャナルダン、エクナス、ナンデヴ、ツカラム、カナー、ナラハシといった現代の聖者たちにも敬意を表する。
(6) 次に、彼の祖父サダシヴ、父ラグナス、幼少期に先立った母、彼を育てた父方の叔母と彼の愛する兄に敬意を表する。
(7) 次に、読者に敬意を表し、彼の著書に完全に専心してくれるよう祈念する。
(8) 最後に、彼のたった一つの避難所であり、ブラフマンが真実でこの世界は幻想であることを彼に気づかせてくれるスリ・ダッタトレヤの化身、彼のグル、スリ・サイナスに敬意を表し、ついでながら神が住まう万物に敬意を表する。
パラシャール、ヴィヤサ、シャンディリヤ等に習い、様々な帰依の仕方について簡単に説明したのち、筆者は下記の物語を記している。
「1910年より後のある晴れた朝、私はシルディのマスジッドへサイババのダルシャンを受けに出かけた。私は次のような出来事に遭遇して驚いた。サイババが口と顔を洗った後、小麦をうすでひく準備を始めたのだ。彼は床に大袋を広げ、それから手動のひき臼を出した。彼は籾殻を吹き分ける唐箕の中へ小麦を入れ、カフニ(ローブ)の袖をたくしあげて、ひき臼の柄を握り、ひき臼の上にある注ぎ口に一握りの小麦を入れて臼を回転させ、小麦をひき始めたのである。
私は思った。「ババは持ち物も備蓄も全くないのに、なぜ小麦をひいているんだろう。彼は施しで暮らしているというのに!」ババの所へ来た人々の中にも同じようなことを思う人がいたが、ババが何をしているのかと尋ねる勇気は誰にもなかった。
ババが小麦をひいているというニュースは瞬く間に村中に広まり、すぐに村の男女がマスジッドに押し寄せてきて、ババが何をしているのかを見ようと群がった。4人の勇敢な女性たちが群集を掻き分けて出て、ババを脇に置いて、無理矢理に柄を握ると、ババのリーラの歌を歌いながら、粉ひきを始めたのである。最初、ババはこれにひどく怒ったが、女性たちの愛情と信仰心を見て喜び、微笑み始めた。
彼らは粉ひきをしながら、ババには家も土地も子供も面倒を見る家族もなく、施しで暮らしており、小麦粉でパンやロティを作るわけでもないのに、こんな大量の小麦粉を一体どうするつもりなのだろうと考え始めた。恐らくババはとても親切だから、小麦粉を私たちに分けてくれるのだろう。こんな風に思いながら、歌を歌って、彼女らは粉ひきを終え、ひき臼を脇に置くと、小麦粉を四等分し一人一つずつ取り始めた。
ここまで静かで穏やかだったババは、怒って彼女らをののしりはじめた。「ご婦人方、頭がおかしくなったのか?父親の財産を奪い去ろうというのかね?私があなた方から小麦を借りているから、この小麦粉はあなた方が持ち去っていいというのか?よろしい、そのようにするがいい!小麦粉を持っていって、村境に捨てるがよい!」これを聞いて女性たちは困惑し互いにヒソヒソ話をした後、ババが指示したとおりに村はずれに行って小麦粉を撒いたのだった。
私がシルディの人々に「ババは何をしていたんですか?」と尋ねると、彼らは村ではコレラの伝染が広まっているから、これはそれを止めるためのババの処方だったのだと答えた。細かく粉砕されていたのは小麦ではなく、コレラそのものであり、村の外へ出されたのだった。この後、コレラの伝染は収まり、村の人々は喜んだ。私はこれを知って非常に嬉しかったが、同時に好奇心もまた高まっていた。
私は自分自身に尋ねた。「小麦粉とコレラの間に一体どんな関係があるというのか?両者の間にはどんな因果関係があって、どうやって2つを調和させたのか?」この出来事は不可解に思えた。私はこの出来事について記し、心ゆくまでババの甘いリーラを歌うべきだと思った。こんな風にこのリーラについて考えていると、私の心は喜びで満たされ、ババの生涯を記すべきだという直感を得て、サイ・サッチャリタを執筆するに至ったのである。
そして我々の知っている通り、ババの恩寵と恵みのお陰で本書は完成したのである。]
1.ガネーシャ神:主シヴァの息子であり、象の頭と人間の身体を持っている。事業などを始める際に、ヒンドゥー教徒は彼を礼拝する。
2.サラスヴァティ:学問の女神
3.パラシュラム:神(主ラーマ以前)の化身の一つ
4.プルシュ:人間