先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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官憲の暴虐で日本紙業四谷工場争議の惨敗 1927年の労働争議(読書メモ)

2023年06月14日 07時00分00秒 | 1927年の労働運動

官憲の暴虐で日本紙業四谷工場争議の惨敗 1927年の労働争議(読書メモ)
参照 「協調会史料」
   「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃 社会評論社

日本紙業四谷工場争議
 四谷区元町の日本紙業株式会社四谷工場
 労働者総数198名(うち女性32名)
 労働組合 約120名が評議会出版労働組合に加盟

(争議発生)
 会社は1926年12月、健康保険法実施に伴い、亀有工場、大阪工場及び四谷工場で合同して健康保険組合を組織した。会社は労働者の負担金を2銭5厘と発表したが四谷工場の評議会出版労働組合はこれに反対し、労働者全員の署名を集めて会社に提出した。
要求書
一、保険料の全額会社負担
二、強制積立金廃止
三、争議中の日給全額会社負担

 会社は労働者負担を2銭5厘から2銭に低減すると回答したが、労働者側は会社の全額負担を要求した。

(スト突入)
 1926年12月1日正午、全労働者198名は一斉に仕事を放棄して、工場を退場して谷町にある日宗寺境内に集合し、以下の方針を決定した。
一、全職工の結束を強固にすること
一、争議費用として各自の日給2日分を集める
一、会社が屈服しない時はこのままストライキを継続する
一、明日1月2日以降朝8時までに全員当寺に集合すること

 会社と警察の圧力で日宗寺が次の日から寺の利用を拒絶してきた。争議団は四谷須賀町の空き家を借り、毎日朝全員が集合し、今後の争議団組織体制として「教育・出版・警備・情報・行商・訪問・糧食・宣伝・会計」などの隊を決め、長期戦に備えた。また出版労働組合幹部らの激烈な演説が行われた。
 
 また3日には亀有工場の仲間たちへの以下のビラも配布した。
「▲亀有工場の同志諸君に告ぐ▲」
 ・・・我々は戦わなければならぬ。労働者の当然の権利と主張する為に、我々は団結の威力を信じて最後まで争そわねばならぬ、俺達兄弟の利益を擁護するために。
 戦において最後の勝利を決定するのものは力である。
 力、それは団結の力だ。男も女も老いも若きも全従業員すべてが、かたくかたく団結して、強く永く我らの威力を示すことによって我らの要求は通るのである。・・・
 横暴なる資本家の犬となり奴隷となって一生を通すのか、しからずんば起て・・・・
大正15年12月3日 日本紙業四谷工場争議団(四谷区須賀町13)

(評議会への警察の弾圧)
 評議会系の健康保険争議に対する官憲の弾圧は各地で熾烈を極めた。評議会系の健康保険争議では争議団員の総検束弾圧が再三繰り返された。官憲と一緒になって暴力団もしきりに介入した。浅野セメントでも暴力団がたびたび襲ってきたし、150余名もの検束すらあった。伊藤晃は日本労働組合評議会の研究で「(健康保険争議)この争議を敗北させた主要な力は警察力であった」という。官憲の弾圧は日本紙業四谷工場争議でも同じであった。四谷工場争議団が以下の地域住民向けのビラで生々しく暴露・糾弾している。

(四谷警察署の暴虐)
 ・・・ストライキ発生以来、四谷警察署の暴虐は目に余まるものであった。嫌がる職工を多数の警察官が取り囲み無理やりに工場に送り込む、それを目撃した一般の区民が「ヒドイナー」とつぶやいたとたんに、多数の警官がよってたかつて袋だたきにし、また、なんの理由もなく争議団員を検束して警察署内の道場に放り込み、暴力をもって脅迫し、争議団からの裏切りを誓わせ、裏切らない仲間には何日も拘留して、打ち、殴る、蹴るの暴虐の限りを尽くした。さらに会社のケツをつついて警察で裏切りを誓わぬ者を解雇させ、しかも郵便局配達員の代理までして解雇通知の内容証明を取りついで配布している。・・・四谷警察署は日本紙業の手先と化しているのだ。四谷警察署を糾弾せよ!(争議団の地域ビラより)

(大量なスト破り) 
 会社は争議団の切り崩しの「出勤勧告状」をだし、3日から仕事の再開を計ったが、当日はわずか職制など15人が出勤したのみで、工場は全く動かなかった。しかし、会社は管理職を全員動員し、官憲と一体となって労働者の家に一軒づつ押しかけて圧力をかけるなど、徐々にスト破りの労働者が増えていった。7日59名、8日94名、9日116名が出勤し、最後には170名に達し、工場は再開された。
 
(検挙と解雇攻撃)
 ほとんどの仲間がスト破りで去って行き、残されたのはわずか約30名だけだった。その上、四谷警察は4名の組合員がスト破り労働者に暴行を加えたとして検挙してきた。しかし、30名は歯を喰いしばり頑張り抜いた。12月18日、会社はこのうち23名に解雇通知を内容証明で送りつけてきた。

(争議団代表が徴兵)
 全労働者中、170名が就業し、病気や帰郷した32名と現在争議中の解雇された23名ら30名。その上、争議団代表者が1927年1月4日から軍隊に徴兵され入営となり、闘いはますます困難を極めた。

(敗北)
 年末に会社は金一封600圓支給で片付けようとしてきたが、1927年1月18日午後三時、調停官立ち合いで労資は覚書をかわし争議は終わった。争議団が要求撤回と引き換えに1900圓支給で「解決」した労働者側の完全な敗北・惨敗であった。
覚書
一、労働者側からの要求は全部撤廃する
二、会社はすでに発表している23名を解雇する
三、解雇者一同に金一封(900圓)を支給する
四、社長より金一封(1千圓)を支給する

以上



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