上・評議会 神戸港内労働組合(1927年)
ポスター「健康保険料は資本家と政府に全額負担させろ!」大阪印刷労働組合(1927年)
神戸2万6千人の5分間ゼネスト 1927年の労働争議(読書メモ)
参照 「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋
「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃 社会評論社
(健康保険争議)
健康保険争議は、1926年から27年にかけて主に評議会が中心となり、日本紙業株式会社(東京)、東京銅鉄家具製作所(東京)、浅野セメント深川・函館、日本鑄造鶴見、旭紡績仙台工場、旭ガラス牧山工場(福岡)、新潟鉄工所土崎など全国で果敢にたたかわれた。https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/0e44790abcf5cf7e9b9bcab1dbbfe326
1927年1月から実施された健康保険法は、業務上の傷病の場合工場法にもとづく扶助では全額企業側が負担したのに、この法律では一般の傷病扱いとなり、労働者も費用(保険料)を分担となる改悪もあった。保険料を労働者・事業主の折半負担による労働者の傷病、分娩、死亡扶助金が給付された。しかし給付を受けるべき傷病事故も業務上と業務外の区別もなく、支給金の支給も180日が限度とされるなどまだまだその内容は貧弱なものであった。労働者の給料から強制的に保険料が差し引かれることへの不満も高まった。
総同盟は批判は加えつつ、まず積極的に加入して、その改善に努力しようとする態度を表明した。一方評議会は「健康保険法は、欺瞞政策の典型的なもので、労働者のもっとも苦痛とする疾病、負傷、分娩、死亡などに金を与えるという、労働者のもっとも釣られやすき題目をかかげ、その実多額の保険料を徴収し、自己階級の負担を労働者階級に転嫁せしむると同時に、さらに解雇による威嚇を容易ならしめ、かつ無産階級運動を財政的に妨害せんとする支配階級の奸策」だと、真っ向から攻撃し、「政府・資本家の保険料全額負担」、「保険給付の増額および範囲の拡大」、「保険組合の労働者管理」をスローガンとしてかかげた。
評議会はさらに、「この運動は、わが国無産階級当面の闘争目標たる"民主主義獲得運動"の一環として闘うこと」、「未組織および右翼・中間派大衆とを協同的に動員するために、工場代表者会議、工場委員会などの闘争組織を展開すること、この闘争過程において右翼・中間派幹部の被階級性を暴露して、大衆をかれらの手から切り離すことに全力をあげること」などを闘争方針とした。健康保険ストライキは、1926年11月から27年3月にかけて68件あり、うち評議会系が44件だった。
(1927年の主な健康保険争議と争議参加者数)
池貝鉄工所(東京)269人
池貝鉄工所分工場(東京)215人
ダンロップゴム会社(兵庫)52人
東京エナメル会社(兵庫)20人
大和田紡績今福工場(大阪)7人
東出鉄工所(兵庫)103人
能登製作所(京都)
神戸工場代表者会議(健康保険反対実行委員会)1月25日2万6千人による5分間ゼネスト
(工場代表者会議)
1927年1月9日、神戸地方評議会が川崎・三菱造船所などの労働者に呼びかけ、「工場代表者会議」準備委員会が開催され、実に96工場の労働組合、労働者が参加を表明した。1月16日、神戸第一回工場代表者会議には40余組合の代表者80名が出席、健康保険反対実行委員会を選出し、「1月25日を期して全市5分間ゼネスト」を決議した。そのとたんに臨監の警官から会議の解散を命じられたばかりか、出席者全員が検束されてしまった。
(神戸2万6千人5分間ゼネスト)
しかし、このような弾圧にもかかわらず、ゼネストに向けた神戸労働者の闘いは着々と進められた。市内全域にはポスターが貼られ、ビラ10万枚が各工場に配られた。25日全市2万6千人の労働者が5分間ストライキに決起した。
5月には第二回兵庫県工場代表者会議が開かれ、8月13日「解雇、工場閉鎖、賃下げ反対」の全市10分間セネストが120工場、約4万人により決行された)。
(8.13神戸10分間ゼネスト)
8月20日付け『無産新聞』によると、
「・・全市十分間ゼネラル・ストライキは、十三日午後二時を期して決行された。前日の朝から数万のビラが決行を告げて撒かれ、さらに十三日にはビラ、ポスター、壁新聞が全市の工場をうずめた。午後二時にいたると、各工場からどっと喊声があがり、モーターは止まり、ある工場では従業員大会が開催され、ゼネストの意義について演説がはじまる。自分の工場を飛び出して他工場の糾察隊つくられる。裏切り工場にはさらにビラが撒かれ、これも参加する。十三午後二時、参加工場実に百二十工場、参加人員四万を超え、神戸全市の一切の産業はピタリと止まった。この間全工場では解雇反対、解雇手当最低三ヵ月支給、賃金値下げ反対、最低二円五十銭要求、時間延長反対、八時間制実施、休業・工場閉鎖反対、失業手当即時実施の要求をかかげて、この要求に対して暴力的抑圧を加える警察政治、専制政治の執行人知事に対して抗争することを決議した。・・・」(「日本労働組合物語 昭和」大河内一男・松尾洋)。
(大阪)
大阪では1月29日健康保険問題をテーマとする大阪労働組合会議が開かれたが、大阪地方評議会の工場代表者会議開催の提案に対し、総同盟大阪連合会が反対し、組合会議から脱退を表明したため組合会議が分裂したが、大阪印刷労働組合などが大阪印刷工場代表者会議を成功させた(上のポスター)。
(資本と官憲の弾圧)
健康保険争議に対しては、資本と官憲の暴圧的弾圧が行われた。官憲は、運動の先進部分を徹底的に叩くという戦略であった。浅野セメント争議では会社側は暴力団による争議団襲撃と官憲による150名もの検束と争議団幹部を一気に大量解雇し、また日本鋳造会社争議では争議団員総検束が再三繰り返された。「(健康保険争議の)敗北させた争議の主要な力は警察力であった、と言ってさしつかえない(「日本労働組合評議会の研究」伊藤晃)。また、この頃から以前は目立たなかったビラまきに対する検束が一般的になったという(「同」伊藤晃)。