写真上・可児義雄
写真下・阿仁前田の「可児義雄君之碑」(秋田県森吉町)
秋田の小坂鉱山争議と可児義雄 1923年主要な争議⑪ (読書メモ-「労働年鑑」第5集1924年版 大原社研編)
参照
「労働年鑑」第5集1924年版 大原社研編)
小作農民の証言―秋田の小作争議小史 (1975年)
阿仁前田小作争議(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
秋田の小坂鉱山争議と可児義雄
1、小坂鉱山争議
藤田組が経営する秋田の小坂鉱山。1919年8月19日秋田県小坂鉱山労働3000名は賃上げを要求しストライキを行った。26日には3000名労働者が事務所に押し寄せ、鉱山側は労働者側の要求の大部分を受け入れた。小坂鉱山労働者は勝利した。(「1919年8月の労働争議」)
1923年7月17日、1500名小坂鉱山労働者は「賃金の値上、解雇手当の増額、病院の薬代の改正、公休日賃金支給」など17項目の要求をし、ストライキを敢行した。小坂鉱山の煙害で周辺農民の怨みの的であった大煙突の煙もすべて止まり全山が火を消したような静寂に包まれた。
この時、社長が大坂に出張中のため、治金課長池田謙三博士が労働者と対応した。治金学者池田博士は、鉱山労働者の特に過酷な精錬所の労働環境を改善させようと1909年日本最初の「8時間労働・3交替勤務制」を小坂鉱山の精錬所に導入したことでも有名であった。
19日、大阪にいる社長から、治金課長池田謙三博士に、「ある程度までは池田博士に委任する」と電報が届き、池田博士は早速以下の回答案を作成し労働者代表に示したところ、労働者側は歓迎しストライキ中の根拠地である劇場康楽館に博士ら課長を案内し、そこに居た1500名の労働者の前で池田博士は壇上に立ち、「余は誠意をもって事を処し、この提案をしたが社長ら重役が余の提案を容れない時は辞職の決心である」と述べた。こうして7月22日に争議は全面解決した。
池田博士の回答案
一、解雇手当は現在の二倍半
二、臨時手当は全部本給に編入
三、新年酒肴料男2圓、女1円、子供50銭
四、毎月1回の慰労休暇を与え本番工賃を支給する
五、病欠の時は小坂病院の診断書を添え臨時定額を支給する
六、下り金を生じる時は毎月の収入金より月賦焼却すること
七、新要求案の12、16は別に審議する
八、今回の争議の主謀者(が誰かは)は小生にはわからない(から処分はしない)
九、ストライキ中の賃金と手当は全額支給する
かくして小坂鉱山1500名争議は、「美しい」(労働年鑑)終結をみたのであるが、12月に入り、課長池田博士は本店詰めに左遷され、ストライキに関係した約50名の労働者は解雇された。1928年池田博士は藤田組を退職し、帝国大学で治金学者の教授となった。戦後大学退任後カトリックの洗礼を受ける。
2、農民の父と慕われた可児義雄
1923年からの小坂鉱山争議は当初、農民の煙害賠償要求運動として起こり、のちに農民と鉱山労働者の共同闘争の形をとったもので具体的には日本農民組合、日本鉱夫組合の連携という、公害闘争を労働者と農民が共闘で闘った画期的なものとなった。小坂鉱山には地元の多くの被害農民が労働者として働いていたことも労農共闘の大きな理由でもあった。
この小坂鉱山争議を指導したのが、可児義雄らであった。可児義雄は1894年(明治27年)9月10、東京浅草に生まれ、母の故郷岐阜県で成長する。大逆事件、冬の時代の1912年に代用教員をやめ、鉱山労働者となり労働運動に入る。1918年足尾銅山の争議で最初の投獄。保釈後1919年(大正8年)麻生久らと大日本鉱山労働同盟会創立に参加。小坂・別子などの鉱山争議や秋田県阿仁前田村(現・北秋田市)の小作争議を指導した。
3、小坂鉱山の煙害・鉱害事件
戦前の四大鉱害事件。足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)、日立鉱山(茨城県)、そして小坂鉱山(秋田県)。
小坂鉱山煙害は、1902年(明治35年)に開始された鉱山の銅製錬に伴う排煙に含まれた亜硫酸ガスに起因している。この煙害は新硫酸工場が完成する1967年(昭和42年)までの実に65年間続き、被害区域は秋田県北部の北鹿地方一帯約5万haにおよんだ。
可児は、1923年から浅沼稲次郎らと日本農民組合小坂支部の結成を指導し小坂鉱山との煙害賠償闘争を闘う農民の先頭にたった。1924年、藤田鉱業本社での直接交渉の結果、有利な賠償金を得ることとなった。可児が作った小坂鉱山煙害運動歌を農民の子供たちもこぞって歌ったという。
小坂支部の結成後、郡内では次々に日本農民組合の支部が結成された。可児が参加した1925年から始まる阿仁前田小作争議は、戦前日本の小作争議の中でも突出した激しい闘いの一つと言われた。地主側はありとあらゆる暴力的手段とりつつ裁判所、警察一体となって農民の闘いに襲い掛かり、そのため農民も武装し敢然と闘い抜いた。特に1929年11月27日、こん棒などで武装した警官隊約80人と地主側のならず者たちの自警団約30人は、農民幹部を逮捕するために五味堀の争議団事務所を暴力的に襲撃したが、これを迎えた農民約300名が投石などで激しく抵抗した。双方に多数の負傷者が出た。11月28日 この日も争いが続いたが、夕方頃にこれ以上の犠牲者が出ることを避けるため、可児義雄ら9人のリーダーが自首して乱闘はひとまず落ち着いた。可児義雄は1930年懲役2年の判決で獄中生活。出所後の1935年1月9日結核のため死亡した。享年40歳の若さであった。可児を悼む長い葬列の農民葬が行われた。農民は、可児を “農民の父”“現代の義民”と呼んだ。
4、小坂鉱山煙害運動歌 可児義雄作(曲、旧制一高の寮歌・ああ玉杯に)
1
ああ毒煙は地を蔽(おお)い
ああ毒水は河に充ち
幾星霜の昔より
豊に肥えし我郷は
血もなき鉱主の暴虐に
栄えし影は今いずこ
2
緑の山は赤く禿げ
田畑は荒れて実りなく
盛りし養蚕牧畜の
副業今は跡を絶ち
年月重ねいやまさる
悲惨の態や想うべし
3
幾度か立ちて戦いし
友の血汐は報われず
募りてやまぬ暴戻の
刃は今や村人の
頭上冷たくひらめきて
我等は立てり断末魔
4
知らずや友よ厖大の
鉱主の富はいたましき
数多の鉱夫を虐げし
貴き血肉の犠牲と
我が村人の骨けずり
搾り取ったる結晶ぞ
5
ああ憎むべき残虐に
目醒めて起てよ我が友よ
我等は寒く飢えたれど
尚団結の力あり
呪いと共に奮い起て
起つべき時は今なるぞ
6
老いも若きも幼きも
援け援けて諸共に
憎みは深き資本家の
牙城を衝いて圧制の
恨みを晴らし永久に
守れや友よ我郷を
5、阿仁前田の「可児義雄君之碑」(秋田県森吉町)
1935年(昭和10年)1月死去した可児を称える碑を建立しようと、農民たちは、その冬、集落の人が総出で阿仁川の大石を、そりで急峻な川より引き上げた。人々は、その大石を、「俺たちは負けないぞ! やるぞ! 」と、まるで神輿のように地主庄司の家の前は勿論、町中をひいて歩いた。(可児の下で戦った森吉町の三浦富治氏の談)