先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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7千名大ストライキ三池製作所争議 1924年主要な労働争議⑥ (読書メモー「日本労働年鑑」第6集)

2022年04月26日 08時00分00秒 | 1924年の労働運動

写真・会社の手先が大牟田市内で撒いた「反ストライキ」のビラ
市民にも「争議団の行商から買うな」と呼び掛けている

7千名大ストライキ三池製作所争議 1924年主要な労働争議⑥ (読書メモー「日本労働年鑑」第6集)
参照
「日本労働年鑑」第6集1925年版/ 大原社研編
「協調会」史料

三池製作所争議
 福岡県大牟田市、三井の三池製作所争議。1924年5月22日から7月5日の大ストライキ。17,549名中7,363名の労働者が決起した。

(5月)
 前年会社が行った賃金手当率3割値下げの発表いらい、労働者側は賃金の値上げを再三会社に要求していたが、1924年5月22日正午、三池製作所約2千名労働者が突如最初のストライキを挙行した。この製作所労働者の決起は、たちまち全山の各工場、各炭坑へと燎原の火のごとく拡大した。当初労働者の結束は固く、あらかじめ全員から闘争カンパを徴収し、会社からの解雇などの攻撃に備えた。各工場から代表と実行委員を選び、23日4か条の要求書を中山製作所長に提出した。
要求書
一 賃金の5割値上げ
一 共愛組合の撤廃
一 解雇手当は従来の10日分を30日分にすること
一 怠業者をクビにしないこと
 会社はこの要求を即座に拒否した。労働者側は、同夜は大牟田劇場で、各方面の応援のもと大演説会を開催した。この日、四っ山分工場の340名労働者もサボタージュ闘争に突入した。24日給料日のこの日も労働者は全員サボタージュ闘争続けた。会社は臨時休業を発表した。次第に労働者の中に硬派・軟派二派が生まれた。もともと動揺している軟派労働者の中に更に強い動揺がでてきた。青年団長の中橋某の動きもあり、遂に軟派側の意見が勝ち、夜9時中山所長に面会し、「要求全部を撤回し無条件で就業する」と通告したので、中山所長は喜び了解した。争議も終わったかにみえた。
 ところが26日職場では多くの労働者が「無条件屈服とは何事だ」と怒りを爆発させ、再びサボタージュ闘争に入った。あわてた中山所長が「6月1日の定期昇給日に色を付ける」と釈明したので、労働者側はひとまず引いた。しかし、この間にも宮之浦炭坑三池染料工場にも労働者の怒りの声が波及し、ここでもサボタージュ闘争が起きた。かつてない〈暴風雨〉が三井三池に近づいているのは誰の目にも明らかだった。

(6月) 
 問題の6月1日がきた。しかし、給料袋を開けた圧倒的労働者はみるみる失望し怒った。昇給した者は全員の三分の一のみであり、しかも昇給の額も、わずか三・四銭という極めて少額であった。たちまち職場に険悪な状況がうまれ、3日から再び大サボタージュ闘争に突入した。会社はまたもや工場を閉鎖し、当分の間の休業を発表した。
 4日、労働者側は、今度こそあくまで闘いを貫徹しようと決意を固めあった。争議団本部を設け、行商隊を大々的に組織するなど持久戦の覚悟を示した。新たな6か条の要求も決議した。
要求書
 一 現在の本給に1割を増し、かつ50銭を加えて本給とする
 一 退職手当を従来の10日分から30日分に増やすこと
 一 共愛組合の撤廃
 一 公傷入院中の給料の支給。不具疾病の場合千圓などの支給、死亡は2500圓を支給すること
 一 遅刻・外出は時間分だけ引いて一日と同一として扱うこと
 一 辞職願を即時許可すること
会社は即座に拒絶してきた。

 5日、四っ山分工場340名も早朝からストライキに立ち上がった。争議団はこの日よりストライキ中の生活・闘争資金調達のため、大牟田市内全域で大がかりな行商活動を始めた。「行商3日間で5日間のストライキ」体制を組んだ。各任務・各職場ごとに色別の腕章をつけて、極めて大がかりで組織的、秩序的に立派に闘い続けた。

(争議団色別腕章)
赤色 伝令
白色 三池製作所
青色 勝立炭坑
桃色 染料工場と大浦
黄色 四つ山炭坑
水色 萬田炭坑
  宮浦炭坑

(争議団行商部ー6月5日から18日までの報告ー)
職場名    参加日数 参加労働者数    売上金
三池製作所   14回     1,486名    9,368円76銭
宮浦炭坑(機械)    5回         1,216名    2,500円82銭
宮浦炭坑(その他)   7回         1,144名       2,461円03銭
萬田炭坑      8回            865名            1,791円31銭       
勝立炭坑    11回    1,592名            3,038円57銭
四ッ山分工場  13回    1,651名            1,303円15銭   
染料工業所   12回    1,860名            3,223円41銭
四ッ山炭坑   10回     106名      325円46銭
宮ノ原炭坑     6回         1,206名       1,570円88銭
勝立炭坑(機械)       3回        26名              37円63銭
勝立炭坑(独立系) 2回      16名       38円27銭
精錬所                    2回                                       不明
港務所       4回     226名    110円07銭
       計   97回    11,394名(延べ)    25,729円39銭 

 6日、争議団は大牟田市民に訴える以下のビラを配布した。

『親愛なる大牟田地方の諸君、私達はやむ得ず、二度ここに争議を起こすことになりました。私達は決して争議を好むものではありません。しかしご承知のごとく物価は非常に高いのに引きかへて、私達の賃銀は非常に低価であります。私達はいかに工面をしてみても、今のままでは食べて行くことさえ出来なくなりました。そこで先月貸銀値上げその他を会社に相談しました所、会社側では来月初め定期昇給日であるから、その折、何とか色を付けて呉れるとの意見でありましので、会社側の意見を尊重して六月一日まで待つことに致しました。しかるに六月一日は参りましても、会社は私達に向かってなんら誠意のある所を示しません。

 ・・・諸君現在私達の一ヶ月必要なものを切りつめて見ましても □十四圓十銭(米代) □三圓六十銭(薪三十把)口六十銭(醤油)□一圓五十錢 (味噌一貫匁) 口八十五錢(木炭反俵 ) □三十三錢 水道料) 一圓四五十銭 (野菜)□一圓二十銭 (魚代) □二十錢 (茶) □三十銭(砂糖百五十匁) □三圓(被服費)□八十錢(電燈料)□三圓(湯銭)□三圓(教育費)□二圓五十銭 (履物作業用共)口六十銭 (散髪) □三十錢(通信費) □三十錢 (共愛組合費) □一圓五十銭(酒煙草代) □三圓(非常費会社預金) □一圓(娯楽費) □五十錢(器具費) □一圓五十錢(雑費) □一圓五十錢(木物費) □五圓五十銭(家賃) □其他口合計六十圓六十八銭・・

となります、我々の家庭では月に六十圓なくては到底生活出来ないのであります、しかるに私達の貰つている給料は一日一圓内外ですから最低度にしてもそこに十七・八圓の不足を生じるのであります。皆様、私達も人間であります。教育が大切であるとすれば自分も勉強し、又子供にも本の一冊位は買って与えたいのが普通の親心です。しかるに朝から晩まで眞黒になって、薄汚い工場で働きながら、一家そろって楽しい活動見物等はおろか、その日その日の生活にさえも苦しまればならぬとは、皆様果して正常なる賃金を得ていると言えましょうか。』

 一方、会社側も、ストライキをつぶさんとして、大牟田市内において様々な団体名の「反ストライキ」ビラを次々とバラまいた。

 7日、会社は、争議園長山名千代吉ら9名の最高幹部をクビにすると製作所正門に貼りだした。第一次解雇攻撃である。この日早朝より、勝立炭坑の約300名が新たにストライキに突入した。萬田炭坑宮原宮の浦の各炭坑や染料工場にも労働者の怒りとストライキは拡大し、全山に波及する勢いとなつた。

 8日、宮野原炭坑約50余名萬田炭坑約60余名四つ山炭坑約120余名がストライキに突入した。さらに染料工場でも賃上げ5割増に加え、「有毒手当として2割増」「労災・公傷者・死亡へのそれぞれの手当増」を要求し、同時にストライキも決議した。

 会社は賃金3割値上げの妥協案を出してきたが、労働者側は納得せず、会社は全面休業を発表した。争議団は新富座にて2千名で争議報告大演説会を開き、前日解雇された9名の解雇通知を会社に叩き返した。
 10日、勝立炭坑のストライキは続き、また宮浦炭坑の労働者約300名と棹取約250名も要求を提出した。
 11日、三池全山に波及したストライキを一丸となって結束させるため、「労働同盟(総聯盟)」を組織し、聯盟総本部を設置し、新たにそれぞれの争議団の要求を10か条にまとめて総連盟として会社に提出した。
 12日、要求が会社から拒絶された宮浦炭坑労働者と棹取は12日からストライキに入った。また、三井のドル箱と言われている萬田炭坑も遂にストライキに参加した。大浦炭坑宮原炭坑も現場では、すでにサボタージュ闘争が拡がっている。
 13日には、洗鋼場労働者約40名亜鉛製錬所鉄工場約50名もストライキに突入し、炭坑の竪坑電車運転手100余名も自らの要求書を提出し14日からのストライキを決議した。14日には、宮原炭坑でも電気部・機械部・ポンプ部等の運転中約300名がストライキに入った。最後まで残っていた大浦炭坑も16日ついにストライキに加わった。こうして全山がストに突入したのだ。総数7,363名の大ストライキだ。
 この日争議団は大牟田市聚楽座において会社糾弾大演説会を催し、市民1千名がかけつけ争議団員の必死の訴えにカンパなどで応えた。

 20日、争議総本部団長の山名千代吉が突然争議団を脱退。政党関係が原因? (協調会史料には、同人の実兄が社員で会社側から買収され、本人が変節したとある)。
 
(市民有志の争議調停の動き)
 23日、大牟田岩井市長が、争議調停に動きだし争議団20名代表と会見した。新庄警察部長も大牟田市に来て争議団代表と懇談した。争議団代表は、一、被解雇者は出さないこと、一、スト中の賃金の支払い、一、賃金の1割値上げ等を主張した。
 
(四炭坑の総連盟からの脱退)
 23日夜、萬田・勝立・宮の浦・宮の原の四つの炭坑争議団が、会社に出頭し、「我々は総連盟から脱退した」と告げて、今後は会社と四炭坑争議団との独自交渉を申し入れた。また、今までストに参加していなかった宮の浦炭坑の採炭労働者が、この日新たにストライキに参加してきた。

(争議の解決)
 26日14時間に及ぶ交渉でついに午前4時、争議団代表20名と会社で以下の合意がなされた。その内容は、争議団の正式要求10か条には一切触れずに
 一、会社は、賃上げを時機をみて労働者側の意志に沿うように努力する。共愛組合は内容を改善して継続する
 一、本争議の犠牲者として会社側からは労働者をクビにはしないが、責任者として争議団の一部は自ら辞職する
 一、スト参加の労働者にはその期間の半分の賃金を家族の見舞分として支給する
というものであった。

 かくして27日より、製作所・大浦、四ッ山両炭坑・港事務所・亜鉛・製錬所は就業することとなった。しかし、この合意条件はあまりにも屈辱的だとする多くの労働者は、ストライキの継続を主張し、27日よりの就業を拒否した。

 27日、三池製作所は23日ぶりに工場正門を開いたが、合意条件に怒った大部分の労働者は出勤しなかった。聯盟から脱退した四炭山争議団との交渉も解決せず依然として全山の争議は続いていた。

 29日、聯盟から脱退した四炭坑の一つ勝立炭坑争議団はスト破りをしてかってに就業した。争議団の結束は乱れてきた。
 30日、炭坑聯盟は三池聯盟が会社と合意した条件で就業することを承認し、会社と午後11時に手打ち式を行い、かくして7月2日より全山・全面的に就業することとなった。
 7月3日、三池製作所の労働者もこの日入所式を行い、4日より全員就業することとなった。
 7月5日、最後まで闘い続けていた亜鉛精錬所蒸留部の250余名もこの日手打ち式を行い、こうして三井全7千名の大争議が終わった。



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