写真上から
日電社員組合蒐星会のビラ「一般俸給生活者に檄す」1924.8.1
「スト宣言」1924.7.31
「連帯決議」1924.8.9
会社糾弾演説会1924.8.10
三田の本社・工場
一人の脱落も出なかった日本電気(現NEC)800名の争議 1924年主要な労働争議⑦ (読書メモー「日本労働年鑑」第6集)
参照
「協調会」史料
「日本労働年鑑」第6集1925年版/大原社研編
日本電気争議
日本電気株式会社(現NEC)は、1899(明治32)年、最初の外資系企業として岩垂邦彦、W.T.カールトンらによって設立。
1924年当時の社会は、会社員、サラリーマン、事務員、公務事務員、教員等を「俸給生活者」「社員」と呼び、現場(筋肉)労働者とは一線を引いていた。東京芝区三田の日本電気株式会社には千名近い労働者がいたが、前年の大震災で労働者100余名が亡くなり、1924年には864名の労働者がいた。その中に、事務員、会社員など俸給生活者は204名いたが、彼らは日給扱いの社員であり、低賃金と差別に苦しんでいた(上のビラ)。会社は社員・事務員らの本給・日給を低く抑え、臨時手当で誤魔化すという「二重賃金」制度を長年続けていた。日電には日本労働総同盟の中心的組合関東鉄工組合三田支部(666名)があったが、事務員らは独自の組合「蒐(しゅう)星会」(200名)を組織していた。蒐星会は、自らを「俸給生活者の社会的地位に目覚めた組合」と位置付けていた。
(1月の解雇争議)
前年の震災直後に、会社は労働者に震災への補償として日給手当を男性労働者に6分、女性労働者に3分支給することを発表したが、労働者はこれに不服として増額を要求していた。
1924年1月21日、会社は震災による経営危機を理由に、永年勤続者で賃金が高い「社員」20名、労働者・職工118名のクビを切ってきた。解雇されたほとんどの者が関東鉄工組合の組合員で、その中には三田支部の支部長ら組合幹部30名も含まれていた。
20日、技工162名、職工544名は工場内倉庫に集合し、「解雇手当の増額」「会社積立金400万円の配分」の要求を決めた。また、全員から闘争資金を集めた後、解雇された者以外は就業についたが、現場はサボタージュ状態となった。
残留組の労働者は、「震災から間もない今の会社状況は同情ストライキを打てる状態ではない。(今ストをやると)全労働者の生活の基礎を危うくしてしまう。しかし、できるだけの運動やカンパ活動をしよう」と決めた。
同じ関東鉄工組合の田町支部(沖電気労働者中心)は、1月23日午前7時40分から日本電気会社正門にて日電労働者への檄文ビラを400枚配布し、日電労働者を激励した。
「◎日本電気従業員諸君
諸君の従業せる会社は無情にも我々の兄弟を百数十名馘首した。・・
諸君!! 諸君の仲間が馘首されたということは直ちに諸君自身の問題である。・・・諸君!! 同じ職を従事する沖電気の者として、今回の日本電気の卑怯不信の馘首に対して極度る憤激を禁じ得ない。もし、日本電気会社当局が反省せなければ、吾々には又吾々の戦うべき武器がある。・・・1月23日 関東鉄工組合田町支部」
1月25日、会社は「《御慶事》に争議が重なることを回避するため」という理屈をつけて、「当初の解雇手当60日分に、新たに30日分を付加して支給する」と連絡してきた。労働者側はこの回答を受け入れ、この時の争議は終わった。
(7月~9月日給社員への差別・二重賃金制撤廃の闘い)
7月、最初に闘いの火ぶたを切ったのは、日給社員で組織された組合蒐星会であった。関東鉄工組合も蒐星会の闘いを断固支持し、共にストライキを闘った。労働者と社員が協同戦線をとった闘いとして世間から大きな反響を呼んだ。この時のスト参加者803名(うち社員200名)。
7月24日、蒐星会要求を提出
嘆願書
一、現在支給されている米価補助金を本給に組み入れて支給すること(二重賃金の撤廃)
二、本給の3割増
三、退職手当を自己都合と会社都合同一とすること
四、公休日に加える。①震災追悼日②家族死亡の場合③臨時休業の場合
五、皆勤手当支給の改善
六、衛生設備の完備のこと
会社はことごとく拒絶してきた。
(現場労働者とサラリーマンの共闘)
関東鉄工組合三田支部は蒐星会要求を断固支持した。
7月31日、日給社員145名(うち女25名)全員と職工全員666名(女178名、男488名)は、工場において従業員大会を開催し、「会社側の不誠実な態度により我々の要求はすべて拒絶された以上、同盟罷業(スト)決行は已むを得ない」とストライキ宣言をした。8月1日午前10時、女子約100余名と男子約400名は本芝法音寺に集合し協議を重ねた。
(女性労働者)
8月4日、女性労働者約115名と25名の日給社員(女性事務員、交換手等)は協議し、「今回の争議は労働者と社員との合同にして、最後の勝負は我々の結束のいかんにかかっている。また女性は男性と同一の能力があるが、今日の社会状態ではすぐに平等の賃金を獲得させてはくれないが、団結の力によりなんとしても是正させねばならない。最後まで互いに応援し必勝を期す」と誓いあった。
(行商隊)
行商隊を決め、そのための宣伝ビラ1万枚を9日に三田全域に撤布した。行商隊は、第一・第二・第三分隊があり、一分隊を5班に分け、一班を5名以内とした。各分隊は、たすき「日電争議団行商隊」をかけ、幅一尺長さ5尺の白布の旗を持ちながら、化粧品、洗濯石鹸、マッチ、爪楊枝、菓子などを販売した。売上の四分を一を組合員の生活費に充て、残りを争議基金とした。
(支援)
関東鉄工組合は各支部の闘士を多数日電争議支援に派遣することを決め、闘争資金カンパや生活支援物資を集めた。町民も争議団に多くの援助を寄せた。
(沖電気組合などの決議)
8月6日、関東鉄工組合は「ストに追い詰められた日電会社が、総同盟関東鉄工組合系の沖電気、共立電機、川北電機、明治電機その他の会社に仕事を依頼してきた場合には、一斉にこれを断り、もしそれぞれの会社がその仕事を引き受けた時は、その会社の鉄工組合員は直ちにストライキを決行する」ことを決めた。9日にも同一産業の組合委員会を開き、再度確認しあった(上の「連帯」ビラ)。
10日、日電糾弾大演説会開催。入場料20銭、参加者800名(内女子60名の日電日給社員)で満員の盛況。入場できず会場の外にいた者約100名。日電争議団員や渡辺政之輔、可児義雄、春日庄次郎、浅沼稲次郎、赤松克磨、加藤勘十などそうそうたる10名の応援弁士が、「社員も資本家の奴隷なのだ。この争議の解決は憲兵や巡査を多く配置しても解決するものではない。勝利は我々労働者の結束如何による。我々はあくまで結束して最後の勝利を手にしよう」と日電経営者の横暴を激しく糾弾し、日電争議団を激励した。弁士の演説が終了するやいなや、三階の傍聴席にいた東京市電自治会の一組合員が立ち上がり、「緊急カンパ動議!」と叫んだ。直ちに会場係は帽子を持ち回り会場カンパを集めた。演説会終了後、労働者は会場付近で労働歌を高唱し2名の組合員が検束された。
12日、ストライキ団800名は、午前8時女性組合員を先頭に隊列を整えて、総同盟本部から目黒不動尊(瀧泉寺)まで〈慰安遠足会〉と称したデモを敢行した。
(一人の脱落者・裏切りもでない)
13日、会社糾弾大演説会で、争議団は「ストライキは、すでに十数日を経過せるも(争議団から)一人の裏切者も出ていない」とアピール。臨検警察官が5名の争議団員や応援弁士に「弁士中止」を命令。その後争議団幹部4名が警察署に招致され警告を受ける。
22日、争議団員200余名は工場に押しかけて示威行動を行った。弾圧してきた警官隊とたちまち衝突し数名が検束された。
(争議団幹部31名に解雇攻撃)
25日、会社は突如、争議団幹部37名のクビを切ってきた。
(組長宅訪問・暴行事件)
27日、争議団は9名を一隊とする重役宅訪問隊を組織し、各重役の自宅を訪問し面会を求めた。
31日、争議団と応援団組合員は、3人の組長宅を訪ね、玄関入口において組長の頭を投打し、怪我を負わせ逃走した。
(二重賃金制度撤廃)
9月13日、会社がようやく二重賃金制の撤廃を発表した。
(争議解決)
争議52日目、三田警察署長が仲裁に入り、以下の条件で解決した。
一、二重賃金制度の撤廃
一、賃金1割増給
一、退職手当の改善
一、会社都合による臨時休業には日給を払う
一、解雇された37名には、会社より5千圓を支給する
かくて50余日に及ぶ争議は解決し、9月23日から就業することとなった。
(労働年鑑のまとめ)
〈「本争議においては筋肉労働者と知識労働者、職工とサラリーマンとが協同戦線を張り、50余日の長きにわたって一糸乱れぬ争議を持続したという点において特に注目すべきものである。」〉