上・左は浅野製鋼所争議団が東京芝の浅野邸に押しかけた時の在京労組向けビラの手書きの写し(1924年6月20日)
〈労働者諸君に訴ふ〉
「・・・七百人の従業員は安い賃金と長い労働時間の下に苛酷極まる労働を強いられている。
・・・浅野氏は、人も知る財界の大立物で且天下の大富豪である。
彼の堂々たる大邸宅の語る如く巨万の富はその手中にあるのである。・・・」
浅野製鋼所争議 1924年主要な労働争議⑤ (読書メモー「日本労働年鑑」第6集1925年版大原社研編)
参照
「日本労働年鑑」第6集1925年版 大原社研編
「協調会」史料
浅野製鋼所争議
福岡県小倉市の浅野製鋼所。かねてより待遇問題で労働者の中に不満が高まり、1924年5月、労働組合結成の運動が始まった。6月6日、会社は組合加入を理由としてリーダーと目された労働者2名を突然クビにしてきた。7日、約400名労働者はストライキに決起し、九州聯合会の応援を得て、以下の13か条の要求を会社につきつけた。
要求書
一、解雇された2名の復職
一、時間短縮、8時間勤務として従来の時間増を本給に入れること
一、割増制度を三割以上とすること
一、賃上げ
一、解雇手当増額
等である。会社は受け取りを拒否した。
6月8日、ストライキ参加者は遂に500名を突破し、労働者は毎朝、5カ所の争議団本部事務所などに集合し、「出勤簿」に捺印して互いに結束を確認仕合った。工場は完全に止まった。9日給料支払日、警察と憲兵は物々しい警戒ぶりで脅してきた。
11日、争議団は互いに各自2圓を出し合い、行商隊を組織し持久戦に備えた。全市民に向けたビラ「市民諸君に訴える」を大々的に配った。
12日、警官憲兵立ち合いの下、争議団代表4名と古参職工1名は会社末兼専務と会見した。
13日、争議団はスト破りを阻止すべき門前でピケッティングを闘った。この闘いを破壊させようと警官憲兵は争議団員6名と応援者2名を検束してきた。
16日、この日会社から初めての回答があったが、ほとんどが拒絶回答であった。スト破りは以前の40名からこの日は120名と増えた。
18日、小倉市安全寺において会社糾弾演説会・ストライキ表明大会を開催した。300余名が参加した。弁士の熱のある演説の後、最後に決議文を朗読せんとした刹那、臨席警官から「解散命令」を受け、多くの労働者は怒り多数の検束者をだした。
20日、官憲憲兵の弾圧・圧迫と応援者の検束の中、スト破り・軟化者が続出した。
東京の浅野社長に直接面談しようと、上京した争議団代表10数名と東京の応援者300名が、芝の浅野邸に押しかけたが、弾圧してきた三田警察署の警官と乱闘となり10数名が検束された。
21日、争議団本部では、炊き出しをしてろう城することになった。
22日、小倉市の有力者4氏が、争議の調停に名乗り出てきた。23日夜、料亭松田で争議団代表3名と会見した。
争議団側は、
一、絶対に犠牲者(解雇など)は出さない
一、無条件の復職
等を提示し、調停者はこれを承認し会社と交渉したが、会社は最後まで2名の解雇撤回を拒み続け調停は暗礁に乗り上げたが、調停者と争議団が協議を重ねる中で、争議団側から「争議団幹部14・5名が自ら辞表を提出する。その代わり最初に解雇された2名を復職させる事」の提案があり、25日争議は全面的に解決するに至った。会社は辞表を提出した幹部に対して規定の退職金の他に、慰労金百圓を支給し、「ブラックリスト」には決して載せないと誓い、また他会社への就職斡旋もした。