●真宗大谷派
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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【嚴如】大谷 光勝(おおたに こうしょう)は、江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗の僧。法名は、「嚴如」(ごんにょ)。東本願寺第二十一代法主 。真宗大谷派管長。伯爵。
=生涯=
・文化14年3月7日(1817年4月22日[3] )、東本願寺第二十代 達如の次男として誕生。近衛忠煕の猶子となる。 文政6年(1823年)、東本願寺、両堂宇を焼失する。
・文政7年(1824年)、東本願寺、仮堂宇を立てる。
・文政11年(1828年)3月18日、得度する。院号を「霊心院」、法名を「逹住」、諱を「朗澄」と名乗る。長浜別院 大通寺と姫路別院本徳寺の住職を兼職する。 天保12年(1841年)4月6日、法嗣(法主後継者)である長兄・寶如が逝去。
・同年12月10日、寶如の逝去により法嗣となる。法名を「嚴如」と改める。
・弘化3年(1846年)5月22日、父・達如が隠退により、第二十一代法主を継承する。
・嘉永元年(1848年)12月16日 には、伏見宮邦家親王の四女・嘉枝宮和子女王を室に迎える。 元治元年(1864年)、禁門の変により仮堂宇が消失する。
・明治元年(1868年)、近代に入ると、親密であった東本願寺と江戸幕府との関係を払拭し、明治新政府との関係改善を図るため、勤皇の立場を明確にする。そのため、北陸や東海地方へ巡教・勧募し、軍事費1万両・米4千俵を政府に献上する。
・明治2年(1869年)、政府の北海道開拓事業を請け負うことを決定する。
・明治3年(1870年)、法嗣である第5子(四男)・現如(大谷光瑩)を北海道に派遣した。(⇒詳しくは「本願寺道路」の項を参照)
・明治5年(1872年)3月、華族に列せられる。
・同年9月、名字必称となり「大谷」の名字(姓)を用いる。
・明治12年(1879年)、焼失した東本願寺の両堂宇の再建を発願し、再建工事の着工を表明する。 明治14年(1881年)、宗教団体法の規定により、宗派名が「真宗大谷派」と定まる。
・明治22年(1889年)、現如に法主を譲り退隠する。法在職期間は、43年。院号を「眞無量院」とする。
・明治27年(1894年)1月15日、78歳にて示寂。
【歴代】
*大谷派における歴代の正式呼称に関する注意
歴代の留守職・法主・門主を「歴代門首」と呼称し、「大谷派御歴代」と総称するのが正式である。
親鸞のみ「宗祖」と呼称、「聖人」と敬称する。
宗祖親鸞以降の歴代は、「第○○代」と漢数字を用いて「代」で呼称し、「第○○世」と呼称しない。敬称は、「上人」を用いる。なお在職中は、「上人」の敬称を付さない。
例…「第八代 蓮如上人」・「第二十五代 大谷暢顯」
「※」は、大谷廟堂留守職・本願寺留守職のうち歴代に数えない者と、真宗大谷派門首代行である。
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【嚴如】大谷 光勝(おおたに こうしょう)は、江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗の僧。法名は、「嚴如」(ごんにょ)。東本願寺第二十一代法主 。真宗大谷派管長。伯爵。
=生涯=
・文化14年3月7日(1817年4月22日[3] )、東本願寺第二十代 達如の次男として誕生。近衛忠煕の猶子となる。 文政6年(1823年)、東本願寺、両堂宇を焼失する。
・文政7年(1824年)、東本願寺、仮堂宇を立てる。
・文政11年(1828年)3月18日、得度する。院号を「霊心院」、法名を「逹住」、諱を「朗澄」と名乗る。長浜別院 大通寺と姫路別院本徳寺の住職を兼職する。 天保12年(1841年)4月6日、法嗣(法主後継者)である長兄・寶如が逝去。
・同年12月10日、寶如の逝去により法嗣となる。法名を「嚴如」と改める。
・弘化3年(1846年)5月22日、父・達如が隠退により、第二十一代法主を継承する。
・嘉永元年(1848年)12月16日 には、伏見宮邦家親王の四女・嘉枝宮和子女王を室に迎える。 元治元年(1864年)、禁門の変により仮堂宇が消失する。
・明治元年(1868年)、近代に入ると、親密であった東本願寺と江戸幕府との関係を払拭し、明治新政府との関係改善を図るため、勤皇の立場を明確にする。そのため、北陸や東海地方へ巡教・勧募し、軍事費1万両・米4千俵を政府に献上する。
・明治2年(1869年)、政府の北海道開拓事業を請け負うことを決定する。
・明治3年(1870年)、法嗣である第5子(四男)・現如(大谷光瑩)を北海道に派遣した。(⇒詳しくは「本願寺道路」の項を参照)
・明治5年(1872年)3月、華族に列せられる。
・同年9月、名字必称となり「大谷」の名字(姓)を用いる。
・明治12年(1879年)、焼失した東本願寺の両堂宇の再建を発願し、再建工事の着工を表明する。 明治14年(1881年)、宗教団体法の規定により、宗派名が「真宗大谷派」と定まる。
・明治22年(1889年)、現如に法主を譲り退隠する。法在職期間は、43年。院号を「眞無量院」とする。
・明治27年(1894年)1月15日、78歳にて示寂。