鳥無き里の蝙蝠☆改

独り言書いてまーす

【日記】GW豪遊、そして切り替え

2017-05-06 21:43:57 | 日記

食べたいものを食べたいだけ食べて、酒を飲みたいだけ飲んで、気がすむまで騒いだ。お金と時間とエネルギーをフルに消費して、刹那的な快楽にひたすら向かい続けた。

それはもう紛う事なき刹那的な快楽で、それ以下でもそれ以上でもなく、文字通りなままの意味である。そこから生まれる何かがあるわけではないのでそのちょっとした時間の前と後ろで変わることも何も無い。

そのへんに放っておいた向上心と焦燥感を拾い上げてまた体内に戻す。以前より重みを増しているような気がして足がよろめく。後悔背徳感罪悪感も加わってなお重くのしかかる。

でもすでに意識は切り替わって快楽に向かおうとする心はすっかり鎮められている。

そこそこな年齢になってきた俺である。人生はきっとこういうサイクルの連続なのだろうと感じた。切迫感や焦りや使命感ばかりの日々から解放される瞬間は、短くとも訪れてくれるようになっていて、年を重ねるごとにその波を巧く乗りこなせるようになっていく。

昔から遊びと仕事をあまり明確に区別していない俺だ。物事は楽しいかつまらないか、合理的か非効率かで判断しているから、その呼称である仕事とか遊びとかいうのは単純な分類用の名称でしかない。友情や愛情とかも一緒で、呼称にこだわるから本質を見失うのだ。とはいえそんな俺も「働きたく無いでござる」の徒ではある。時間と労力を合成して金銭を得ているだけであり、その選択が合理的である以上は作業が苦痛だろうと働かざるを得ないだけなので、苦痛な作業をしなくて済むのであればそんなものは一切したくない。

遊びも同じで、相手に合わせることが対価に見合わないのであればそれは苦痛な作業である仕事と大差がない。もっと言えば、金銭を得るという長所がある選択肢に対して主に消費活動である遊びは仕事よりもタチが悪い可能性すらある。

このように、何を失い、何を得るか、で物事を見るようになると呼称なんてどうでもよくなるのは先述したとおり。そして何を得るかを重要視するようになると、学ぶことや知ることや記すことや磨くことに対する報酬回路が再配線されていく。言わずもがな、それは焦燥感や向上心の強さに比例して強化されていく。

稼ぎは少なすぎずあればあるだけ嬉しいが、自分の快楽追求度に見合う以上の過剰分を無理して稼ごうとは思うわない。少し余るぐらいで気づいたら貯まるぐらいあれば十分。必要なのはやる気と質だ。

誰もが快楽、あるいは幸福、または安心感だとか陶酔という同じものを求め、人間がそれぞれ自身の回路に従うだけである以上は、義務だとか倫理だとかを気にせずに好きに生きて良いものだと思っている。

相も変わらず主旨のわからん内容になりましたな。まあ日記なので問題無いか。

おーわりっ
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