private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第18章 2

2022-12-18 16:30:24 | 連続小説

 スタンドから見つめる観衆の目にも、2台のクルマはどれほど減速したのかもわからないほどのスピードのまま、ほぼ並列の状態を保ちながら1コーナーを旋回していく。
 ギアを落とした時に高回転になるエンジン音、摩擦音をかき立てるブレーキング音、そして引き裂くようなタイヤのスキール音がユニゾンとなって1コーナーに陣取る観衆に響いてくる。
 2台が連なって奏でるそれぞれのサウンドは、タイムアタックの単独走行では耳にすることはできず、ふたりのドライバーの闘争心も重なってさらに荘厳となる。
 誰もが息を飲み、そして間髪を入れずに声を挙げた。その音もまたスタンドを揺るがすほどの大音響となり、自らの行為に高揚していった。
 イン側のラインを有効に使い、アウトへはらみながらロータスを牽制して加速するオースチンに、行く手を阻まれ思うように加速できないロータスが後塵を拝するのを目にして再び歓声が上がる。
「オースチンだ!」「赤の5番が先だ!」見たままの言葉を発することで、スタンド全体で共通認識することが大切かのように我先に競い合い声に出した。
 誰もがスタートダッシュから1コーナー争いまでの、まさに火花を飛び散らせる対面対決に酔いしれ、それだけでもこのレースを見に来た価値があると、自らに心酔していった。
 甲洲ツアーズのピットは狂喜乱舞していた。身を乗り出した不破がナイジのホールショットを見届けると、権田と安ジイと交互に力強く手を握った。
 すかさず山間部の様子を見るためにピットのガレージルーフに向かおうと体を向けると、既にジュンイチやミキオがハシゴを登りはじめていた。
「こら、オマエら先走りやがって、オレに譲れ! いや、早く登って状況を報告しろ!」
 どのみち脚が悪くハシゴを使うことができない不破の叫びにミキオが応える。
「大丈夫です、まだ、ナイジが抑えてますから。うわあ、やべえ、ロータスのヤツ、ピッタリ後ろについてやがる。5cmと開いてないいんじゃないか」
 1~2コーナーでなんとかロータスを抑えこんだナイジは、すかさずミラーチェックを入れ、背後についたロータスの挙動を確認しようとする。
 最初に闘走した山道で抑えこんだ経験はあったとしても、リクオとの“追いかけっこ”のおかけで隅々まで知り尽くした公道とオールドコースとではわけが違い、コースの難易度も雲泥の差だ。
 まずは自分のクルマを前に進めることが先決で、ミラーに目をやるのは二の次となり十分にはいきとどかず、ロータスの挙動も思うようにはつかめない。
 マリが手伝ってくれているギアシフトにも、普段以上に意識が持っていかれる。あの時のように、後ろに目が付いたような走りの再現は困難であった。
 そしてもうひとつ、今までに経験したことの無い重荷がナイジには圧し掛かっていた。いつもと同じ気持ちで闘いに臨んでいるつもりでも、レースに関わる多くの人の業が、ナイジが尋常であることを許してくれない。
 ひとりで好き勝手に走っているときにはあるはずもない、スタンドから発生する空気の揺れや、ピットからの羨望を含んだ熱い視線と、タワーから見下ろしてくる多くの思惑がそこには漂ってくる。
 ナイジの預かり知らぬところでうごめいている私念が、走り出したナイジを追いかけてくる。それは今では身体の中まで浸透し、重石となり圧し掛かってくる。
 その時初めて、戦いにおいて外圧を受けている自分と相対していると気づかされる。ピットでスタンバイしていた時に吹っ切れたものはまだ第一段階でしかなく、真の圧力は走り出した状況において初めて身に降りかかってきた。
 さらに1コーナーを取った優位性から、このまま確実に勝利への流れに乗っていかなければという、視野の狭さが自からのカラダを縛り付けていった。
 虚栄心に翻弄される自分を振り切った後に来たものが、護るべき自尊心であることに、まだ経験値の少ないナイジにはそこまで頭と身体がついていかない。多くの過負荷がナイジの身体のあちらこちらにへばりつき動きを鈍らせていた。
 さらに、ナイジにとって予想外だったのは、挑む立場から受けの立場に廻ったことにより、前回のように先、先を読み、攻撃的に相手を抑えこむのではなく、相手のペースに合わせながらの走りに知らず間になっていたことだ。
 前回の教訓を糧に右にも左にも振らず、オースチンの背後にピタリと陰のようにつきまとうロータスは、なおのこと、いつ、どこから、どちら側に飛び込んでくるのか予測もつかず、それが余計にナイジの走りを小さなものにしていった。
 同じように抑えこんで走っているように見え、実は立場は逆転しており、ナイジは自分の間合いで思い切った踏み込みができなくなっていた。
 迷いをはさめばその時点での後退を意味し、思い描いていたレースプランにほころびを作り出す。先行は阻んだものの、思い通りに抑えこめていない状況でレースをコントロールしようにも、コースと自分との戦いに追われ、そこまで手が廻らない。
 1コーナーで頭を取り、山間部で抑えこむ。それが勝負に持ち込むための最低条件ではあるが、必ず勝利に結びつく絶対条件ではない。レースは生き物で刻一刻と変化していく動きに対して、ナイジは流動的に対処しきれていないでいた。
 不利な状況、囲まれた環境、手詰まりの心境。気持ちが萎えるには充分の組み合わせであった。いつ投げ出したっておかしくない中で、決してあきらめることを許さない存在が隣にいる。目端に映るマリは青ざめた顔で必死になってシフトノブに喰らいついている。絶対にロータスに先行を許すまいと。
――吐きそうなぐらい辛いくせに。こんな小さなカラダで受け止めている… ――
 引っ張り込んでおいて、自分が先に降りるわけにはいかない。ましてや、マリにあきらめるなと叱咤したのは自分であったはずなのに。
 もう一度、戦かえる状況に引きもどさなければ、これほどみっともないことはない。自分を戒めるナイジは、厳しい環境下での闘いの中でしか開花しない新たな能力にまだ気付いていなかった。近視眼的視野は広がりを見せ、マクロ的に広範囲に高度にまで拡大していった。
 いつしかナイジの耳は無音となり静寂に包まれだした。そのうちに本来オースチンが出しているさまざまな走行音は遠くにあり、それと引き換えに聞えるはずのない追走してくるロータスのロードノイズだけが伝わってきた。それがひたひたと背後に忍び寄り重苦しさをもたらしてくる。
――なんだよ、どういうことだ。ロータスの足音だけ聞えるなんて――
 未来はいつだって常識から外れていき、価値観はズレていき、予測も予想も単なる妄想と同義語になっていく。心の準備が伴わないうちに、ただ受け入れることしかできず、受け入れた上で従事することを選ぶか、まだ、上を目指すのならば瞬時に答えを出さなければならない。
 そこから遡って考えればロータスのロードノイズのみが耳に伝わったのも、その前兆だったのかもしれない。いつしか、ミラーでチェックできなかったロータスは俯瞰の位置から捉えられ、オースチンをもてあそぶようにテールトゥノーズで食いついている動きが映像として現れる。
 コースはもうすぐ登りが終わり、そこで、ロータスが仕掛けてくるシーンも浮かんできた。さらに、スタンドやピットの様子までもが。
――あれ、なんだよ。いいきなもんだぜ、リクさんたちはガレージの上に登ってのご観戦かよ。ああ、安ジイも権田さんも来てるのか――
 極限の闘いの中で、いっとき、闘いから身を離す自分がいるのがわかった。それが次なるステージへの助走として必要な時間であるかのように。

 背後からオースチンの走りを直視する安藤の目には、前回の押さえ込まれた時ほどのいやらしさや、手の施しようがないほどの巧妙なブロックが感じられていない。
 それどころか時折、隙さえ見つけることができた。特にシフトチェンジのタイミングは、スタートダッシュで見せたキレからは想像がつかないほど、まどろっこしかった。
「どういうワケか知らんが、遠慮はしないぜ。コッチもこれでメシ食ってかなきゃならねえんだ」
 眼光鋭く、安藤は狙ったポイントを逃すことはない。登り勾配の最終地点、そこから下りがはじまるため大きく曲がりながら道がうねっており、コークスクリューのような形状をしたコーナーとなっている。
 最頂点に登りきる手前でエアポケットにでも入ってしまったような挙動をするオースチンは、加速が鈍く安藤には止まっているように見える。
 インを押さえたコーナーリングのオースチンを横目に、狙い澄まして飛び込んでいった外側のラインを走っていくロータスの方が出足がいい。
 左コーナーのイン側から立ち上がろうとするオースチンと交差しながらクロスラインをとり、コーナー奥のクリッピングポイントから伸び足の鈍いオースチンを外側へ追いやりながらイン側を加速していく。
「遅いわ!」
 鋭くインを差したロータスが、その位置から力強く加速して自然にアウトに膨らんでいく。インを押さえられたオースチンにはコーナーの立ち上がりが厳しい、ロータスにアタマをねじ込まれているため、なすすべもなくラインを譲り渡し、その後も思うようにスロットルを踏み込めない。
 滑るようにコーナーを旋回するロータスは、完璧な方法でオースチンをオーバーテイクして見せた。文句のつけようのない美しい差し返しだった。
「どうだあ!」
 してやったりの安藤。思い描いたとおり、多くの観衆が見守る中で先行するオースチンをやりこめることができた。大声をあげて喜びを表現する。
 スタンドもそこで一気に盛り上がった。狙い済ましたパッシングはアプローチ段階から、観衆が持つイメージ通りでもあり、目の前に展開された映像は人々の感情の抑揚と同期することで、さらに力強く中枢を刺激し脳内で爆発する。
「あーっ!!」「やられたぞ!」
 落胆の声は甲洲ツアーズのガレージ上からだけ漏れてきた。大きな歓声があがるスタンドにかき消され、この場所だけがサーキット全体から異質な空間となった。
 その中でリクオはひとり冷静であり、その光景が予測できていた。できれば実現して欲しくなかったのに、負の予測は得てして当たることが多い。ここまでのナイジの走りは、先週目にした切れのある走りには程遠かった。
 タイヤもグレードアップしさらに鋭い走りを期待していたし、1コーナーまでの走りからもそれは間違いないはずだった。シフトワークが思うにままならないナイジの状況を知らないリクオの目に映るのは、なんとも歯切れの悪いコーナーリングで、あきらかにロータスに好きなように煽られている図であった。
 そうなれば第3者的な立場である観衆からすればどうしても、ロータスに肩入れするのはいたしかたがない。彼らが望むようなオーバーテイクが登りの頂点で見事に行われ、誰もがその結果に満足していた。それがどうにもリクオには歯痒く感じられた。
――どうしたってんだナイジ、こんな走りするためにレースする気になった訳じゃないだろ――
 嘆くリクオに、ジュンイチも心配気にことの成り行きを見守っている。あれだけ用意周到に準備してスタートした割には、1コーナー後の意図の感じられない走りは、これまでのナイジからすれば考えられない。
 それは同様に不破ら重鎮の面々も落胆が隠せないでいた。いまのナイジの走りには速い遅い以前に、戦いにのぞむ覇気が抜けているように見える。顔をしかめる不破に、安ジイが落ち着いた態度でたしなめる。
「大丈夫。ナイジもオースチンもエンジンが掛かってくるのは、これからじゃ。今はまだ少し歯車が噛みあってないだけだろ。前の時もそうだったはずじゃ、コツをつかむのに半周使ったって言ってたからな。それでもここまで押さえ込めてたんじゃ、残りで何とかするじゃろ」
 皆が一様に安ジイの言葉に肯いていた。何に対してのコツがつかめたのかわからないまま、前回そうだったからといって、果たして今回もそんなにうまく事が運ぶのか確証は何もない中で、妙に説得力のある言葉に今はただすがりつくしかなかった。
――たのむぞ、ナイジ。これで終わりじゃ目も当てられねエ――
 こぶしを握り締める不破の手に力が入る。