「誰だってそうなんじゃない。自分だけがなんの出逢いもないって悲観している。よかったじゃない、ホシノは信じることができるんだから。少なくともわたしのことはね。あとはもう自分も信じてなにをすべきか決めればいい」
そうか、そうなんだ。おれたちがいつでもしなきゃいけないのは、過去を慮ることでも、後悔を再認識することでもない。あの日の、あの時と同じように、ただ前進できることだけを考えていればいい。留まっていれば置いてかれてる不安感にかきたてられるんだから。
キョーコさんが望んでいたこと、ツヨシが夢見てたこと、永島さんが成し遂げたかったこと、マサトは、、、 どうでもいいか、、、 みんなそれぞれ、やらなきゃいけない状態と、やれる幸せのどちらが本当なのかわからなくなっている。
それを気づかせてくれた。おれだって勝負の場所に身を置いているのが嫌だったのに、もどれなくなったら虚脱感しか残らなかった。おれももう一度、走ることができれば、、、 勝負できれば、、、 どんなかたちであれ。
「みんなが力になってくれてる。やるべきことをやるべき時間におこなうのは難しい。誰だって後回しにしたくなる。期待と不安を感じながら。ホシノはこれまで、そうやって不幸をかいくぐる生き方をしてよかったことあった? これまでの積み重ねの経験を教訓にして、この先も生きていくだけでいい? もうやめていいんじゃないのかな、そういうの。これまでがこうだからじゃなくて、この先をどうするべきかって考えたら。もうホシノもわかってる。ほんの少しの偶然と、まわりの人達のお節介のおかげで」
そして朝比奈の後押しおかげ、、、 おれはこの言葉を深く受け止めれるのか、、、 朝比奈はきれいにオムライスを平らげるところだ。スプーンが軽やかに舞って最後のケチャップライスを絡めとり口にふくむ。スプーンはきれいになって唇のなかから出てくる。スラッとしたあごが動いて、長いのどを通っていった。
おれは冷蔵庫から冷やした麦茶をとりだし、コップにそそいで朝比奈の前に置いた。なんの因果か知らないけど、こうしてひとからひとへとつながる思いもあれば、どんなに望んでもつながらない思いもある。受け入れる側の思いだってそこに存在するから。
おれが受け入れられる状態になったのは、最初のきっかけが朝比奈だったからで、自分の欲望が先立っただけだからほめられたものじゃない。これが両親や先生では、反発してしまい無駄に体力と時間を削っていく。
世のオトコたちはトリコになったオンナのために命を削っていく。それって実は本当の自分をごまかすための隠れミノなんじゃないか。素直の自分を見せるのは恥ずかしいし勇気のいることだ。
「わたしたちはいつだって映画やドラマ、漫画や、それに小説で見せ続けられている。主人公たちは問題を抱かえこみ、葛藤し、争い、愛し合い、そのなかで自分の進むべき道を見つけ出し、最後は大切な人の窮地を救って幸せを手に入れる。脚色は多岐にわたるけど大筋は変わらない王道みたいのが。それがいつしか現実を生きる下地になってしまう。そう、知らないあいだにね」
朝比奈は両手でコップを持ち、のどをうるおした。コクっとひとつ音を鳴らす。コップの水滴がついた手をハンカチで拭いた。
「サブリミナル効果とかいって、映像のあいだにコーラとか、ポップコーンとか見えないコマとしてはさみこむと、それが欲しくなるなんてハナシがあったけど、それは本質を隠ぺいするためのスケープゴートにしか過ぎない。本当に危険なのは恋愛や人生の行動指針がひとびとのこころに沁みついて侵されてしまい、模倣が正だと信じてしまうこと。それで相手も喜び、自分も主役として責務をまっとうできると勘違いしてしまう」
机に置いたコップのしずくが垂れて、大きなつぶになりテーブルにまで届きシミっていった。よくみるとテーブルはキズだらけで、年季が入っているのが知られる。そりゃそうだおれのものごころがあるうちから使ってるんだから。あのキズも、このシミも汚れもおれがつけたものだ。
「人の人生を描いた物語が、現実の人々に影響を与えはじめ、こんどは物語がひとを操りはじめてしまう。これが本当に自分が望んだ人生だって誰も疑うことなく、そうやってひとびとの生活に影響をおよぼすことって多い。実際に」
おれがポルノ映画を観て、そのとうりにすれば女の子が喜ぶと思っているのとおなじことか、、、 かな?、、、 朝比奈は麦茶を飲みほし、手を合わせてあたまをさげた。なにに対してのごちそうさまなのか、、、 おれの例えのオゲレツ具合、、、 とか。
「ひとの思いも、ひとりではなんともならない。どんなに正しいと思って発言しても、行動しても、最初はただの変人にしか思われない。いまの現状に満足している人、これ以上悪くならなければいいと思っている人。一度便利を手に入れたひとたちは、もう二度ともとの世界には戻れない。子どもが読むような童話だって読みようによっては、そんな示唆を感じさせてくれたりする。たとえばムーミンとか」
えっ、そこにつながるの、、、 朝比奈も読んでたんだ。ムーミン、、、 そりゃそうだよな。朝比奈だってこどもの頃があって、おれと同じような時間を少しは過ごしてきたはずだ。その理解力に大きな差があっても、本や漫画を読んだことに変わりはない。
「子供向けの物語って、その実はかなりシビア。ダブル・ミーニングとしてとらえることもできる。昔の創作者は、お上の検閲を通るように、当局の目を逃れるために、子供向けの本に本当に伝えたいことを潜めて作品を送り出すようにしたとか。こういう意味にとれるというのは、どのようにも操作できる。読み解けた人にだけに語られる話しもある。だからそれも含めて国家の管理のなかに組み込まれている。なんにせよ毒抜きは必要なのよ」
はて、ハナシが別のところに行ってしまったような。そうでもないのか。やっぱり脳細胞がおれよりキメ細かい朝比奈にはおれより多くのものが見えて、たえずそのアタマで処理し続けているみたいだ。
おれたちがどんなに裏をかいて、してやったりと悦に浸っていても、それもすべて織り込み済みってのはよくある話で、それを仕掛ける側も、仕掛けられた側もどのみち誰かに操られているのはかわらない。そんなのをこども向けの物語に仕込ませてどうしようてんだとか、深読みしてもそれ自体が踊らされているにかわりない。
「だからね、物語をそのまま受け入れたり、ひととおなじ観点てみたりすればそれは鑑賞しているのではなく、干渉されているだけ。見て楽しむんじゃなくて、未来を制御されている。わたしたちは、食べ物があるうちは文句をいわないものなのよ。どんな労働を強いられても、権力を振りかざされても。まともに食事ができるうちは、争いは起こらない。それが究極の市民統制。その食べ物がなんであってもね」
スプーンを皿にこすり付けて嫌な音をたてないように気を付けながら、おれもオムライスをさらえた、、、 腹が満たされれば、お次は性欲を満たしたくなるのがオトコのサガ、、、 食事ができるありがたみをまだ理解していない。
「食べ終わったかしら?」
母親がたたみ終わった洗濯物を持って二階から降りてきた。カゲから見ていたぐらいのいいタイミングじゃないか。
「ごちそうさまでした。すごくおいしかったです」
「あら、朝比奈さんのお口にあってよかったわ」
朝比奈はすかさず、食べ終わって空になった皿を重ねて、シンクに運んだ。そのまま、下味に何を使っているのかとか、隠し味はどうとか、母親に訊くもんだから、それがうれしいんだろうけど、いろいろと調味料を指さしたりして説明をはじめた。
ウチにおんなの子供がいればこんな風景もよく見かけるんだろうな。おれがおとことで、夜中にラーメン作るぐらいしかしないから、母親も自分の技量を見せる場面もなく、朝比奈には迷惑かけたかもしれないけど、母親は幸せそうだ。
たがいに引かれあったのか、偶然のすえか。求めるものが手に入ってわかることも、手に入れてわかることだってある。それがままなれば誰も苦労しないんだろうけど、ままならないから嬉しかったり、悲しかったりも自分の許容を越えるときがあり、生への喜びにつながっていくわけだ。
それがおれたちの人生で最初から決まっていた感情だとしても、、、 なんて、国家どころか朝比奈の統制に組み込まれている、、、 おれ。
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