ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

映画「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を観た

2024年07月23日 | 映画

映画「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を観た、2024年、132分、アメリカ、監督グレッグ・バーランティ、原題Fly Me to the Moon

TOHOシネマズ日本橋で観たが、今日が封切初日、昼過ぎの放映だが結構お客さんは入っていた、中高年が多いが若い人もいた、シニア料金で1,300円

1969年、アメリカ。人類初の月面着陸を目指す国家的プロジェクト「アポロ計画」の開始から8年が過ぎ、失敗続きのNASAに対して国民の関心は薄れつつあった。ニクソン大統領の側近モー(ウディ・ハレルソン)は悲惨な状況を打開するべく、PRマーケティングのプロであるケリー(スカーレット・ヨハンソン、1984年生れ)をNASAに雇用させ、彼女のアイディアで次々と思い切った宣伝施策を実行していく。

真面目なNASAの発射責任者コール(チャニング・テイタム、1980年生れ)はそんな彼女のやり方に反発するが、更に驚天動地の施策が計画され・・・

以下、ネタバレ注意

ケリーの指示で実施された施策の中には、とんでもないものもあるが、いつまでも成功しないアポロ計画の予算を削減して他に振り向けると主張する議員をうまく説得して逆に恩を売るなどの立派な施策もある。

そして、失敗した場合に備えて、月面着陸の大規模な模擬セットを作り、そこで撮影技術を駆使して着陸のフェイク画像を放映する準備をする、というとんでもない施策が出てくる

この映画を観た感想を述べてみよう

  • この映画は、半分実話、半分フィクションである、そして性格が正反対なケリーとコールのラブ・ストーリーであり、また、コメディーの要素もある映画である。このコメディーというのは、例えば、劇中頻繁に出てくるコールが毛嫌いしていた黒ネコが最後に面白おかしく大活躍するからだ
  • アポロ月面着陸がフェイクだったという陰謀論は前からあったそうだが、知らなかった
  • この映画で取り上げたのはアポロ11号であり、人類は歴史上初めて地球以外の天体の上に降り立ち、船長ニール・アームストロングは「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind)」という有名な言葉を残した、この映画の中でも出てくるが、確かに感動する名文句であった、よくこんな素晴らしいフレーズがとっさに出てくるものだと感心する、ただ、事前に用意していたとの話もある
  • コールを演じたチャニング・テイタムは知らない俳優だったが、ケリーを演じたスカーレット・ヨハンソンはだいぶ前に東京を舞台にしたロスト・イン・トランスレーション(2003、米)やマッチポイント(2005、英)を観て知っていて好きな女優だ、今回久しぶりに彼女の映画を観た、今回は、彼女のグラマーなスタイルがやたらに強調されるコスチュームで見ている男性陣を大いに刺激したと思う

  • 映画の前半は退屈で眠くなった、何とか我慢していたら、後半が面白かったので何とか2時間ちょっと寝ないで済んだ。
  • 最後は万々歳で終わるところがいかにもという感じ、月面着陸は成功、陰謀論は真実に負ける、これがアメリカなのでしょう、単純と言えば単純だ

楽しめた映画でした


映画「大いなる不在」を観た

2024年07月15日 | 映画

映画「大いなる不在」を観た、浦和のユナイテッドシネマでシニア料金1,300円、チケット購入はIT化されてなく遅れているなと思ったが、年齢を証明するものを見せろと言われて感心した。テストベースのチェックかもしれないが実施していないところがほとんどなので、これには納得した

この映画のタイトルは1964年のフランス映画「かくも長き不在」を思い出させる。戦争から夫が帰還しないまま長い年月が過ぎたとき、妻(アリダ・バリ)の営むカフェの前に夫と思われる男が毎日通り過ぎるようになるが、彼は記憶喪失になっていた、映画の中で男が口ずさんでいたのが「セビリアの理髪師」のある一節、妻はカフェのジューク・ボックスにあるセビリアの理髪師のレコードをかけて夫の記憶をよみがえらせようとするが・・・確かそんな映画だった、もう一度観たくなってアマゾンプライムで調べるともう見れなくなっていた

さて、「大いなる不在」であるが、この映画は、2023年制作、133分、監督は近浦啓(1977)、映画の内容から来ている人は皆、同年配の自分の老後を心配していそうな人たちに見えた。高齢化、少子化社会の問題点をえぐった映画は今後とも増えるでしょうね

ただ、先日もNHKのクローズアップ現代でおひとり様の死後の手続きを代行する会社の実態を取り上げた番組を見たが、この手のものを見ると、暗澹たる気持ちになるのが難点だ。

オフィシャルサイトによるストーリーの説明を若干補足して引用すると

「小さい頃に自分と母を捨てた元大学教授の父の陽二(藤竜也、1941生れ)が、警察に捕まった。連絡を受けた息子の卓(たかし、森山未來、1984生れ)が、妻の夕希(真木よう子、1982生れ)と共に久々に九州の父の元を訪ねると、父は認知症で別人のようであり、父が再婚した義母の直美(原日出子、1959生れ)は行方不明になっていた。卓は、父と義母の生活を調べ始めるが・・・

父と義母の間に何があったのか?すべての謎が紐解かれた時、大海のような人生の深みに心が揺さぶられる、サスペンス・ヒューマンドラマ」

ストーリーの補足も含めて、観た感想を述べてみたい

  • 1回の鑑賞で全部を理解できていないが、この映画は日本の映画にしてはめずらしく、結論のはっきりしない、何となくもやもや感の残る、観る人を考えさせる映画だと思った
  • その原因の一つは、再婚した直美がなぜ陽二のもとを去ったのか、という点だ、私の印象では、陽二の認知症が進んできて、ある時、一緒に出掛けて別々に買い物をして直美が買い物を先に済ませて陽二が終わるのを待っていた時に発作を起こし倒れた、その時、戻ってきた陽二は、それに気づかず直美がいないと思うや、すぐに自宅に帰ってしまった、これを直美は倒れていながらも見ていた
  • また、その後、直美が故郷で入院して療養しているとき、直美の妹が陽二の家に住み込みで世話をに来て、陽二から乱暴されケガしたことも原因か
  • 息子の卓が最後の方で直美の故郷を訪ね、直美の妹に会い、父の無礼なふるまいのお詫びをしたとき、妹はなぜ卓を直美に会わせようとしなかったのか、その時、既に直美は亡くなっていたのか、直美が砂浜で海に向かってどんどん歩き進む場面があるがそれは彼女の死を暗示していたのか、それとも・・・
  • オフィシャルサイトには、「手探りで父という謎を探っていく息子の心情を、細やかな表情の陰影で表していく」とあり、息子の卓が父がどういう人だったかを、義母の残した日記に張り付けてあった父から義母への手紙などを読んだり、義母の実の子供と話したりして掴もうとする、その結果、「父と義母の間に何があったのか?すべての謎が紐解かれた時、大海のような人生の深みに心が揺さぶられる」とあるから、父と義母との間に何があったのか分かったのだろうか、私にはよくわからなかった、サスペンスと言っているのはこういうところがあるからか?
  • そして、卓は陽二を許したのだろうか、そこもはっきりしないように思ったがどうだろうか、映画の中では最後の方で老人ホームか市役所の職員に曖昧にしていた陽二に延命治療を受けさせるかどうかについて、「なるべく寿命が長くなるようにしてくれ」と回答する場面が出てくる、この時の卓の表情を見ると陽二を許しているようにも思えるが、点滴と胃ろうで延命させるのは苦しんで死んでもらうためだ、ともとれる、観る人が解釈していい、ということか

  • 夫や妻を捨てて、他の人のもとに走った人は、世を憚って生きていくものだというのは昔の話なのだろうか、例えば、漱石の「それから」、「門」などのように。しかし、この映画では陽二は栄達する、その代わり最後は呆けて再婚相手に逃げられ、老人ホームに・・・
  • この映画がすっきりと理解できないのは、物語が時系列で進まないからだ、現在と過去が交互に映される、よくある手法だが、若干混乱するかもしれない
  • 陽二は大学教授として栄達したが、純情でもあった、むかし好きだった女が忘れられず、お互い結婚もしたのにまだあきらめきれない、こんなことがあるのだろうかと思った。お互いの別れた配偶者はどうなったのだろうか、陽二が捨てた最初の妻と卓の面倒はちゃんと見たのだろうか、それもわからなかった
  • 純情とは怖いものだ、と思った。普通は、年齢を経て、若い時の俺は純情だったな、と回想するのが普通だと思うが、そうではない人も当然にいるのでしょう。今の若い人がこの映画の陽二を見たらどう思うであろうか

良い映画でした、監督の実体験をもとに製作した映画であるとの説明なので、リアルさが出たのだろうが、こういう映画を作った近浦啓監督の腕はたいしたものだと思った

さて、この日映画を観たユナイテッド・シネマだが、浦和駅前のPARCOの6階にある。このPARCOは内装がすごくきれいで洒落ていた。そして映画館があるフロアーからは眼下に浦和駅と駅前が見下ろせ、景色が非常に良かった。

そして、ユナイテッド・シネマの内部も立派な内装になっていたが、座るシートの背中が後に傾きすぎて座り心地が悪かった。座り心地は個人差があるだろうが、映画スクリーンは座席より下の方に見えるが、シートは後方にかなり傾いているのはおかしくないかと感じた。

このPARCOのビルであるが、8階にさいたま市の中央図書館が入っており、映画の帰りにちょっと寄ってみた。私の自宅の近くにも市の立派な図書館があるが、こちらも非常に立派な図書館であった。新聞や雑誌はほとんどのものが置いてある。私も最近は、読みたい記事がある文芸春秋、新潮、文春などは立ち読みではなく図書館でゆっくりと読んでいる

楽しめた一日でした

 

 


映画「テイキング・サイド/ヒトラーに翻弄された指揮者」を観た

2024年07月11日 | 映画

映画「テイキング・サイド/ヒトラーに翻弄された指揮者」を観た、アマゾンプライムで追加料金なし、2001年、イギリス・フランス・ドイツ・オーストリア・ハンガリー、110分、監督サボー・イシュトヴァーン、原題Taking Sides(どちらか一方を選ぶ、Google直訳)

第二次大戦後、ニュルンベルグ裁判が始まってまもない頃、米軍少佐(ハーヴェイ・カイテル)はベルリンフィルの指揮者フルトヴェングラー(ステラン・スカルスガルド)を糾弾すべく、彼とナチスとの関係を調査する。多くの音楽家がナチス政権に抗議しドイツを離れるなか、国内にとどまり指揮活動を続けた男は、果たしてナチスの凶悪行為を憎む米軍の少佐の激しい追及に耐えうることができるのか・・・

フルトヴェングラーがナチの戦争協力者として糾弾されたことは知っていた、中川右介著「カラヤンとフルトヴェングラー」(幻冬舎新書)を読むとこの間の経緯に詳しい。以前読んだが、詳しいことは忘れたので、映画を観る前に関連するところだけを読もうと思ったが、ほとんど全編この時代のことを書いた本なので、本当にざっと目を通してから映画を観た

映画を観た感想を述べてみよう

  • 米軍によるフルトヴェングラーに対する調査において米軍少佐は「あなたはナチスがユダヤ人虐殺をしていたのを知っていたのになぜナチに協力したのだ」と詰め寄る。しかし、そもそもニュルンベルク裁判や東京裁判は裁判の名に値しないし、裁判だとしても米軍に裁判員の資格はないだろう、彼らも重大な戦争犯罪(非戦闘員に対する原爆投下、空襲)をしているからだ
  • この映画を観ると、結局フルトヴェングラーはナチに協力したとした者として非難されている。それはそういう面はあるだろうが、もし自分がフルトヴェングラーだったらどうしただろうかと考えると、なかなか難しいなと思った。
  • 中川氏の本を読むと、「フルトヴェングラーは戦時下にあって母国の芸術家の庇護者になろうとしたのは疑いもないが、結果的にはナチ体制をも庇護したとみられてもやむを得ない」と述べている。ただ、これには映画でも出てくるがいろんな要因があったことは考慮すべきだろう

  • ナチはフルトヴェングラーの利用価値を認めてある程度の自由を与えた、それをフルトヴェングラーは自分がナチのいろんな要求を拒否したことの成果だと勘違いし、亡命しようと考えなかった、なぜ亡命しなかったのかはこの映画の中でも中佐から追及されているが一つの大事なポイントではあろう
  • 中川氏は、フルトヴェングラーはナチの宣伝塔としての役割を十分すぎるほど果たしたが意図的ではない、彼がユダヤ系音楽家たちの擁護をしていたのは事実だし、ヒンデミット事件で国家と党に反旗を翻したこともあった、と書いているが、結局この映画の副題の通りヒトラーに翻弄された、利用されたのでしょう
  • 更に中川氏は、フルトヴェングラーの性格における致命的な欠陥の一つは優柔不断なことだった、と述べている。例えば、内務大臣の主治医の奥さんから、彼の命が狙われていることを知らされても直ぐに亡命しようしかなった、そして、この映画の中でも、占領軍にもリベラルな人もいて彼を擁護する人もいることが冒頭述べられるし、軍需相が彼のコンサートのあと自宅を訪れ、亡命を勧めている。それでも決断できなかった点は確かに優柔不断だったのだろう
  • 中川氏によれば、アメリカでは亡命しないフルトヴェングラーやカラヤンへの風当たりが強かったが、ドイツやオーストリアでは亡命した者への風当たりが強かった、亡命しなかった者はナチのもとで苦労をし、戦後はナチに協力したとの汚名を着せられた、それに比べれば亡命した人のほうがどれだけ楽だったか、亡命したエーリヒ・クライバーは戦後ウィーンに帰還したが冷ややかに迎えられ、フルトヴェングラーの復帰は歓迎された

  • この映画の最後に、少佐がいくつかの顛末を述べる、曰く、フルトヴェングラーは最終的には無罪になった、しかし、以後アメリカでは指揮できなくなった、自分は彼の名声を十分傷つけた、私は正しいことをやった、と。なんという傲慢さだ、結局有罪でも無罪でもどっちでもいいのだ、名誉を貶めれば。どこかの国の左派新聞と同じだ、いい加減な根拠で騒ぎ、批判対象を貶める
  • 少佐曰く、フルトヴェングラー亡き後、ベルリンフィルの常任指揮者になったのはK(カラヤン)だ。これが意味するとことは何か? 中川氏によれば、カラヤンも亡命しなかったし(両者とも終戦直前には亡命した)、彼はナチ党員であったがフルトヴェングラーはナチ党員ではなかった、そして、両者ともナチに結果的に協力したことを反省していない
  • フルトヴェングラーはいまだに避難されるがカラヤンは非難されることも少ない、ただ、亡命という点ではフルトヴェングラーは亡命先もチャンスも十分あったがカラヤンはなかった(それだけまだ大物とはなっていなかった)、という差はあるだろう。
  • 映画の中で、フルトヴェングラーが指揮した演奏終了後、ヒトラーが観客席から歩み寄り、フルトヴェングラーと握手する映像が写される、その後、フルトヴェングラーが左手に持っていたハンカチを右手に持ちかえるところも写される。これは何を意味しているのか?・・・ヒトラーと握手した右手を拭い、せめてもの抵抗の姿勢を示したのか?
  • この映像ほどナチの宣伝に利用され、フルトヴェングラーの名誉を傷つけたものはないだろう。中川氏の本によれば、この時ヒトラーが来るとは知らされておらず、突然現れたため指揮を投げ出すわけにもいかず、さすがに握手を断る勇気もかった。映像で見たのは初めてだが、フルトヴェングラーがいかにも「困ったな」という表情をしているように見えた。ヒトラーのほうが上手だったと中川氏は述べているが、その通りだろう

いろいろ考えさせられる映画だったが一筋縄ではいかない難しい話である。なお、最終的な非ナチ化審理ではフルトヴェングラーもカラヤンも無罪となった


映画「裁きは終わりぬ」を観た

2024年07月09日 | 映画

映画「裁きは終わりぬ」を観た、アマゾンプライムビデオ、1950年、仏、106分、監督アンドレ・カイヤット、原題JUSTICE EST FAITE(正義は終わった)、モノクロ。

ヴェネチア国際映画祭1950年11回金獅子賞(最優秀作品賞)、ベルリン国際映画祭1951年1回金熊賞

薬学研究所に勤めるエルザは、愛人となっていた所長のレモンがガンで助かる見込みがなく、安楽死を頼まれ、殺してしまう。そのために裁判にかけられるが、7人の陪審員は有罪4人で多数となり、エルザは5年の刑を受けることになる、このことの意味を問う作品

予習なしで1回観ただけでは内容をきちんと理解するのは無理だろう、私は今回2回観てある程度理解したが、まだ不十分であると感じる、幸いプライムビデオなので必要な個所を何回も観なおせるので何とかなった。

ストーリーの補足を少しすれば(ネタバレ注意、ただネタバレで観ても十分面白い)

  • 判決は多数決だ、これが結構精神的にはきついのではないか、全員一致ならまだ気が楽だ
  • 7名の陪審員はそれぞれ家庭や日常生活で問題を抱えている、宗教も異なる、陪審員の審議の過程でそれぞれの陪審員の抱えている問題や思想や思考方法などが描かれ、彼らの最後に出す有罪、無罪の評決の間接的な説明にもなっているうまいストーリーの運びだ
  • 陪審員の審議で問題となった論点は
    ①殺された被害者が医者から助からないと言われたため、安楽死を希望し、文書も残してエルザと約束した点
    ②被告は被害者が病気で苦しんでいる間に別の愛人ができて、その逢瀬が目撃された翌日、偶然被害者が苦しみだしたので致死量のモルヒネが投与された点
    ③被害者には3500万フラン?の遺産があり、死ねばエルザに相続権がある点、などである
  • 裁判ではエルザの愛人が証言に立ち、エルザはまじめであり、安楽死させてくれという被害者の希望を忠実に実行すると犯罪になり自分と会えなくなってしまう、そんな約束は破って自分と二人で逃走すればどんなに楽だったか、二人が結ばれれば金など要らない、自分たちには十分な稼ぎがあった、約束をまじめに守った結果、有罪になるのはあまりにひどい、と訴えた
  • 陪審員の一人は女遊びが好きで、裁判中、捨てた女から付け回され、もう自殺すると言われていたのを無視していたら、本当にピストル自殺してしまったという連絡が入ったが裁判中の陪審員には知らせることができなかった、この陪審員は有罪の主張をしたが、この事実を知っていれば無罪を主張し、判決が逆転したかもしれないと悔やむ
  • その他、最後の陪審員の結論表明の際には、いろんな考えが表明され考えさせられる

そして、最後の場面で、次のようなナレーションが流れる

  • 4対3で有罪となり、懲役5年となったが、この5年は、金目当ての殺人としては軽すぎるが、自由を犠牲にして約束を果たしたとしたら重過ぎる
  • いずれにしろ司法の問題であり、陪審員の責任である、誰が被告の行動のすべてを説明できるか、家族や友人の行動を説明できるものなどいない、数時間で他人を理解し、動機を判断して刑を定めるなんて
  • 5年、1825日、愛人と離れて暮らすなんて、別れに耐えられぬという男の言葉の真偽は?、有罪か無罪かなど誰にも分らない、しかし裁きは終わった

アメリカでも「十二人の怒れる男」(1957年)という陪審員の審議を扱った映画があった、しかし、それとこの映画とを比べるとかなり内容が違うような気がする。アメリカ映画は極めてアメリカらしいし結末だし、この映画はフランスらしい結末で、それぞれよく国柄の差が出ていると思った。

いろいろ考えさせられた、安楽死や裁判制度について。映画の中で陪審員の一人が、有罪とするか無罪とするかの判断は、もし自分が被告だったらどうしたか、であると述べたが、そうかもしれない。では私だったらどうするか・・・

非常に優れた映画だと思った、1950年に既にこんなに素晴らしい映画があったとは驚きである


映画「眠りの地」を観た

2024年06月30日 | 映画

アマゾンプライムで映画「眠りの地」を観た。2023年、127分、アメリカ、原題:The Burial(埋葬)、監督マギー・ベッツ、プライムビデオでの独占配信のようだ

冒頭で、実話に基づく映画であることが示される。南部アメリカのミシシッピ州で葬儀社を営むオキーフ(トミー・リー・ジョーンズ)は、代々続く家業が資金トラブルで行き詰まっていた、その苦境を脱するため顧問弁護士に相談すると、事業の一部を業界最大手のローウェン・グループに売却すればよいとアドバイスを受けた。

そしてローウェン・グループのトップと直談判して合意し、あとは弁護士に契約書を作成させるとしていたが、ローウェンはいつまでたっても連絡してこなかった、契約書作成を引き延ばすほどオキーフが困るのを知っていたためだ。このため、オキーフは訴訟を起こすことを決意。カリスマ弁護士ウィリー・E・ゲイリー(ジェイミー・フォックス)を雇う。正反対の性格の2人だったが、一緒に戦っていくうちに絆が芽生える。

映画の題名は、騙されて搾取されてきた多くの黒人が墓石もない荒野に埋葬され、やがてそこは開発され、いろんなものが建ってくる、その黒人差別の象徴ともいえる黒人が眠っている埋葬場所、眠りの地、を採用したのだろう

映画を観た感想を書いてみよう

  • 全体的によく考えられた良い映画だった、見ていて退屈しなかった
  • 主人公のオキーフを演じたトミー・リー・ジョーンズ(1946)は好きな俳優だ、もう年なので若い時のような刑事ものなどはできないので、この映画のような中小企業のオーナーのような役をやっているのだろうが、似合っていた。
  • オキーフの弁護を引き受けた弁護士ウィリーをやったジェイミー・フォックスは初めて見る俳優だが、よかった。アグレッシブな黒人弁護士役をうまく演じていた。ウィリーは人身事故補償専門の弁護士で、上昇志向が強く、スタンドプレーがうまく、今までの訴訟で負けなしだが、実は勝てる訴訟しか手がけない。そして、オキーフの依頼について、契約法は専門外である、白人を弁護したことがない、今回の訴額がショボいなどの理由で断るが、オキーフの新人弁護士のうまい説得で結局弁護を引き受けることにした、ウィリーを説得した着眼点が良かった
  • 訴訟では何が論点なのかよくわからなかった、口頭で契約に同意していたが、契約書の作成を遅らせた、それによりオキーフ側に大きな損害が出た、それが1億ドルだ。口頭でも契約は成立するので、それほど大きな論点にならないだろうと思うが、裁判で議論されていたのは、契約書に両当事者がサインをしていないと拘束力はないとか、ローウェンがいかに黒人を騙して金儲けをしてきた人間であるかとか、その騙して儲けた金でいかに豪勢な身分になっているかなど、被告の貪欲と黒人搾取だ
  • そして訴訟の最後にウィリーが被告に対して、こんな差別や貪欲なことをして「良心が痛んだことはないか」と質問すると、「無い」と答える被告、黒人陪審員が多かったのでこれ決定的になったような描き方になっていた
  • この映画のポイントは、法律上の論点などではなく、訴訟に連戦連勝で傲慢であったウィリーが、スケベ根性で専門外で勝てる見込みもあまりない訴訟を引き受け、苦闘し、被告弁護人から攻められて依頼人のオキーフに恥をかかせ、主任弁護士を降ろされ、人生で初めて挫折を味わうが、それにめげずに妻に自分の弱いところもさらけ出しアドバイスをもらい、気を取り直して初めて他人(オキーフ)に失敗を謝罪し、その後、徐々に盛り返していき、オキーフの信頼も取り戻し、最後は勝訴するまでのその人間模様であろう、その点では見ごたえがあったと思う。

映画の最後には、その後、控訴を経て両者は1.75億ドル賠償で和解し、ローウェン・グループはその後倒産、オキーフ葬儀社は継続して成長し、夫妻は慈善団体を設立して賠償金を黒人の教会や学校に寄付、ウィリーは大企業相手の訴訟弁護士になり勝ちまくった、オキーフとウィリーの友情は続いたと出ていた。

楽しめる映画だった

 

 


映画「九十歳。何がめでたい」を観た

2024年06月28日 | 映画

映画「九十歳。何がめでたい」を観た、シニア料金1,300円、2024年製作、99分、監督前田哲、今日はシネコンの比較的大きな部屋、結構中高年の人が観に来ていた。

作家の佐藤愛子が日々の暮らしと世の中への怒りや戸惑いを独特のユーモアでつづったベストセラーエッセイ集を、草笛光子主演で映画化したもの

これまで数々の文学賞を受賞してきた作家の佐藤愛子は、90歳を過ぎた現在は断筆宣言して人づきあいも減り、鬱々とした日々を過ごしていた。そんな彼女のもとに、中年の冴えない編集者吉川がエッセイの執筆依頼を持ち込んでくる。最初はけんもほろろに断って追い返していたが、吉川の情熱に負けて書き始めることに。そうしたら意外と人気を博し、何万部も売れ出したが・・・・

編集者の吉川を唐沢寿明、愛子の娘の響子を真矢ミキ、孫の桃子を藤間爽子、吉川の妻麻里子を木村多江が演じた。

観た感想を述べてみよう

  • 佐藤愛子(1923)は知っていたが、彼女の本は読んだことがなかった、今年で100才だ、すごい女性がいたものだ、この映画を観て感心した
  • 映画の中で佐藤が吉川に頼まれたエッセイを書くが、その最初のエッセイは自宅の隣が公園で、子供の騒ぐ声がうるさいと文句を言う老人についてだ、佐藤はこの老人だって子供のころは楽しく騒いでいたくせに老人になるとうるさいという身勝手を批判し、子供の遊び声が聞こえるのはうれしいことだと書いた、その通りだと思う。
  • 最近もそんなニュースを聞いた、しかも公園で遊ぶ子供の騒ぐ音に文句を言っているのがある大学の名誉教授だというからあきれた。文句を言われた市町村は、このようなクレーマーの騒ぐ音にはすぐに反応して公園の廃止を決めて、遊具の撤去工事をしたら、今度は別の市民がその工事の騒音がうるさいと言ってきた。醜きもの、それはエゴだ。
  • 佐藤担当のリストラ寸前の編集者を唐沢寿明(1963)が演じていたが、その編集者吉川信也は会社では部下に対するパワハラで内部告発され、家では妻や子供のことに一切関心を示さない典型的な昭和の父親、その妻が新聞の人生相談に「こんな夫との関係をどうしたらいいでしょうか」と投稿すると、佐藤が「きっぱりと私はあなたを嫌いです」と言いなさいとアドバイスし、最後は結局そう言って離婚するが・・・
  • 時代の変化についていけない人、と言えばそれまでだけど、私は同じ昭和のオヤジとして吉川に同情を禁じ得なかった、まあ、こんな極端な例はないだろうが最近のセクハラ、パワハラ、○○ハラスメントというのは行きすぎではないか、ただ、唐沢寿明というのはこういうキャラが得意なのだろうか、よく知らないが、あまり適役ではないような気がした
  • 佐藤を演じた草笛光子(1933)も90才か91才だ、だが本当に元気である、90才過ぎてなお現役というのがすごい、映画の中でも佐藤が「だらだら何もしないで過ごしてはダメだということがわかった」と言っていたが、その通りでしょう。私はその意味を生涯現役で仕事をしなければダメということではなく、仕事を引退しても、熱意をもって取り組むことがあり、イキイキと生活することだと思う
  • 三谷幸喜が佐藤を乗せたタクシーの運転手で出ていたが、ご愛嬌でしょう、演技のほうはイマイチだった、ヒッチコックのようにちょっとだけ出るほうが良いのでは

元気が出る映画でした


映画「ありふれた教室」を観る

2024年05月29日 | 映画

映画「ありふれた教室」を観てきた、2022年製作、99分、独、監督イルケル・チャタク(1984、独)、原題Das Lehrerzimmer(先生の部屋)、シニア料金1,200円

仕事熱心で正義感の強い若手教師のカーラ・ノヴァク(レオニー・ベネシュ、独、1991)は、新たに赴任した中学校で1年生のクラスを受け持っていたところ、校内で盗難事件が相次ぎ、カーラの教え子が犯人として疑われる。

校長らが生徒たちに、周りでおかしな生徒がいないか答えさせるなどの強引な調査をしたことに反発したカーラは、独自に犯人捜しを始めるが、カーラのやり方や学校側の対応は、やがて保護者の批判や生徒の反発、同僚教師との対立といった事態を招いてしまう。後戻りのできないカーラは、次第に孤立無援の窮地に追い込まれていき・・・・

興味深い映画だった、考えさせられる映画だった、有りそうなストーリーの設定で現実味があった、こういう映画こそヨーロッパ映画の真骨頂であろう。いくつか感じたことなどを書いてみたい

  • 映画では最初に、校長らが生徒から聞き出した問題児はトルコ系移民の家庭だった、決定的な証拠がない中で親と学校でひと悶着起こる、これは移民問題がドイツ社会でいわれなき差別を招いているということを示唆しているのだろうか、監督のイルケル・チャタクもトルコ系移民の息子としてベルリンに生まれるという経歴の持ち主だ
  • 映画の中でこの学校の運営方針は非寛容主義(no tolerance)だと校長が言う、校則違反や犯罪行為には厳格に対応するという意味だと思うが、そうせざるを得ない状況が学校に発生しているのだろう
  • カーラは、職員室の自分の椅子に掛けた上着のポケットに財布を入れ、机の上にあるパソコンのカメラをオンにして離席し、隠し撮りしたら、校内で事務をしている中年女性のブラウスが映り、上着のポケットをいじっている場面が録画されていた、その人の子供はカーラの受け持ちの生徒だった
  • カーラがすぐにその女性に話に行ってしまってトラブルになるが、やはりその行動は軽率だったと感じた、録画には犯人の顔が映っていないし、財布が盗まれたかどうかもはっきり映っていない(ように見えた)、事実、映画では最後まで真犯人は明らかにされない、また、隠し撮りもやりすぎだと思った
  • 容疑をかけられた女性が反発し、その息子も母が先生から疑われていることを知ると学校や先生に敵意を見せてきて、そのいざこざが生徒たちにも伝わり、生徒もカーラたちに不信感を持って授業ボイコットなどをし、保護者会でも突き上げを受け、カーラは追い詰められる、同僚の教師たちも自分たちが隠し撮り対象になっていることから態度を硬化する

 

  • カーラが追い詰められていくところは真に迫っていた、だれでも仕事をしていれば、自分のちょっとした手違いや対応の間違えで大変な事態を招く経験の一つや二つはあるだろう、そういうときの心労は並大抵のものではなく、自分に落ち度があるだけに、ノイローゼなどになってしまう人もいるだろう、そんな場面がよく描かれていると思った
  • 生徒たちは中学1年生だが、もうすでに人権意識や差別意識、教師による事実の隠蔽などに対する批判能力を有しているように描かれている、また、親も教師たちに対して非常に厳しく対峙するところが描かれている、生徒たちはジャーナリスト気取りでカーラにインタビューし、学級新聞にカーラの不適切な対応を書いて校内で売ることまでやっている、こんなことがドイツで起こっているのだろうかと思った、まさに誰もが非寛容だ
  • そして、最後の結末だが救いがない(と、私は思う)、例えば日本的な感覚だと騒ぎを起こし、保護者や生徒たちからも問題視されたカーラが責められ、生徒は被害者とされがちだが、この映画では・・・・
  • 救いのない結末を観た人がそれを批判するなら、どうしたらいいのか考えろ、ということだろう
  • この映画は1回観ただけでは監督の言わんとするところや事実関係がよく理解できない部分もある、しかし、大局的には十分物語は伝わり、理解できるので特に予習してなくても大丈夫だろう

主役のレオニー・ベネシュはよく真に迫った教師役を演じていたと思う。彼女は、ドイツ・ハンブルクで生まれ、ロンドンにあるギルドホール音楽演劇学校で学び、ドイツで最も引く手あまたの若い俳優の一人として知られているそうだ。カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いたミヒャエル・ハネケ監督の長編映画『白いリボン』(2010年)の主演でブレイクしたそうだが知らなかった、ハネケ監督の作品は好きだが、『白いリボン』は観たことがなかったので今度観てみたい。美人で知性的な雰囲気もあり良い女優だと思った、今後の活躍に期待したい


映画「関心領域」を観た

2024年05月27日 | 映画

近くのシネコンで映画「関心領域」を封切初日に観てきた、今日は6回見れば1回無料の権利を得ていたので無料であった。結構観客が入っていた。2023年、アメリカ・イギリス・ポーランド、105分、監督ジョナサン・グレイザー、原題:The Zone of Interest

ジョナサン・グレイザー監督がイギリスの作家マーティン・エイミスの同名小説を原案に手がけた作品で、2023年の第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門でグランプリ、第96回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞

タイトルの「The Zone of Interest」は、第2次世界大戦中、ナチス親衛隊がポーランドの郊外にあるアウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40㎡の地域を表現するために使った言葉で、映画では強制収容所と壁一枚隔てた屋敷に住む収容所の所長ルドルフ・ヘスとその家族の平和な暮らしを描き、観る人に何かを考えさせる映画

空は青く、誰もが笑顔で、子どもたちの楽しげな声が聞こえてくる。1945年、アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす収容所長の家族、しかし、隣接するアウシュビッツ収容所からは銃声などの音、建物からあがる煙、その他の気配から、不気味な雰囲気が伝わってくる、そのコントラストから観ている人は何を考えるべきか

ジョナサン・グレイザー監督は「この作品では加害者側の視点で見えるものを描ければと思いました。この作品で訴えたいことは『我々は何も学んでこなかったのか?』、『なぜ同じ過ちを繰り返すのか?』ということです。現代とは関係のない80年前を描いた歴史映画を見せるつもりは一切なく、いまの時代に訴えかける作品にすべくフレーミングした結果、こういう作品ができました」と語っている。

映画を観た感想などを書いてみたい

  • 従来にない「ナチもの」であり、非常にユニークなアプローチを考えたと感心した
  • 音と暗闇を効果的に使っていると思った、映画の冒頭、タイトルの文字と不気味な音が観客を圧倒し、その文字がだんだん音とともに深海に沈んでいくように消えていく、そして小鳥のさえずりが聞こえてきて、収容所の隣家の平和な暮らしが描かれ始める、うまい演出だ
  • 収容所所長の家族にとっては、この家は贅沢で住み心地がよく、隣の収容所で何が行われているが薄々わかっているが、そんなことはどうでもよい、現実の生活を前にして人間とは弱い生き物だ、ただ、同居していた妻の母はある日、手紙を書き残し出て行ってしまう、その手紙を見て焼いてしまう娘である所長の妻、母のほうが歴史の批判に耐えられる行いをした
  • 所長の妻の役を演じていたのは、あの「落下の解剖学」で観たザンドラ・ヒュラー(1978年、独)だ、今回もなかなかいい役を演じていた
  • 所長のルドルフは成績優秀で効率的に仕事を行い、上層部から評価される、それで他の場所に栄転が決定するが、妻は隣家を離れたくないと言う、仕方なく上層部に単身赴任を申し出て認められる、家族の強い要望に弱い小人物が重大犯罪を実行する滑稽
  • 夜、暗闇の中でルドルフの娘がカゴにリンゴを入れて収容所に入り込み、土塁のようなところに一個ずつ埋め込む、それが何を意味しているのか分からなかった
  • また、最後のほうでルドルフが病院のベッドに横たわり、先生からの問診に答え、医者から腹部の触診をされる、その後、軍の建物の中で一人階段を下りているときに吐き気を催す、これが何を意味しているのかも分からなかった
  • 最後の終わり方が何となく拍子抜けするような感じがした、突然、テレビのスイッチを切られたような感じがした

国家の命令、組織の命令であればどんな犯罪でもやってしまう人間の弱さ、いい暮らしのためには本当は問題ある行為をしていても、正当化してしまう、程度の差こそあれ、現代でも十分起こりうることでしょう

同じ状況になったら自分はどうするか、あまりにも重い問題だから簡単には言えない、命令に反すれば自分や家族の命にかかわる

もう少し身近な問題でなら考えられるかもしれない、最近、NHKで不正等の内部通報制度の問題点を取り上げた番組をやっていた、組織内の不正を目にして内部告発をした正義感ある通報者がバカを見て、被害を被る事例だ

超一流会社でも不正が起こっている、有名電気メーカー、自動車メーカー、損害保険会社などなど、社員たちが不正を正当化する理由はいっぱいある、ジャニーズ問題も同じだ、不都合な事実は黙認する、同じことが他にもあるだろうと容易に想像できる

いずれにしても問題が大きすぎる、重大な危険を察知したら逃げる、クラシック音楽の世界でもナチの迫害を恐れて欧州から逃げ出した指揮者、作曲家などはいっぱいいた、しかし、現実問題、そんなことができるか

監督はこれから本作に触れる日本の観客に向けて「我々は、黙認や共犯関係を拒絶する力を持っているということをお伝えしたいと思います」と訴えたそうだが、それは場合によっては命がけだということでしょう、考えさせる映画だけど、もやもや感は残った

 

 


映画「クライマーズハイ」を観た

2024年05月13日 | 映画

テレビで放送された映画「クライマーズハイ」を観た。2008年、145分、監督:原田眞人、原作:横山秀夫の同名小説。クライマーズハイとは登山者の興奮状態が極限まで達し、恐怖感が麻痺してしまう状態のことであり、映画の中では日航機墜落の報道現場のカオスの状況も指すと思われる。

1985年8月12日、群馬県と長野県の県境に位置する御巣鷹山に日航機が墜落した、その事故を題材に、その時に繰り広げられていた地元地方新聞社の混乱する現場と人間模様を描いた映画

出演は、堤真一,堺雅人,小澤征悦,尾野真千子,山崎努などなどそうそうたるキャスト。作者自身も元上毛新聞記者で、その体験を元に作品を書いた、だから新聞社の社内の状況が非常にリアルに描かれている。

主人公は堤真一演ずる群馬の有力地方新聞「北関東新聞社」の記者悠木和雄。1985年8月のある日、新聞社の登山クラブの同僚安西耿一郎(高嶋政宏)と一ノ倉沢衝立岩に登頂する予定で会社を後にする直前に、東京発の日航機が乗客乗員524名を乗せたまま消息が不明との情報がもたらされる、その後まもなく墜落とわかり、場所は北関東新聞のテリトリーの群馬県内と判明したから大変だ。

新聞社は臨戦態勢になり、現場は大混乱する、悠木は日航機事故報道の全権に任命され、次々と指示を出し、現場取材、事実確認、紙面編集、締め切り、などで社内の関係部門と怒号を飛ばしながらも他社に出し抜かれないために必死の業務が続く。

映画ではその緊迫した様子を事故発生から時間を追って描いていく、臨場感がビシビシと伝わってくる。新聞社の業務の描き方もかなり具体的で、報道部門だけでなく、販売部門、輸送部門、印刷部門などあらゆる社内組織が出てきて、それらの部門や人間との軋轢、現場と局長、経営陣などとの対立をリアルに描き、真に迫っている。

一方、悠木のプライベートな面として、夫婦の不和、子供との隔絶、友人の安西との家族ぐるみの付き合いと安西の不幸などが絡む。さらに時間軸として、事故直前の1985年、初夏の渓谷での悠木と安西のお互いの息子を連れてのレジャーの場面、事件発生、その後2007年初夏に土合駅での悠木とすでに亡くなった安西の息子が落ち合い、親同士で約束した一ノ倉沢衝立岩への登山の場面が絡む。ここがいきなり見ると前後関係がわかりにくい。しかし、そこがわからなくてもこの映画の迫力は十分楽しめる。

あまり期待しないで見たのだけど、最初からどんどん映画に引き込まれた、堤真一、堺雅人、滝藤賢一、小澤征悦,尾野真千子らの真に迫った演技が非常に良かった。これは監督、俳優の良さに加え、そもそも原作がよかったのだろう。ただ、ネットやスマホが発達した現在の新聞社の業務はこの当時とはかなり違っているだろうなと思った。

この日航機墜落のあった8月12日の翌日、夏休みをとっていた私は友人と一緒に取手で炎天下の中でゴルフをやっていたのを覚えている。朝からテレビなどで大騒ぎしていたが、ゴルフをやっていたその真夏のゴルフ場の光景を今でも思い出す、暑い一日だった

この映画の最後に、「日航機墜落の原因調査の事故調は隔壁破壊と関連して事故機に急減圧があったとしている、しかし、運航関係者の間には急減圧はなかったという意見もある」とテロップが出てくる。隔壁破壊以外の墜落原因ついては、既に青山透子『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、2017年7月)が出ており、最近でも森永卓郎『書いてはいけない』(三五館シンシャ、2024年3月)の中で述べられているがなぜかあまり騒がれない。

NHKも下山事件などは未解決事件として報じるが、日航事故につては解決済み扱いなのだろうか、報じない。映画の中でも事故現場にもっと早く到着してれば救える命が多くあったと述べるところがあるが意味深である、この当時から墜落原因に関するいろんな疑問が語られていたのだろう。事故当時の総理大臣は中曽根康弘、アメリカ大統領はロナルド・レーガンであった

さて、この映画では一ノ倉沢への登山に行く待合場所に上越線の土合(どあい)駅が出てくる、この土合駅は有名で、駅が地下のだいぶ下にあるのだ。駅から地上の駅舎まで出るのに462段の階段を昇らなくてはならない、その地下駅と地上への階段、地上の駅舎がこの映画で出てくる。


(土合駅の駅舎)

この土合駅に行ったことがある。つい数年前である。それは近くのゴルフ場に泊りがけでゴルフに来た時に、まっすぐ帰るのではなく、周辺の観光地に寄ってから帰ろうと思い、調べたら土合駅が有名だというので車で来たものである。したがって、私の場合は、駅舎から駅まで見下ろす感じで階段を途中まで降りた。本当は地下の駅まで行きたかったが、ゴルフの後で疲れており、嫁さんも一緒だったため、あきらめて階段の途中で引き返したのだ。確かに写真映えするすごいところであった。


(駅に降りる階段の上から撮ったもの)

良い映画でした。

 


映画「愛は静けさの中に」を観た

2024年05月11日 | 映画

テレビで放送されていた映画「愛は静けさの中に」を観た。1986年製作、米、監督ランダ・ヘインズ、原題Children of a Lesser god(神の恩恵のより少ない子供たち)。映画を観て、今回は邦題のほうが雰囲気が出ていると思った。

聾学校に赴任してきた教師が、聾唖者の女性と愛し合いながら教師として献身する姿を描く映画、ジェームズ・リーズ(ウィリアム・ハート)は、片田舎の聾唖者の学校に赴任して来た。ある日、食堂でサラ・ノーマン(マーリー・マトリン)という若く美しい女性を見かける。校長(フィリップ・ボスコ)の説明によると、サラは5歳の時からここで学び、昔は優秀な生徒だったが、20代になった今は掃除係をしているという。

彼女に興味を抱いたジェームズは、自分の殼に閉じこもろうとするサラを根気強く説得していく、サラの母(パイパー・ローリー)を訪ね、サラが周りの者から笑い者にされるなどして、心を閉ざしてしまったことを知る、サラからも思いもかけぬ告白をされたが、リーズはそんなサラを愛していることを知り、同棲生活を始める。しかし、だんだんとお互いの気持ちが嚙み合わなくなっていき・・・・

聾啞(ろうあ)という障害を今まで正確に知らなかった、調べてみると、聾唖とは発声や聴覚の器官の障害によって、言葉を発することができないこと、音声による話ができないことで、 聴覚を失っているための言語障害の場合を聾唖(ろうあ)、聴覚は完全で、言語機能だけが失われている場合を聴唖(ちょうあ)という、とされている。聾唖者と言う場合、聞こえないし、話せない人という意味だ。

そして、これも知らなかったが、相手の唇の動きから何を言っているのか読み取る術を読唇術(どくしんじゅつ)という。そして、読唇術はしばしば「遠く離れた人の会話を読み取るスパイ技術」として描写されることもあるとWikipediaに出ていた。ただ、限界も多いそうだ。

(以下、ネタバレあり)

この映画で同棲生活を始めた2人がやがてお互いの行き違いが大きくなり、別居することになる、その2人の破局を迎える時の会話がなかなか深いものだった

サラ

「今まで私の周りにいた人たちは私を話せるように、儲けることができるように変えようとした、それはやめてほしい、ありのままの自分を受け入れてほしい、それが私の願望よ、そうでなければ私の沈黙の世界には入れない、私もあなたに近づけない」

ジェームズ

「話せないままでは生きていけないだろう、君は沈黙の城に自分を閉じ込めているだけだ、君は自分にウソをついている、ろう者でよかったとは思っていないはずだ、本当は怖いんだろう、話すことを拒否するのは愚かなプライドだ、同情を拒んで独りで生きるのなら読唇術を学べ、僕と話したいだろう」

なかなか考えさせられる良い映画だった、最後は救いがあるが、それはそれでアメリカ映画らしくて良いと思う。この映画でサラ役のマーリー·マトリンは弱冠21歳でアカデミー主演女優賞を受賞した。

ところで、サラはこの映画の中で当然だが全く話をしない、最近立て続けに主人公が劇中で全く話をしないオペラ(ルサルカ)や映画(ピアノ・レッスン)を観た、これで3作目だ、主人公が話さないという演劇にこんなに巡り合うとは、なんという偶然であろう。