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気ままに生活してるシニアの残日録

中村隆英「昭和史(上)1926-45」を読む(3/4)

2024年06月24日 | 読書

(承前)

4 第二次近衛内閣-新体制と三国同盟

  • 近衛は1938年以来の新党計画が再燃し、「新体制運動」に深入りし始め、1940年に強力な挙国政治体制ないし新体制樹立のために微力を尽くしたいと声明した、右翼・左翼を問わず、現状打破を標榜する革新勢力を取り込んで新しい政治組織を作り上げる青写真を持った、東京帝大の政治学担当教授矢部貞治が新体制関係文書の多くを作った、7月に入って各政党は相次いで解散し、陸軍の軍務局長の武藤章らはこの動きを利用した
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    政党政治や経済、戦争が行き詰まると革新的な挙国一致体制に期待したくなる、新聞はこの危険性をいつも国民に警告する役割があると思う、そして国民に人気があるが無能な人をトップに担ぎ本人もその気になる、国民に人気がある政治家やタレントなどは一番危険だろう、また、東大の政治担当の教授がいかにばかげたことに協力してきたかがわかる、肩書だけでその人の言うことを信じてはいけないという教訓である
  • 1939年8月に、近衛は新体制準備会を作り、新体制の定義をした、それは何度読んでみても、わかったようでわからないが、当時の雰囲気だけはよく伝えられている、この原文は東京帝国大学の矢部貞治の筆になるものであった
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    物事を難しくしか説明できない大学教授、結局、世界情勢を見る能力がなく、わけのわからない文書を書いて国民をミスリードしただけだった、戦後も世界情勢を理解できず、講和条約締結に際し、非現実的な全面講和を主張した大学教授がいた
  • 10月に大政翼賛会の発足式があった、その性格をめぐり議論があり、平沼騏一郎は後に「翼賛会に入っているものは、軍人でもそうでないものでもアカがいた」と回想している
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    翼賛会は右翼、左翼、軍人、官僚が支配したことに注意すべきだ、全体主義に右も左もないのだ、官僚も統制経済などの全体主義が好きだ、我々は右翼だけでなく左翼にも官僚にも十分な警戒を怠ってはいけない、その点で戦後の日本メディアがほとんど左傾化しているのは危険な兆候であろう

5 北部仏印進駐と松岡外交

  • 北部仏印への進駐は仏政府と平和進駐で合意したが、現地の佐藤賢了南方軍参謀副長、東京から出張した参謀本部第一部長富永恭次は武力進駐を強行した、太平洋戦争期の陸軍を誤らせたのはこの種の強硬論者が省部の中央に据えられたことも一因であろう
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    合理的判断ができず、情実判断、根拠なき強硬論、順法意識の欠如、精神論重視・・・今に続く日本の弱点であろう
  • 三国同盟締結に当たり、御前会議では批判的な意見も出た、原嘉道枢密院議長は、アメリカはなお日本を独伊側に加入せしめないためにかなり圧迫を手控えているようだが、同盟締結によりかえって反対の結果を促進する、蒋介石を援助して日本を疲弊させ戦争に耐えられないようにしようと計画する、広田弘毅も質問を重ね、英米の日本に対する態度は極めて悪化するし、そうなれば中国はこの事態を利用するであろうから支那事変の終結はいよいよ困難を来すであろう、これら良識的な批判は、この時期の熱狂的な日独伊枢軸強化論のあらしの中ではもとより小さな響きしか持たなかった、石橋湛山は、三国同盟が発表された後、東洋経済新報の社説で深刻な危機感を表明した
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    本来新聞が大きく取り上げるべき良識的批判であろうが、「バスに乗り遅れるな」と時代の空気を増幅することしかせず、日本は判断を誤った、石橋湛山は契約締結後に批判しても遅いだろう
  • 松岡は同盟締結に先立ち、在外外交官を全面的に更迭し、霞が関出身の大公使をほとんど召還し、軍人や代議士であったものを登用した、すべての外交を自分の手中に掌握し、曲面の打開を図ろうとしたらしい

6 日米交渉と独ソ開戦

  • 近衛は日米交渉の前途を危ぶみ、松岡の罷免を意図して1941年7月16日に内閣改造を実施した、松岡の伝記作者D・J・ルーは、1890年代の荒荒しく膨張主義的だったアメリカで教育を受けた松岡は、その時代のアメリカがしたことを1940年代に日本が行ってもアメリカは理解すると考えたが、アメリカは昔日のアメリカではなかった、と書いている
  • 近衛の政治責任について、若い時から現状打破的な志向を抱いていたが首相としては日本の進路をもてあそんだ形となった、内政面では政党政治を破壊して大政翼賛会を作り、軍部の内政支配の道を拓いた、中国との戦争において「蒋介石を対手とせず」声明を発し、果てしない長期戦にみちびき、東亜新秩序声明を発して対外関係を悪化させ、松岡を外相にして三国同盟を締結した。
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    国民に人気があった人が必ずしも有能な人物ではない、という教訓を日本人は学び取るべきであろう

7 日中戦争期の社会と文化

  • 日中戦争以後、思想統制は公然化した、喜劇や芸能の面でも政府の統制の網は覆いかぶされた、文部省は学生の映画、演劇観覧は土日に限る、ダンスホールの営業は禁止など
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    目の前に重要事項が現れると他が全く見えなくなり、思い詰めて、反対意見を力で押しつぶすか無視する、今でもこの思想統制は同じではないか、例えば、環境問題やLGBTについて異なる意見を表明しようものなら袋叩きにする、新聞はこういう風潮こそ国民を危険に陥れるものとして多様な考えを政府や国民に紹介すべきだが先頭に立って「時代の空気」を増幅している

8 日中戦争期の経済

  • やがて大政翼賛会に結実する新体制運動が近衛を中心に始められたとき、経済新体議論が巻き起こる、朝日新聞社の論説委員であった笠信太郎が「日本経済の再編成」という書物で世に問うて以来、注目を惹いていた、この時企画院が本格的に取り上げたために、政府と財界を二分する大問題となった、笠によれば戦時下の企業は膨大な戦時消耗ために増産第一でなければならない、この発想は企画院の注目するところとなった、当時の商工大臣小林一三は革新官僚の総帥だった商工次官岸信介に辞表提出を求める大問題となった、こののち、企画院にはアカがいるということで捜査の手が伸びたが笠は朝日の欧州特派員としてあわただしくベルリンに赴任してかろうじて検挙を免れた
  • 農業についても、興味深い事件がある、1939年にコメ不足が深刻化し、40年産のコメからコメの流通を政府が統制するようになり、コメは配給制になった、41年からは農水省を中心に「食糧管理制度」が実施され、小作農からも政府が買い上げ、生産奨励金の交付などが行われ、その食管制度は幾多の変遷を経て今日まで存続している

9 開戦への途

  • アメリカはモーゲンソー財務長官が作成した強硬な10項目を日本に提示することを決心し、25日夕方には、大統領、ハル国務長官らの会議が開かれ、この提案を行うときは、対日開戦を決意しなければならないが、アメリカに多大の危険を招かぬように配慮しつつ、日本にまず攻撃をさせるように仕向けることが合意された
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    白人のずる賢いところが存分に出ている、石原莞爾が秀才か天才か知らないが、満州事変のやり方を見れば、まだまだ幼い青二才でしかないだろう

(続く)



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