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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。
古今和歌集 巻第九 羇旅歌
唐土にて月を見て、よみける 安倍仲麿
あまの原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも
(もろこしにて、月を見て、詠んだ・歌……遠い外国にて、月人壮士を見て、詠んだ・歌)(あべのなかまろ)
(天の原、ふり離れて見れば、あれは、春日の三笠の山に出た月ではないか……吾女の腹ふり避けて、見れば、わがものは、かすかである、三重なる山ばに出た月人をとこ、あゝ)。
この歌は、昔、仲麿を、唐土に物習はしに遣はしたりけるに、多数の年を経て、え帰りまうで来ざりけるを、この国より又使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、明州と言ふ所の海辺にて、かの国の人、餞別しけり。夜になりて、月のいと面白くさし出でたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる。
「あま…天…吾女…わがおんな」「原…腹」「かすがなる…春日なる…微かなる」「三笠の山…山の名…名は戯れる。三重なる山ば」「月…月人壮士(万葉集の歌言葉)…(万葉集以前の別名は)ささらえをとこ」「かも…詠嘆を含んだ疑問の意を表す…詠嘆の意を表す」。
大海原をふり離れて見れば、あれは昔、春日の三笠の山に出た月ではないか――歌の清げな姿。
抑えがたき望郷の念。
吾をうな腹、ふり避けて、見れば、微かである、三重なる山ばに出た、ささらえをとこ、あゝ――心におかしきところ。
難破し漂着した南方の明州から、唐の都へ帰る折の、男の心と身の端が、最も憔悴した情況。
この歌は、土佐日記に、解りやすく、現代文にすれば、ほぼ次のように紹介されてある。
「廿日。昨日のようなので、船を出さない。みな人々、うれへなげく(憂れい、嘆く)。苦しく心細いので、ただ日の経った数を、今日で幾日、二十日、三十日と数えていると、お指も傷めてしまいそう。とっても詫びしい、夜は眠れず。はつかの(二十日の…かすかな)夜の月がでた。山の端もなくて、海の中より出て来る。このようなのを見てか、むかし、阿倍の仲麻呂といった人は、唐に渡って、帰り来るときに、船に乗るべき所にて、彼の国の人、はなむけし(餞別の宴をし)、別れ惜しんで、彼の国の漢詩を作ったりしたのだった。飽きもしなかったのだろうか、二十日の夜の月が出るまで、そうしていたという。その月は海より出たのだった。これを見て、仲麻呂の主、わが国では、このような歌をですね、神世より神もお詠みになられ、今は、上中下の人も、このように、別れを惜しむときや、喜びも悲しみもあるときには詠むのです」といって詠んだ歌。
「彼の国の人、聞いてもわからないだろうと思ったけれども、ことの心(言の心)を、おとこもじ(漢字)にして、さま(様…歌の意味)を書き出し、わが国の言葉を伝え知った人に言い知らせると、こゝろ(歌の心・心におかしきところ)を聞き得たのでしょう。思う以上に愛でたのだった。唐とわが国とは、言葉は異なるけれども、つきのかげ(月の光…月の陰の意味)は同じでしょうから、人の心も同じことなのでしょうか」。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)