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帯とけの小町集
小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも伝わるでしょう。
小町集 12
人とものいふとてあけし、つとめて、かばかり長き夜に何ごとを、よもすがらわびあかしつるぞと、あいなうとがめし人に、
(人と語らって夜が明けた早朝、これほど長い、秋の・夜に、何ごとを、一晩中、もの足りないと言い明かしたのだと、わけもなく咎めた人に……男と情けを交すということで夜が明けた早朝、これほど長い、飽き満ち足りた・夜に、何ごとを、一晩中、ものたりなくてと言い明かしたのだと、愛想もなく咎めた男に)、
秋の夜も名のみなりけりあひとあへば ことぞもなくあけぬるものを
(秋の夜長も、名目だけだったことよ、逢って語らっていると、何となく夜が明けてしまうので……飽き満ちた夜は、汝の身だけだったわ、逢い合えば、何ごともなく果ててしまったもので)。
言の戯れと言の心
「ものいふ…言葉を交す…情けを交す」「わびあかす…もの足りずつらいまま果てる」「あかす…夜明けを迎える…限度・限界となる」。
歌「秋…飽き…飽き満ち足り…厭き」「名のみ…名目だけ…汝の身…君の身…おとこだけ」「あへば…逢えば…合えば…合体すれば…和合すれば」「あけぬる…明けてしまう…期限・限度などが来てしまう…果ててしまう」「ものを…のになあ…のでなあ…感嘆・詠嘆の意を表す」。
小町集 13
返し
長しとも思ひぞ果てぬむかしより あふ人からの秋の夜なれば
(秋の夜は長くとも、人の思いは果ててしまう、昔より、逢う人の思いによる秋の夜の長さだから……もの長くとも、思いは果ててしまう、武樫よりも、合う人の柄によって、長さのきまる・飽きの夜だから)。
言の戯れと言の心
「長し…夜が長い…物が長い」「むかし…昔…武樫…強く硬い」「あふ…逢う…合う」「から…柄…によって」「秋…飽き」。
もとより男の返歌はない。そこで古今集編者の躬恒が返歌を作り、古今集の恋歌三では、二首をただ並べ置いた。小町の歌を活かす為だろうと思われる。また、この歌もそれでこそ活きる。
『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。
以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。
紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。
歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。
優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。
貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。
歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。