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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。
古今和歌集 巻第九 羇旅歌
越国へまかりける時、白山を見てよめる 躬恒
消えはつる時しなければ越路なる しら山の名は雪にぞありける
(越の国へ使者として行った時、白山を見て、詠んだと思われる・歌……山ば越して行った時、白けた山ばを見て、詠んだらしい・歌)みつね
(消え果てる時がないならば、越路の、白山の名は、降り続く雪ゆえだったのだ……消え果てる時がないならば、山ば越し成るのに、通い路の白山の、汝は、白雪・おとこ白ゆきだったのだなあ、いつも消えてしう)。
「越路…越の国への道…山ば越逝く路」「路…通い路…おんな」「なる…にある…成る…山ばに成る」「白山…山の名…名は戯れる。頂の白い山、白けた山ば、おとこ白ゆきの山ば」「名…評判…名声…汝…親しいものをこう呼ぶ…わがもの…わがおとこ」「雪…ゆき…消えやすいもの…おとこ白ゆき」「ありける…ありけり…気づき・詠嘆の意を表す」。
消え果てる時がないならば、越路の、白山の名は、降り続く雪ゆえだったのだ…――歌の清げな姿。
使者はただ行き行き任務を果たすだけ。白山はただのゆき山だったのだ。
消え果てる時がないならば、山ば越し男も女も成るのに、越路の白山の、汝は、白雪・おとこ白ゆきだったのだなあ・いつも消えてしう――心におかしきところ。
ゆきゆきて尽き果てる、白けた山ばが残る、汝はおとこ白ゆきだったのだなあ、はかないおとこの性、男の生きざまだだったのだなあ。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)