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「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
「百人一首」の和歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に従って、歌の「表現様式」を知り、「言の心」を心得て、且つ歌言葉は「浮言綺語に似て」意味が戯れることも知って、和歌を聞けば、「心におかしきところ」や「言の戯れに顕れる深い主旨・趣旨」が心に伝わる。ものに「包む」ように表現されて有り、それは、俊成の言う通り、まさに「煩悩」であった。
公任のいう歌の「心におかしきところ」は、言い換えればエロスである。性愛に関わる人間味あふれるもの、人を惹きつける魅力の源泉である。これが和歌の奥義である。もとより、和歌は、人麻呂、赤人の歌において、エロチシズムのある表現様式を持った文芸であった。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (八十八) 皇嘉門院別当
(八十八) 難波江の葦のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき
(難波江の葦の、刈り根の・仮寝の、一節の間なので・一夜なので、水路標識につき従ってよ・身を尽くしてよ、君を・恋い続けるに違いないわ……何はおんなの、脚の・悪しきものの、狩り寝の一夜なので、見を尽くしてもよ、君を・乞い続けるつもりよ)
言の戯れと言の心
「難波江…入り江の名…名は戯れる。何は江、あの江」「江…言の心は女・おんな」「葦…あし…肢…脚…悪し」「かりね…刈り根…仮寝…狩り寝」「狩り…猟…め獲り…まぐあい」「ひとよ…一節…節と節の間…短い…人世…一夜」「みをつくし…水路標識…身を尽くし…見を尽くし」「み…身…見…媾…まぐあい」「つくす…つき従う…尽くす…最後までし終える」「て…接続助詞」「や…疑問の意を表す…感動をもって断定する意を表す」「こひ…恋…乞い…求め」「わたる…続く…つづける」「べき…べし…確信ある推量を表す…に違いない…意志・決意を表す…きっとするつもり」。
歌の清げな姿は、一夜の契りでも、人の世のこと・一寸先は闇、身を尽くして恋つづけるかもしれないわ。
心におかしきところは、何のあれの脚の間の、悪しきものゆえ、見尽くしても、なお乞いしつづけるつもりよ。
千載和歌集 恋三 「摂政、右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋、といへる心をよめる」。(藤原兼実・皇嘉門院の弟が、右大臣の時に主催された歌合の為に詠んだ歌、題は、旅宿で逢う恋の心)。
皇嘉門院別当は、崇徳天皇譲位の後に、皇后は「皇嘉門院」と称されたが、その女房たちを代表する人。
上のように歌の言葉は、俊成の教えに従って、「浮言綺語の戯れ」と捉えるべきである。近代人は、言葉の戯れを己の理性と論理に従って、把握したくなるらしい。歌言葉の戯れを分類して「序詞」「掛詞」「縁語」などと名付ければ、歌言葉を牛耳ったと思いたくなるが、掴み損ねたのである。言葉はそれほど単純な代物ではないのである。それは、平安時代の歌詠む人は誰でも知っていたが、はっきり言葉にしたのは清少納言である。「同じ言葉でも聞き耳によって(意味の)異なるもの・それが、我々の用いる言葉(法師の言葉、男の言葉、女の言葉)である」。
清少納言の言語観は決して哲学的ではないが、その戯れぶりを、はっきり言葉にした最初の人だろう。その戯れを利した言動によって、周囲の人々の心をおかしがらせた。その記録が枕草子にある。
清少納言より二百年ばかり後の皇嘉門院別当が、上のような、「心におかしきところ」のある歌を、言葉の戯れを用いて詠んでも、すこしも不思議ではない。