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帯とけの拾遺抄
藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って聞き直している。
公任は和歌の表現様式を捉えた。「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という優れた歌の定義に表れている。公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「深い心」「清げな姿」「心におかしきところ」の三つの意味が有る。
俊成は、歌言葉の浮言綺語に似た戯れの意味に歌の旨(主旨及び趣旨)が顕れると言う。
藤原公任撰「拾遺抄」巻第十 雑下 八十三首
いちのかどにかきつけ侍りける 空也法師
五百七十九 ひとたびもなもあみだぶといふひとの はちすのうへにのぼらぬはなし
市の門に書き付けたという (空也法師・空也上人・公任の祖父藤原実頼らとほぼ同世代の人)
(一度でも、南無阿弥陀仏という人が、浄土の・蓮台の上にのぼらぬことはない……一度でも念仏をとなえた人が、極楽のおんなの上にのぼらないおとこはない・極楽に上りつめないおんなはない)
言の戯れと言の心
「ひとの…人が…誰もが…男が…女が」「はちす…蓮台…極楽浄土…玉のうてな…言の心は女」「す…洲…巣…言の心はおんな」「のぼる…上る…(蓮台に)上る…極楽浄土に往生する…(端すの上に)上る…(山ばの頂上に)上る」。
「す」が、おんなという意味を孕んでいたことなどは、論理的に実証できない事柄である。むかし、この文脈において「す」は、おんなという意味で用いられていたというしかない。清少納言枕草子(五月ばかり)に、次のような場面がある。月のない暗い時に、「女房たちは居るか」と男どもの声がして、「みすをもたげて、そよろとさしいるる、くれ竹なりけり」と記されてある。「竹」がおとこであり、「みす…御簾…身す…おんな」と戯れている文脈にある枕草子の読者たちは、ここで、すでに笑い顔になって「をかし」と思いながら次を読んだだろう。清少納言は「おい、この君か(感極まった、おとこか)」と応じたのである。
歌の清げな姿は、市に集う善男善女にも伝わるように、阿弥陀仏の慈悲は、念仏衆生摂取不捨であることを教えさとした。
心におかしきところは、一度これを唱えれば、男は玉のうてなの・よき女の、上にのぼらない者は無い、女は快楽の極みに上らない者は無いぞ。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。
以上で、藤原公任撰「拾遺抄」五百七十九首の聞き直しを終えた。
「帯とけの拾遺抄」あとがき
国学と国文学的な和歌の解釈は、「清げな姿」を解いているのである。意味の伝わり難い部分については、此処までは「序詞」で訳さずとも良し、これは「掛詞」である。これとこれは「縁語」であるなどと、指摘すれば、歌を全て把握したように思いたくなるのはどうしてだろうか。現代の古語辞典や学者の解釈はすべて、一義的な「清げな姿」の解釈で占められている。明治の正岡子規が「古今集の歌はくだらない」と言っても、国文学者は江戸から明治の国学及び国文学の解釈が間違っている所為だとは、だれも思わないのである。
平安時代の和歌の文脈は鎌倉時代から秘伝となって埋もれはじめ、江戸時代には、秘伝や伝授そのものが埋もれ木が朽ちる如く消えてしまった。和歌の文脈は断絶したのである。その結果、貫之のいう「ことの心」を「事の心」と誤解し、公任の「歌論」の、歌に三つの意味があるなどとは夢にも思えず無視した。また、清少納言の言う「同じ言葉でも聞き耳異なるもの(それが、われわれの言葉である)」を曲解し、性別や職域が違うと言葉のイントネーションが異なる、などと訳す。
清少納言は「同じ一つの言葉でも、人により受け取る意味が異なるものである」と、驚くべき言語観を述べていたのである。言語は、人の理性で御し難い性状であることは、西洋においては、二十世紀になって、哲学者たちが気付きはじめたようである。清少納言の言語観は哲学的では無いけれども、それを超えて、多様に意味の戯れる言葉を逆手にとって、「心におかしい」意味の孕んだ言葉を発し、当時の人々を笑わせた。そのおかしさの内容は、和歌の「心におかしきところ」と本質は同じである。枕草子は和歌の言葉の文脈内に有る。和歌の「心におかしきところ」が解ければ、枕草子のほんとうの面白さを享受することができるだろう。
万葉集のほか、全ての勅撰和歌集及び歌物語、日記、枕草子、源氏物語は、わが国の貴重な文化遺産であるが、その下半身が埋もれて見えなくなっている事に、誰も気づかない。壊れないように、独り手作業で、発掘している気分であるが続ける。