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帯とけの拾遺抄
藤原公任の撰んだ優れた歌の集「拾遺抄」を、公任の教示した優れた歌の定義「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」(新撰髄脳)に従って紐解いている。この「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるだろう。
歌の言葉については、清少納言枕草子「女の言葉(和歌など)も、聞き耳(によって意味の)異なるものである」と、藤原俊成古来風体躰抄「歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)も顕る」に学んだ。
平安時代の歌論にはない、序詞、掛詞、縁語を指摘するような江戸時代以来定着してしまった解釈はあえてしない。平安時代の歌論を無視し言語観にも逆らって、歌を解くことになるからである。
拾遺抄 巻第七 恋上 六十五首
五月五日にあるをんなの人のもとにいひつかはしける (読人不知)
二百七十四 いつかともおもはぬさはのあやめ草 ただつくづくとねこそなかるれ
五月五日に、或る女の人の許に言い遣わした (よみ人しらず・恋し求めて合った男の歌として聞く)
(今日が・五日とも思わない沢の、色美しい・菖蒲草、ただ何となく根もとを、水が・流れている……合うを・いつかとも思わない、多の妖め女よ、ただづくづくと根が泣き涸れる、我は・声上げて泣いた)
言の心と言の戯れ
「いつか…(さつき)五日…何時か」「さは…沢…水辺…さはやかの語幹…爽やか…沢山…多々…多情」「あやめ草…五月五日の端午の節句に各家の軒に葺く草花…草花の言の心は女…あや女…彩女…色美しい女…妖女…妖艶女」「あや…彩…綾…妖し・怪しの語幹」「つくづくと…しんみりと…長らくぼんやりと…尽く尽くと…づくづく・ひたひたと、濡れるさま」「ね…音…声…根…おとこ」「こそ…強調する意を表す…こぞ…是ぞ…子ぞ…このわが貴身ぞ」「なかるれ…流る…泣かる…汝涸る」「るれ…る…自然にそうなる意を表す」「な…汝…親しきもの」
歌の清げな姿は、端午の節句など関係なく、色美しい菖蒲草の生えている様子の描写。ただゆっくりと根もとを水が流れている。
心におかしきところは、思わぬ多情な妖め女、尽く尽く根は泣き涸れ、我は思わず声上げ泣いた。
この歌は、作者も相手の女も、誰か知っていても、匿名にすべき歌だろう。
歌の「あやめ草」が、「彩女…妖女」と聞こえる文脈に居ない人、言い換えれば「草」の「言の心」を女と心得ず、言の戯れを知らない人には、歌の「清げな姿」しか見えないので、恋歌として「優れた歌」とも思えないだろう。言葉の意味には根拠も理由もない、ただ、この平安時代の文脈では、「草」の意味の一つは「女」で通用していた事に数多く接するほかない。
清少納言は、この歌など、たちどころにわかっただろう。男の言葉も女の言葉も「聞き耳異なるもの」(聞く耳によって意味の異なるもの)と言う、枕草子「草は」の最初の一行を読む。
草は、さうぶ、こも、あふひ、いとおかし。
(草は、菖蒲、菰、葵、いとをかし……女は妖め、壮夫、来も、合う日、様子が・とってもおかしい)。
言の心と言の戯れ
「さう…しょう…しゃう…菖…壮…壮年男子…盛ん…つよい」「こも…菰…来も…来るよ」「も…強調する意を表す」「あふ…逢う…合う…合体・和合」。
題不知 躬恒
二百七十五 おふれどもこまもすさめぬ あやめ草かりにも人のこぬがわびしき
題しらず (凡河内躬恒・古今集撰者)
(生えているけれども、駒も好まない、あやめ草、刈りにも・引きにも、人の来ないのが、侘びしいな……極まるけれども、股間も遊べない、多情の・妖め女、かりしにも・娶りにも、男の来ないのが、わびしいな)
言の心と言の戯れ
「おふ…生える…追う…極まる…感極まる」「こま…駒…股間…おとこ」「すさめぬ…好まない…遊べない…手慰みにならない」「あやめ草…端午の節句には家々の軒の葺かれる…葉は剣型で香り強いためか駒も好まない草…妖め女…妖艶女…多情女」「草…言の心は女」「わびしき…つらい…くるしい…かなしい…心細い」
歌の清げな姿は、あやめ草の生えている様子。駒にも人にも好まれないため、五月四日以外は刈にも来ないとは、わびしい。
心におかしきところは、妖め、多情な女、こまのおとこも好まず尽く尽くと泣き涸れるので、わびしい。
上の歌などに先行して、『伊勢物語』に、あやめ刈りきみは沼にぞ惑ひける 我は野に出でて狩るぞわびしき(……妖めかり、貴女は、情欲の泥・沼にぞ、惑ひける、われは、山ばのない・野に出て、涸るぞわびしき)と言う、業平らしい歌がある。
歌の真髄が鎌倉時代に秘伝となって埋もれ、江戸時代には全ての歌の「心におかしきところ」を見失った。歌物語の解釈も不在となったのである。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。