帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」巻第一春歌上(6)白雪のかゝれる枝に鶯のなく

2016-08-30 19:14:04 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に学んで解き直している。春歌は、清げな春の景色に付けて、心に思う諸々の事が詠み添えられてある。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上(6)

 

雪の木に降りかかれるをよめる      素性法師

春たてば花とや見らむ白雪の かかれる枝にうぐいすのなく

(立春となれば、花とでも見えるのだろうか、白雪の掛かっている枝に鶯が鳴く……張る立てば、お花と見えるだろうか、白ゆきの・おとこの情念の、ふりかかっている身の枝に、うぐひすがなく・をみなが無く)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「春…暦の春…季節の春…春情…張る」「花…梅の花…木の花…木の言の心は男」「見らむ…見為すのだろう…思うのだろう…見るだろう」「見…覯…媾…まぐあい」「白ゆき…白雪…冬の風物…白逝き…白つゆ…おとこのもの…おとこの情念」「うぐひす…鶯…鳥…鳥の言の心は女」「なく…鳴く…泣く…無く」。

 

白雪かかる木の枝、花に見えるのか、鶯の鳴く、早春の風情。――歌の清げな姿。

修行中の若い僧の独り寝の夢中、はる立てば、白ゆきの花が咲く、おとこの性(さが)を、早春の風情に付けて、表出した。――心深く、心におかしきところがある。

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味を知れば顕れるものを、藤原俊成は「古来風躰抄」で、煩悩と捉えたが、これなど、まさにそれだろう。

 

素性法師は僧正遍照の子。俗名良岑玄利、若くして出家した。優れた歌詠みとして、古今集に三十七首ばかり有る。撰者たちに次ぐ多さである。おそらく、撰者たちとほぼ同じ「歌体」だったのだろう。エロスの程良い表出ぶりが同じなのだろう。これらは、直観的推測であるが、先ずこれがなければ、撰者たちの「歌体」と漠然と比較しても、何も見えてこないのである。

仮名序には、撰者たちにとっても尊敬すべき先人、僧正遍照の「歌体」について、次のような批評がある「僧正遍照は、歌のさまを得たれども、まこと少なし、たとえば絵に描けるをうなを見ていたずらに心を動かすがごとし」。色好み歌の氾濫する中にあって、僧正遍照は、歌の表現様式を心得て・我々と同じであるけれども、エロス(性愛・生の本能)の表現が、ほんに少ない、例えば絵に描いた女の姿を見て、いたずらに感動するようなもので現実味が少ない。歌はより禁欲的である。――今は、この批評を、このように読むことができる。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)


帯とけの「古今和歌集」巻第一春歌上(5)春かけて鳴けどもいまだ雪は降りつつ

2016-08-29 19:19:12 | 古典

               


                            帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って解き直す。
 早春の清げな景色などは、歌の「清げな姿」で、「心におかしきところ」が歌言葉の戯れの意味を利して詠み添えられてある。

 

 「古今和歌集」巻第一 春歌上(5)

 

題しらず                 よみ人しらず

梅が枝にきゐるうぐひす春かけて 鳴けどもいまだ雪はふりつつ

(梅の枝に来て居る鶯、春かけて・春よ春よと、鳴いているけれども、未だ雪は降りつづく……わが身の枝に、気入る、うぐひす・をみな、はるよはるよと、泣けども、いまだ・井間だ、白ゆきはふり、つつ・筒)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る。

「梅…木の花…言の心は男花…春のお花」「枝…木の枝…身の枝…おとこ」「きゐる…来て居る…きいる…気入る…気持ちが入る」「うぐひす…鶯…鳥…言の心は女…をみな」「春…季節の春…青春…春情」「かけて…懸けて…心にかけて…心をそそいで…言葉に出して」「鳴けども…泣けども…(感極まって)泣くけれども」「いまだ…未だ…今だ…井間だ…おんなに」「つつ…継続・反復の意を表す…筒…おとこの果ての自嘲的表現」。

 

詠み人知らずとあるが、男の歌として聞いた。

歌の清げな姿の、梅が枝で鳴く鶯の声、降る雪、早春の景色は、歌の氷山の一角で、その底には、色好みな余情が隠れている。

「歌のさま」を知り「言の心」と言の戯れの意味を心得た人に顕れるのは、和合の極致を彷彿させる女の声と、なおもおとこ白ゆきの降る情景である。終に筒となるのは男のさが――これが歌の、心におかしきところと、心深きところである。

 

国文学的解釈により、歌の「清げな姿」しか見えない近代から現代の真摯な人々は、古典和歌にそのような色好みな意味があるわけがないと思われるだろうが、古今集編纂以前の或る時期に、色好み歌の氾濫となっていたのである。古今和歌集に採られたこの歌などは、比較的上品な歌だろう。
 仮名序に、歌の凋落ぶりを嘆いて次のように書かれてある。「今の世中、色につき、人の心、花に成りにけるより、あだなる歌、はかなきことのみ出で来れば、色好みの家に、埋もれ木の、人知れぬことと成りて、まめなる所には、穂に出だすべきことにも有らず成りにたり」。

「いろにつき…色に付き…色を手掛かりとし…色に尽き…色に尽き果て」〔色…好色なこと…色情的なこと」「あだなる歌…不実な歌…不真面目な歌…婀娜な歌…なよなよと色っぽい歌」「はかなきこと…儚き事…儚き言…つまらない言葉、無益な言葉、感動の無い言葉など」「まめなるところ…公の場…真面目な所」。


 色好みの家に埋もれた歌が、実際、どのような歌か想像できるようになって、はじめて、この仮名序の文章を読むことができる。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)


帯とけの「古今和歌集」巻第一春歌上(4)鶯の凍れる涙いまやとくらむ

2016-08-28 20:06:19 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで解き直している。早春の清げな情景を詠んだ歌は、人の青春の心を詠んだ歌である。

 

 「古今和歌集」巻第一 春歌上(4)

 

二条の后の春の初めの御歌

雪の内に春はきにけり鶯の こほれるなみだいまやとくらむ

(雪降る内に、暦の・立春はやってきたことよ、鶯の・春告げ鳥の、凍っていた涙、今、融けているのでしょうか……白ゆきのうちに、情の・春は来たことよ、うくひすの・女の、こほれる汝身唾、井間、とけるのでしょうか)


 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る。

「雪…冬の風物…逝き…白ゆき…おとこの情念」「春…暦の春…季節の春…心の春…春情」「鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は女…古事記・万葉集・土佐日記などを、その気になって読めば、和歌の文脈では、鶏(かけ)、郭公(ほととぎす)、鶴(たづ)、千鳥などなど、鳥は、女という言の心があって通用していたことがわかるはずである。なぜ、女なのかは、人の理性や論理で把握できることではないので、知らないとしか言えない。言葉の意味などは、皆そういうものである」「こほれる…凍っている…こ掘っている…まぐあっている」「なみだ…目の涙…身の汝身唾」「とく…融ける…解ける」「らむ…推量する意を表す…事実を婉曲に表わす」。

 

季節の春はまだなのに、立春が来た、春告げ鳥の凍っている涙、今とけているでしょうか。早春の風情は、歌の清げな姿である。

白ゆきの内に訪れた、女の初めての春情のありさま。――これが、公任のいう「心におかしきところ」である。

 

「うくひすの、こほれるなみだ、いまや、とくらむ」、女のエロス(性愛・生の本能)の表現に、天才的ひらめきが感じられる。初めて訪れた春情をこのように表現できる人はただ者ではない。「鶯の凍れる涙」というおんなのエロスを孕んだ言葉は、もはや誰も、これを用いて歌を詠むことは出来ない。暗黙のうちに、汚さぬように、このまま永久保存されて来たようである。


 二条の后が、まだお若くて、ただの人であられたころの、藤原高子(たかいこ)の青春の歌である。「伊勢物語」の女主人公(ヒロイン)として、業平との愛は引き裂かれたが、自ら愛を絶ち切ったようでもある。見目麗しく才たけて自立した、心豊かな女性であったのだろうと想像される。伊勢物語によれば、業平が死ぬまで愛し憎んだ人である。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)


帯とけの「古今和歌集」巻第一春歌上(3)みよし野の吉野の山にゆきはふりつつ

2016-08-27 19:12:43 | 古典

               


                                                             帯とけの「古今和歌集」

                                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 今の世に蔓延している和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視したものである。「古今和歌集」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直す。

 

 「古今和歌集」巻第一 春歌上(3)

 

題しらず              よみ人しらず

春霞たてるやいづこみ吉野のゝ よしのゝ山に雪はふりつゝ

(春霞の立っているのは、何処かしらね、み吉野の吉野の山に、雪が降り続いている・春は来ない……身にも心にも・春の情が立ったのはどこかしら、見好し野の好しのの山ばに、白ゆきはふりつつ……張るが済み・春が澄み、絶ったのはどこかしら、見好しのの好しのの山ばに、逝きは古り、筒)

 


 歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る。

「春…季節の春…春情…張る」「かすみ…霞…が済み…が澄み」「みよしの…み吉野…地名…名は戯れる。身好の、見好しの」「み…美称…接頭語…身…見」「見…覯…媾…まぐあい」「の…野…山ばではないところ」「山…山ば…頂上…絶頂」「雪…冬の景物…逝き…おとこ白つゆ…おとこの情念」「ふり…降り…振り…古り」「つつ…継続・反復を表す…筒…おとこを卑しめて言う言葉」。

 

「よみ人しらず」は、詠み人は不明。詠み人は知っているが、詠み人の個人の秘密を守る権利(プライバシー)を配慮して名を秘す場合がある。詠み人が女性のことが多い。この歌、女の歌として聞いた。

 

何処かに春霞が立ったのでしょうか、吉野の奥山には未だ春の訪れはなし、立春の日の吉野の山の雪景色。――歌の清げな姿。

見・身、好しのの山ばに、おとこ白ゆきの降る風情。女の身にも心にも、未だ春の訪れ無し。男女の性(さが)の差を詠んだ。――深い心かな。

おとこは独り、春がすみ、どこかに白ゆき降らし置いて、山ば越えて逝った、屍を見て、憤懣やる方ないおんなが一言申した、古り筒。――心におかしきところ。

 

男と女の夜の仲に在る女性が、心に思う事を、「見るもの、聞くものに付けて」言い出した歌で、匿名にすべき歌だろう。

 

平安時代の歌論と言語観に従って、古今集の全ての歌の「心深きところ」「清げな姿」「心におかしきところ」を、今の人々の心にも伝わるように、明らかにしてゆく。千百日以上の長い旅になりそうだが、途中で、くたばらないようにしたい。

 

古今和歌集には、仮名序や真名序があるが、これは撰者たちの和歌に付いての結論であるから、すべての歌を当時の歌論によって、聞き直し終えた時には、ほぼ理解できるようになっているだろう。今は、貫之のいう「ことの心」を「言の心」と読む人はいない。「この度の勅撰の事訳」とか「事の心」「事の意味」「物事の真意義」などと読んで、よくわからなくなっている。そのように序文を読んでは、砂を咬むような気分になるだろう。言の戯れの意味を踏まえて歌を全て聞き直し終えた後に、仮名序を読む事にする。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)


帯とけの「古今和歌集」巻第一春歌上(2)袖ひぢてむすびし水の凍れるを

2016-08-26 19:11:07 | 古典

               


                             帯とけの「古今和歌集」

                              ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 今の世に蔓延している和歌の国文学的解釈は、平安時代の歌論と言語観を全く無視したものである。「古今和歌集」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に、歌論と言語観を学んで紐解き直す。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上(2)

 

春たちける日よめる            紀貫之

袖ひちてむすびし水のこほれるを 春立けふの風やとくらむ

(袖浸して手にすくった水が凍っていることよ、立春の今日の風はとかすだろうか……身の・端ひちて、契り・結んだ女の、こほれるさまよ、春情たちのぼる山ばの京の、心風はとかしているだろうか)

 


 歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る。

「そで…袖…衣のそで…端…身のそで…おとこ・おんな」「ひち…浸る…濡れる…泥…ぬかるむ」「むすびし…掬んだ…手に掬った…結んだ…契り結んだ…情を交わした」「水…言の心は女」「こほれる…凍れる…凍っている…心に春を迎えていない…こ掘れる…まぐあっている」「を…対象を示す…感動・感嘆・詠嘆を表す」「春立つ…立春の日を迎える…春情のはじまり…張る立つ」「けふ…今日…きゃう…京…山ばの頂上…感の極み」「風…春の初風…(心に吹く)春風」「とく…溶く…融く…解く…硬くなっていた身も心もうち解ける」「らむ…推量する意を表す…想像する意を表す」。

 

巻頭の一首の清げな姿に追従して、同じ早春の風情を詠み添えて並べ置いた撰者の心。

歌の「清げな姿」は、袖濡れて手に掬って飲もうとした水が凍っていた、暦の立春の日は、水ぬるむ春よりも一足先に訪れた、早春の風情。

歌の「心におかしきところ」は、そでひちて、ちぎり結んだ女(おみな)は、いまだ心に春を迎えていなかった、硬かった身や心は、京の春の心風にとけるだろうか。エロチシズムの極致である。

 

俊成の評は「この歌、古今にとりて、心も言葉もめでたく聞こゆる歌なり」。歌を上のように聞けば、「古今の中にあって、深き心も、心におかしきところも、歌言葉の表向きの意味も共に、愛でたく聞える歌である」と読める。同感することができるだろうか。

 

今の人々は、おそらく、この歌の字義通りの「清げな姿」しか見えていない。歌の真髄に触れるためには、「歌の様を知り、言の心を心得る人」になる事である。併せて、言語感を同じくして、戯れの意味を知ることである。平安時代の歌は、貫之、公任、清少納言、俊成、この人々の歌論と言語観に学べばいいのである。


○紀貫之は、「歌の様」を知り「言の心」を心得る人になれば、歌が恋しくなるという。(古今集仮名序)

○藤原公任は歌の様(表現様式)を捉えている、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし」と。優れた歌には複数の意味が有る(新撰髄脳)。

○清少納言はいう、「聞き耳異なるもの、それが・われわれの言葉である」と(枕草子)。発せられた言葉の孕む多様な意味を、あれこれの意味の中から、これと決めるのは受け手の耳である。今の人々は、国文学的解釈によって、表向きの清げな意味しか聞こえなくなっている。

○藤原俊成は「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕われる」という(古来風躰抄)。顕れるのは、公任のいう「心におかしきところ」で、エロス(性愛・生の本能)である。俊成は「煩悩」と捉えた。

 

近世から近代、そして現代も、和歌の解釈は奇妙な袋小路に入ったままである。そこで渋滞する久しい間に、序詞、掛詞、縁語を修辞にして和歌が成立しているかのように解き、それらは、古語辞典にまで大きく根を張って、蔓延してしまった。しかし、和歌は、そんな単純な代物では無いのである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)