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帯とけの拾遺抄
藤原公任『新撰髄脳』の優れた歌の定義「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って『拾遺抄』の歌を紐解いている。
「心におかしきところ」が蘇えれば、和歌の真髄に触れることができるに違いない。それは、歌言葉の多様な戯れの意味の内に顕れるようである。
拾遺抄 巻第五 賀 五十一首
(小野宮大臣の五十賀しはべりける時の屏風に) 兼盛
百七十六 わがやどにさけるさくらのはなざかり ちとせ見るともあかじとぞ思ふ
(小野宮大臣の五十の賀をした時の屏風に) 平兼盛
(我が宿に咲いた桜の花盛り、千年見るとも、飽きないだろうと思う……吾妻に、さいたおとこ花の花盛り、千年見続けても、貴身たちは・飽きないだろう、と思う)
言の心と言の戯れ
「わがやど…我が宿…吾が妻」「やど…宿…家…言の心は女…屋門…おんな」「さける…咲いた…放った」「さくら…桜…木の花…男花…おとこ花」「はなざかり…花の最盛期…おとこ花の盛り」「ちとせ…千年…千歳」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「あかじ…飽きないだろう…飽き満ち足りる事は無いだろう」
歌の清げな姿は、我が家の桜の花盛り千年花見していても飽きないと思う。
心におかしきところは、五十歳、おとこ花の盛り、やどもきみも・千年見ていても飽きないだろうと思う。
歌の清げな姿から、賀の意味を汲み取り憶測することが歌の解釈ではない。
歌言葉の戯れに顕れる「心におかしきところ」が、人の心に入り、心をくすぐるのだろう。大臣は笑って応じ、聞く人々も和むだろう。これが賀の和歌である。
おなじ人の七十賀し侍りけるに竹の杖をつくりて侍りけるに 能宣
百七十七 きみがためけふきる竹のつゑなれば まだつきもせずよよぞこめたる
二十年後同じ人(小野宮大臣・公任の祖父)の七十歳の賀したときに、竹の杖を作ってあったので、 大中臣能宣
(君のため、今日切る生竹の杖なので、まだ突きもせず、節々ぞ・君の世々ぞ、込めてある……きみのため、今、生る、猛けのおとこなので、未だ尽きもせず、だらだら、夜夜に、入り込んでいる)
言の心と言の戯れ
「きみ…君…貴身」「きる…切る…生る…生の…新鮮な」「竹のつゑ…男の杖…貴身…多気のおとこ…長けおとこ…猛けのおとこ」「竹…男君…猛け…多気…長い」「つきもせず…(杖として)突きもせず…尽きもせず」「よよ…(竹の)節々…世々(年々歳々)…夜々…だらだらと長いこと」「ぞ…強く指示する意を表す」「こめたる…込めてある…中に入れてある」
歌の清げな姿は、贈り物の節の多い生の竹の杖を愛でている。
心におかしきところは、たけきおとこの長寿を言祝いでいるところ。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。