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帯とけの枕草子〔五十七〕よきいへ
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言 枕草子〔五十七〕よきいへ
よきいへ、中門あけて、びろうげの車しろくきよげなるに、すはうのしたすだれ、にほひいときよらにて、しちに打ちかけたるこそめでたけれ。
五位六位などの、したがさねのしりはさみて、さくのいとしろきに、あふぎうちおきなど、いきちがひ、又、さうぞくし、つぼやなぐいおひたるずいじんの出入したる、いとつきづきし。
くりや女のきよげなるがさし出て、何がしどのの人やさぶらふなどいふもおかし。
文の清げな姿
良き家、中門開けて、檳榔毛の車の白く清げなうえに、蘇枋色の下簾が色艶とっても清らかで、ながえを台にうち掛けてあるのこそ、愛でたいことよ。
五位、六位の男どもが下襲の裾を帯に挟んで、笏のとっても白いのに、扇をちっと添えて、行き交っていて、または、装束して、矢を入れる籠壷を背負っている隨身(警護武士)が出入りしている、とっても相応しい。
厨房の女の清げなのがさし出て、「なにがしどのゝ人やさぶらふ(某殿の人がですね、参上しておられます)」と言っているのも趣がある。
心におかしきところ
よき井へ、中の門ひらいて、上等な物、白く清げでないのに、蘇枋色の下すたれ色艶まったく清らかでないうてなに、うちかけているのは、愛でたいことよ。
五寝、六射の、下重ねの果てをはさんで咲くものの、とっても白いのに、合う氣を添えて、行き交い、またふたたび、いでたちして、つわものの付随の物が出入りしている、とっても突きづきしい。
めも眩むや、女の清げでないのがさし出て、「どの殿の人のご奉仕かしら」と言っているのも、おかしい。
言の多様な戯れを受け入れ、紀貫之のいう「言の心」を心得ましょう
「いへ…家…井へ…女」「門…と…女」「びろうげの…びらうげの…檳榔毛の…貴人の…高級な…上等の」「車…しゃ…者…もの…おとこ」「しろ…純白…白…男の色」「きよら…清ら…清浄でけがれがない…反語と聞いて・穢れている綺麗などとはいえない」「すはう…蘇枋…黒みがかった濃い赤色…貝の色はすはう(土佐日記二月一日)…女の色」「下簾…下すだれ…下す…女」「しぢ…車の轅の台…長柄(おとこ)の台(女)」「台…うてな…女」「あふき…扇…合う気」「五位六位…おとこども…五寝六寝…五射六射」「くりや…厨房…眩りや」「くり…くる…眩る…目が眩む」「女…め」「との…殿…立派な邸宅」「人や…人がですねえ…人なのかしら」「や…感嘆詠嘆の意を表す…疑問の意を表す」「さぶらふ…参上している…ご奉仕している」。
よき家に、貴人用の高級牛車で殿と呼ぶべき訪問客があった。その様子の描写と見えるのは文の清げな姿。
「心におかしきところ」がわかれば、おとなの女のための、あだ(婀娜・徒)な文芸であることがわかる。紫式部の清少納言批判は「艶で、あだになってしまった人の(文芸の)果て、どうして良いでありましょうか」で、正に正確な批判である。
道長に追い詰められた後宮の女房としてできることは、先ず、曇り暮らす女たちの心の憂さを晴らすことである。その動機には適っているでしょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改定しました)
枕草子の原文は、新日本古典文学大系 枕草子 (岩波書店)による