終結に向かっての日本の戦いの中で、
「 硫黄島の戦い 」は屈指の激戦地でした。
1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が、
艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始された。
上陸から約一カ月後の3月17日、
栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする
日本軍の激しい抵抗を経てアメリカ軍は同島をほぼ制圧、
3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が
玉砕したと発表する。
しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、
3月26日、
栗林忠道大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、
これにより日米の組織的戦闘は終結した。
日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、
20,933名 の守備兵力のうち
20,129名 が戦死した。
これは損耗率にして96%にのぼる。
一方、アメリカ軍は 戦死6,821名、
戦傷21,865名 の
計28,686名 の損害を受けた。
太平洋戦争後期の上陸戦での
アメリカ軍攻略部隊の損害実数が
日本軍を上回った稀有な戦いであり、
また、硫黄島上陸後わずか3日間にて
対ドイツ戦(西部戦線)における
ノルマンディー上陸作戦を含む、
アメリカ軍の各戦線・戦場での
戦死傷者数を上回った第二次世界大戦屈指の
最激戦地のひとつとして知られる。
http://www.youtube.com/watch?v=wc9Cq5CkUZY&feature=related
映画「 硫黄島から手紙 」
予告編 http://www.youtube.com/watch?v=9qKo9Lp5oUE
12日にテレビで放送されたようですが。
ストーリー [編集]
2006年、硫黄島。 地中から発見された
数百通もの手紙。
それは、61年前、
この島で戦った男たちが、
家族に宛てて書き残したものだった。
届くことのなかった手紙に、
彼らは何を託したのか----。
戦況が悪化の一途をたどる1944年6月、
陸軍中将、栗林忠道(渡辺謙)
が硫黄島に降り立った。
本土防衛の最後の砦とも言うべき
硫黄島の命運が託された。
着任早々作戦を変更し、
部下に対する理不尽な体罰を戒めた栗林に
兵士たちは驚きの目を向ける。
今までのどの指揮官とも違う男との出会いは、
硫黄島での日々に絶望を感じていた
西郷(二宮和也)に、
新たな希望の光を抱かせる。
硫黄の臭気が立ち込める灼熱の島、
食べ物も飲み水も満足にない過酷な状況で、
掘り進められる地下要塞。
張り巡らせたこのトンネルこそ、
米軍を迎え撃つ秘策だったのだ。
1945年2月19日、
ついにアメリカ軍が上陸を開始する。
その圧倒的な兵力を前に
5日で終わるだろうと言われた硫黄島の戦いは、
36日間にも及ぶ歴史的な激戦となった。
まだ見ぬわが子を胸に抱くため、
どんなことをしても生きて帰ると誓った西郷、
そして彼らを率いた栗林もまた、
軍人である前に夫であり父であった
61年ぶりに届く彼らからの手紙。
そのひとりひとりの素顔から、
硫黄島の心が明かされていく----。
今日15日正午より、日本武道館にて
戦没者追悼式が行われました。
戦争遺族者は60%が、70歳以上。
語り継いでいく、若い世代への継承の時間が
短くなってきました。
戦没者は約310万人。
参列者の世代交代は著しい。
20年前は戦没者の妻が2700人余と
全体の4割を占めたが、
今年の出席見込み者は43人(0.9%)で
過去最少を更新。
父母の参列は2年ぶりになかった。
一方、子どもは3180人と全体の
3分の2を占める。
孫を含む戦後生まれは
過去最多の451人にのぼった。
【朝日新聞】
<天皇陛下のお言葉>
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、
全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、
かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、
深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に66年、国民のたゆみない努力により、
今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、
苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお
尽きることがありません。
ここに歴史を顧み、
戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、
全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、
心から追悼の意を表し、
世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。