土塊も襤褸も空へ昇り行く:北村虻曳

随想・定型短詩(短歌・俳句・川柳)・写真
2013/11/11開設

鉢合わせの挨拶

2016-11-30 | 随想
<鉢合わせの挨拶>
狭い十字路で、中年の男と20にも成らぬお嬢さんが、自転車でぶつかりそうになって止まった。
「何処見て行きよんじゃ。気いつけえ、ボケが。」
あらあら、よくあるパターンだ、と思ったが後の展開が少々違う。女性が
「何言うとんじゃ。偉そうに言いよって、お前こそどっち向いとんのや。気いつけんかい。」
雄弁に負けると感じたのだろう、男はブツブツ言って去っていった。

都市化とともに家の外で見知らぬ人と出会う機会が、昔に比べて格段に増えた。しかもまったく知らぬ人と出会うことが。

不愉快なのは混雑した駅などでぶつかりそうになったとき、舌打ちをするような人がいることである。しかも身なりの良い男に多い。こちらが少しずれていて、瞬間の身のかわし方が標準とあべこべなのかもしれないが、舌打ちはないだろう。

ヨーロッパではそんなとき、こちらが悪いと見えたときでも、「イクスキューズ・ミー」、「パルドン」などと言われることが多い。「失礼」とか「ごめんやっしゃ」である。日本で余りやらないので、僕もあわてて遅れて返している。思うに、ヨーロッパは、民族、風習など日本よりもはるかに均一性のない社会、トラブルを起こすとどんな面倒が起こるかわからない。くだらんエネルギーを使わないように、自然に口に出して謝る風習が発達したのだと思う。日本も最近はいろいろな土地からやってくる人が増えた。それに応じてマナーを変える必要がある。

一方で、欧米人は利害に直結するときは、絶対に謝らないそうだ。一方、日本では謝らなくてもいい場面でも「すみません」が常用されている。責任ということが曖昧なのか。ただし、日本でも自動車運転者の間では謝らないということが常識とされていた。賠償の時に謝ると自己責任の比率が上がるからだ。

日本人独特の礼儀は、人前を横切るとき手刀を切ることに現れる。手のひらを立てて姿勢を低くして通ることである。前を通ることが失礼という考えがあるからだ。海外でもうっかりやってしまうが、日本人にしか通用しないそうだ。

これは他人の視線を尊重し、あるいは恐れているからであろう。僕も基本、不躾に眼を見つめ合うことはしない。誠意がないと言われてもそれは違う。もう少し根が深い。毎度念を押し、確認していく話し方を好まないのである。日本人ほどではないだろうが東洋人に強い傾向である。

確認が不可欠な場合はある。人と話すことが共感を分かち合うより、互いの領分を決める話し合いや要望のような、いわば契約を目指す場合だ。社会の多様性がそれを要求している。僕自身も仕事をするにつけて、自分の自然と離れて念を押すことが増えてきた。退職してまたもとに戻っているが。

不思議なのは自転車に乗った近年の若い人たちだ。狭い十字路で自転車同士があわや衝突という危機を免れて両者が止まったあとだ。ふたりともまったく無言、ニコリともせず無表情にまた自転車にまたがり去っていくのだ。「すみません」とか、「あ、びっくりした」、「気いつけてや」など一切ないのである。これをしばしば見かける。前から来る自転車に道を開けても、車体が身体をこすっても挨拶がない。無駄ということであろうか。いや、やみくもに関わり合いを避けるというのが正解であろう。冒頭に挙げた「事件」は非常に稀なのである。まあそこまで熱くならなくても良いが、「ごめんやっしゃー」ぐらいは交わしたいものである。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 維新派「アマハラ」 | トップ | 数学って何だ・・・・・数学... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿