土塊も襤褸も空へ昇り行く:北村虻曳

随想・定型短詩(短歌・俳句・川柳)・写真
2013/11/11開設

赤い羊歯

2014-10-03 | 随想

1998年クリスマスから1999年正月にかけてのことであろうか、シドニー大学へ「blow-analytic」という特異点論における画期的なアイデアを与えた台湾出身のKuoさんと、数学オリンピックにも参加し、ルーマニアのサッカーのナショナルチームにも属した博才のPaunescuさんとの共同研究に出かけた。

国内でも徘徊することが好きなのであるが、外国の経験が少なく好奇心の強い私は隙を見てはシドニーの街を歩き回っていた。シドニーの年末年始は熱い夏である。シドニーに漢字「雪梨」を当てることもあるのだが、年間を通じて雪は降らない。「蝙蝠 II」でも述べたが、蝙蝠も落ちる暑さである。建築には砂岩を多用され、街全体の印象が熱い赤い色を帯びている。

シドニーは外国の大きな街としては治安がよく安心して歩けるのである。しかし「赤い羊歯」という少々気持ちの悪い名前を持つ地区の一角は、「ジャンキーが多いから一人では行くな」と教えられていた。実際そこはシドニー大学に近いので、大学図書館の利用者の安全をはかって夜の遅い時間には駅まで特別の護送バスが出るのである。私はそのときは、なみはずれてチープな大学の留学生用施設であるインターナショナル・ハウスに泊まっていたが、「いま疑わしい人が付近を歩きまわっているので注意」などという放送が流れたこともある。

インターナショナル・ハウスの食堂では、朝は皆が顔を合わすのであるが、教員らしき者は私を含めて風変わりな2人だった。もう一人の風変わりは、黙って食パンをやたらとたくさん積み上げていた。学生はヨーロッパ系やアフリカ系などカラフルであった。南アジア系の女子学生が実にうまそうな匂いを放つハーブたっぷりのカレーを共同炊事場の鍋にかけていたこともある。クリスマスには学生の馬鹿騒ぎもあったが、私がはりこんで共用冷蔵庫においたビールも飲まれてしまっていた。なんといっても多いのは、日本人と区別のつかない中国系の女子学生であった。私は幸い、台湾の尼さんという中国系女性のボスに認められて、食卓ではその仲間に入れてもらっていた。

ある日、「赤い羊歯」の一角で面白い物が出るバザールが開かれるという情報を得た。馬鹿な私は忠告を無視して出かけた。その地区の中心に近づくと「Say No to Drugs」と書かれたでかい看板がビルの上に立っていたが、下手な字で「Say Know to Drugs」と修正されていた。やるなあ。

駅の近くの歩道には20人ほどの若者がたむろしていた。若者と言っても少年から年嵩までかなり幅のある一団だった。日本では裕福になるにつれて見かけなくなったが、こういう集団は土地の遊び仲間なのだ。歩道が占拠されているので、少し怯んだが露骨に反対の歩道に渡るのもなにだし、というわけでその一群を突ききった。すると案の定、二人が一群をはなれて私のあとに付いた。角を曲がるとそのとおり付けてくる。「よう、兄ちゃん、ジュース飲むか。」「要らんよ。」「煙草はどうだい。一服しようぜ。」「要らんよ。」「おい、こいつは移民みたいだぜ。」下手くそ英語がバレたみたいだ。どうも嫌な感じになってきた。私が手に持っているのは日本ではぼろなカバンだが、布製で一応取っ手が付いているから、ほとんどがビニール袋で済ませているこの地では紳士の持ち物となる。買い物に備えてパスポートも入っている。これを盗られて帰国が遅れると休講の分の補講責めでうるさい大学が恐い。初めて歩く街だから地理不明。下手に歩くと追跡者の縄張りの路地、袋小路に入り込む恐れがある。幼少時にイジメられた感覚が戻ってきた。

戻るのも彼らの仲間が増えそうなので、早足でできるだけ広い路を選びながら、見当で隣のセントラルの駅を目指す。1km以上歩いて広い道路に出た。目指すセントラルの駅も見えてきた。もう少しで逃げきれると思ったその瞬間、二人のうちの細い白人の方が私の鞄をひったくって車道を渡ろうとした。こちらも百も承知だから、彼は奪うことが出来なかった。奪って信号が変わって一斉発進する車の直前を渡り追跡を振り切る計画だったのだ。もう一人が私の前に飛び出した。彫りの深いアボリジニーで背は高くないが、がっしりした強そうな男であった。威嚇・牽制役である。私の左手の鞄を巡ってにらみ合いとなった。通行人はおらず、巾の広い道路の向こうに一人の住民が心配そうに見守るだけである。60男の右手一本で相手の一撃を防ぐにはどうするか考えながら虚勢を張った。相手も恐いが、パスポートを盗られると上述のように大阪の勤務先も恐いからね。幸い、細い方は近寄らずウロウロするだけである。しばらく膠着状態の後、無理をしても割が合わないと判断したのだろう、二人揃って古巣の方へ走り去っていった。こちらも大急ぎで駅に向かった。

Kuoさんの家に呼ばれてPaunescuさんと二人に顛末を話した。Kuoさんが「カラテ」と言って喜んでくれた。私が空手の達人に見えたのだろうということである。それ以来外国の街の一人歩きには服装の汚さに磨きをかけている。


写真はダーリング・ハーバー付近で記事とは関係ありません。
写真に写っている看板の「Tooheys」はビールの銘柄で、トゥウィーズみたいに発音するようです。私は「Tooheys Old」というのがエール・スタイルで特に好きです。上部にある「Tooheys New」はだめ。

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1 コメント

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Unknown ()
2014-10-06 01:22:33
上の写真で思い出したけど、オーストラリアでは歴史的に宿泊施設でないとアルコールが出せなかったらしく、ホテルの1階がいい飲み屋になっています。今でも小さなレストランでは飲めないところが多く、そういうところではBYOという表示がされています。bottle of your own つまり瓶の持ち込み可能ということです。だからレストラン街には bottle shop というアルコール専門店があり、そこで購入して持ち込みます。飲み屋のルールというのはお国柄があって難しいですね。
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