土塊も襤褸も空へ昇り行く:北村虻曳

随想・定型短詩(短歌・俳句・川柳)・写真
2013/11/11開設

カード盗難

2014-04-21 | 随想
 <カード盗難> (これは「29稀」「フェイスブック」に書いたものの再録です)

平成二一年八月、人魚の街コペンハーゲンで出会った出来事の報告です。なかなか巧妙なので旅行のときご参考にもなるかと思います。私には面白いばかりではなくて、二週間のヨーロッパ滞在中は、夜中に「チクショー」などと叫んで目覚めたりしていましたが。

★ 事故状況
八月十六日一九時過ぎ、コペンハーゲンの駅を降りて、大きな荷を持って予約したホテルを探していた。インターネットで、そのホテル街が安全でないことを知っていたので、駅に近いところ選んでいた。ホテルを見つけて入る直前、「僕もイタリアから来た」というとても陽気で、少々脳天気に見える男Aが握手を求めてきた。その前に、別のイタリアの家族連れに私の方から話しかけていたので、その仲間かと思い相手をした。
会話中、Aが突然「あっ、警官だ」と言ったので振り向くと、男Bが現れ、警察手帳のようなものを示し、Aにパスポート提示を求めた。「これは何事だ」と思って眺めていると、Bは「おまえも出せ」ときた。私はパスポートを提示した。次に財布を見せろと言った。これはどう考えても怪しいと思ったので、「ホテルに入ってからだ」「もう一度警察手帳を見せろ」等と抵抗し、人でいっぱいの歩道に荷を置いてしゃがみ、押し問答になった。しばらくやり合っている内に、急に「もういいや」という感じで二人は一緒に去った。やれやれとホテルに入ると、ズボンのポケットの、クレジットカード二枚、キャッシュカード一枚入りのカードケースが無くなっているのに気づいた。雑踏中、警官?相手のやりとりに必死なので、もう一人別の男が後ろから抜いたのだろうか?パスポートを取り出すとき落としたところを拾われたのだろうか?

★ 届け
電話でカード盗難を届けようとしたが、デンマークのホテルはデザインが美しくて、焦っている身には、明かりをつけるスゥッチを探すにも暇がかかる。日本のカード会社は時間外で、アメリカにかけると英語は聞き取れず、間に通訳が入るなど、届けに苦労した。その過程で錯覚が生じ、一枚のカードの届けを忘れた。
被害の夜に、現地警察にも届けにおもむいたが、警察の周りも暗くて、辻君や怪しげな人物ばかりがたむろしていて、気持ちいいものではなかった。しかしこの届は後の手続きで役に立った。
翌日、日本の銀行のカードのセキュリティから「二十七万円不審な引き出しがあったので、その後はカードを停止した」との連絡が、奈良の自宅にあった。

★ 暗唱番号を盗まれた経緯の推測
カードが取られても、暗唱番号が知られなければまず被害はないのだが、私の場合はどうして番号まで盗まれたのか。
話は前後するのであるが、事件の一時間ほど前、到着したデンマークのコペンハーゲンの飛行場の駅で、市内へ出る鉄道切符を購入しようとしてまごまごしていた。男Cが現れ「こっちでクレジットで買える」と教えてくれた。言われるまま切符購入の列に並ぶと、その男は「こっちの方が早いと」少し脇の空いてる販売機を示した。そのマシーンで、手でカヴァーしながら問題のカードの番号を打ったが、カヴァーが不完全だったと思われる。このときの男の位置は不明。男Cはその後再び現れ、きょろきょろしている私に電車の乗り場を教えてくれた。実に温厚で親切な市民の顔をした男であった。彼が暗唱番号を盗み、電話で市中の仲間に私の姿・格好を教えたとしか考えられない。

★ 後思案
こう考えてくると、カードの扱いに慣れたやつを含めて、相手は最低四人は関わっていると思われる。分業や芝居の配役の巧妙さに感心するが、後から思えば不自然な点も多くあった。電車乗り場を教えに再び現れたこと。これは私がスムーズにコペンハーゲンに移動することが待ち伏せに必要だからだ。警察手帳のようなものに、西部劇のシェリフのように幼稚な星のマークがあったこと。二人揃って立ち去ったことなど。でもそのときは、次々生起する事態への対応に追われ、怪しいことを感じながら、うまい行動がとれなかった。今後も、大きな荷を抱えて見知らぬ街の暗がりに降り立ったとき、うまくかわす自信はない。

★ 被害
今回のように、暗唱番号を一発で打ち込まれた場合は、カードの保険は下りないのが普通であるようだ。注意深いことを求めるためであり、また本人が嘘をついたする場合との区別がつかないからであろう。しかし私の盗難報告の情況が汲まれたのか、十月に受け取ったカードの使用額のところに、被害額二十七万円は打たれていなかった。保険が下りたのだ。これで一件落着である。

★ 友人の被害例
この話をしていて聞くのは、こんな事件が本当に多発していることだ。私にはもう一つ、シドニーで二人組に1kmほどつけられて、最後ににらみ合いになりながら、なんとか撃退した話もある。
リュックの中身を後ろから抜かれたという話は実に多い。怖いのは、フランクフルト空港で後ろから大男に羽交締めされ、もう一人にポケットの物まで取られたような友達の例である。また心得た盗人は、小さい方の荷物を一つだけひったくって逃げるという話もある。大きな荷を置いて追いかけることはできないから。人から預かった荷をひったくられ、取り返そうとしがみついて、引きずり倒され、死んだ人もいるそうだ。でもブラジルに行けば格段に凄いようですぞ。私の友達はホールドアップでスニーカーまで取られたそうだ。
大阪という、それなりに怖い街で暮らしているが、まあ大丈夫。言葉や地理が分からぬところに行くと、とっさに間合いがとれず難儀なことになる。特に言葉は決定的に大切である

★ まわりの援助
クレジット会社の再発行のカードは、滞在のホテルに二、三日で届いたし、親しい友人多数が同じ研究会に出席していたので、金銭的にも精神的にも行き詰まることはなかった。またホテルには支払いをしばらく猶予してもらった。銀行カードのセキュリティには、帰国後もいろいろ親身に対応いただいた。これらの方に感謝しています。

     太虚(おおぞら)へ転がり落ちる節の穴

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写真撮影の友人について ()
2016-04-21 13:03:34
この写真はAarhusにある野外博物館の保存民家の前で友人が撮ってくれたものである。この友人はポーランドのクラクフの教授であるが、古い友人である。1990年京都で数学者の最大の会議ICMが開かれた。そのとき「お前がIか。会えて嬉しい。」と言って近づいてきた。ポーランドには、Lojasiewiczという僕の分野の大物がいて、この人物はその門下であるが、研究内容は僕と特に関係が深い。だから名前を覚えていてくれて、向こうから握手しに来てくれた。まんざらでもなかった。

ところがである。ICMが終了してまもなく彼から手紙がきた。「僕は果樹園をやっているのだが、強力なチェーン・ソーがいる。リョービのいいやつを購入して送ってくれ。」ときた。リョービ製作所だけは知っていたが、チェーンソーはまったく知らない。この依頼のための握手かとがっかりしたが、なにしろ前年に連帯による社会主義脱却を遂げた大変な国の人である。というようなあまり訳の分からない理由で購入を引き受けた。

日本橋で値段を含めて適当な店を見つけて送ることを依頼したが、自分で送れという。しかたがないので自分で梱包した。また英文の説明書がないので翻訳をつけた。機械の部品や性能の単語はまったくわからないので苦労した。とくに老婆心でキックバックについての注意に念を入れた。無事送金も届いて一件落着した。

その後どこかの研究会議で彼の親分のLojasiewiczに会うことがあり、僕が名乗ると「オー」と言って東欧式にハグしてくれた。その翌年だっただろうか2002年にLojasiewiczは亡くなった。仲の良かったローマ法王に会いに行き、その帰りに亡くなったそうだ。そして2004年にその追悼研究集会がKrakowで行われた。チェーン・ソーの友人は私を招待してくれた。そして世界でも屈指の歴史を持つJagiellon大学の宿泊所に泊めてくれた。ノコギリのご利益である。いやこれ以前にも熱心にヨーロッパへ誘ってくれていたし、ありがたく思ってくれていたのだ。彼はいまその大学の教授でおそらくLojasiewiczの後継者ということになるのであろう。
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